物語…虚構…世界…意味
「読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー)」「読書拾遺(シェイクスピア・ミステリー:承前)」と読書感想文を綴ったのが、つい昨日のように思えるけれど、早くも一週間が過ぎ去った。
というか、今年という年自体があと数時間で終わってしまう。早い! 追いつかないほどに時の過ぎるのが早い。
歳月の経つのが早いと感じるのは、年を取るごとに足の運びが遅いからなのか。
それともやはり、自分の生きていく先に何が待ち受けているかよりも、今や明日のことで胸が一杯で、来年、あるいは数年先の試験や入学や入社や結婚や何がしかの成功への足がかりを得ることで懸命で、日々の経過にもどかしさを覚えていた、そんな若い頃とは違って、とにかく日々をつつがなく生きるだけでありがたいと思えてしまったからなのかもしれない。
← 紫苑さんにいただいた画像です。これも見てね。ということで、皆さん、よいお年を!
先を展望しようと思っても、考えれば考えるほど出口なしになってしまう。
そうはいっても、35歳となってから書くことに生活の焦点を合わせるようになり、さらに40歳となって仕事自体、書くことから逆算して選んだ…。だから、この十数年は日々、必ず何かしら書くことを自分に課してきた。エッセイかコラムか読書感想文か、一番のターゲットである虚構作品を書くことで頭の中が一杯。
実生活ではタクシー業務で自分の精力のほぼ全てを傾注し、家では疲労困憊と磨り減った神経のゆえに抜け殻のようになってしまって、乏しい残り滓の精力を創作に注ぐ毎日。
日々、季語随筆を綴っている。あれこれネット検索や読書その他からの情報を頼りに調べている。瑣末な知識を探索しているように人には見えるかもしれない。
が、小生には知識を蓄えるという発想も狙いも全くない。自分の記憶力には受験生の時代などを通じてまるで期待しなくなっているので、日々調べて得たはずの知見は、基本的には書いた直後にさえ既に忘れ始めている。
それでもいい。
大切なことは、歴史や伝統、学問的蓄積を含めた森羅万象についてその都度、自分が探ろうとすること、接しようとすることなのだと思っている。
言葉への詮索という形にしか人様には見えなくても構わない。自分としては言葉へのこだわりの営為を通じて、その言葉の風景や情景を思い浮かべ、できれば自らの体験として追体験することこそが大切なのだ。
言葉は言葉に過ぎない。まして現代のように映像が、絵画を含めた静止した画像(写真)や動画(録画)、さらにはリアルタイムの映像さえネットを通じて閲覧・鑑賞することができる中にあって、言葉に執心する姿勢はアナクロニズムに過ぎないように映るかもしれない。
小生は、末期の時の、普段なら胸の奥に仕舞われている魂の裸の姿を想う。末期を命が絶える時と限定する必要はない。ぎりぎりに追い詰められた瞬間と限定してもいい。その土壇場、その刹那、その喘ぎ。そうした瞬間が言葉になるはずもない。
路傍の花や草だって、今になってさえも枝に落ち残る枯れ葉の姿だって、小さな命の数々だって、その丸ごとを表現する言葉などあるはずもない。
自分の掴みきれない想いも、その壊れやすい形のままに表現することも叶わない。
けれど、それでも最後の最後の瞬間に人は何か言葉を発する。その言葉は神か仏へのメッセージや懇願でもあろうけれど、同時に胸の奥に潜む誰かへのメッセージであるに違いない。
語り得ないことを語る。叶わぬ思いを伝える。その矛盾の中に人はいるのだと思う。
虚構作品や物語というのは、小生にはその矛盾に命を与えるもの、形を与えるものだと考える。
山の道を分け入って、つい道を踏み間違えて、自分の居場所を見失ってしまう。分け入っても分け入っても同じような光景の続く森の道。気が付いたら明るかったはずが日が落ちてきたのか、それとも一層、深い森の中に呑み込まれていって、樹木の折り重なるような枝葉の向こう側には陽が燦燦と差しかけているのかもしれないけれど、森の谷間の闇へ続く獣道に魅入られるようにして白昼の死角ともいうべき魔の世界へ迷い込んでしまう。
訳の分からない獣の鳴き声がする。時には吼え声だったりする。ヒルが落ちてくる。切っ先の鋭い葉先が腕を頬を切り裂く。足元は見えない。後ろも前も上も下も分からない。
裸の自分がそこにある。剥き出しの自然とは、こんなにも惨く呵責なものかと今更気づいても遅い。誰の助けも期待できない、自分など脆く危うく儚いだけの小さな存在に過ぎないと思い知らされる。世界が形を失っていく。圧倒する闇夜と眩しすぎる光の横溢。そう、目を閉じても心を閉ざしてさえも闇の魔の目が虎視眈々と睨みつけていて、逃げ場など脳みそのなかにさえなくなっているのだ。
流動する世界。モノたちの圧倒的な存在感。法律も規則も約束も自分を守ってくれるはずもないと気づかせられてしまった。自分でさえ自分が信じられない。ほんの少し集中力を切らし、緊張の糸を撓ませてしまったなら、呆気なくモラルハザードの起爆剤に自分が発火させてしまうかもしれない。
物語とは何だろうか。虚構作品を敢えて綴る意味とは何だろうか。
小生は虚構作品を織り成す場合は、自分の実体験とは離れた位相に自分が立っていることを感じる。いつかあんなことがあったと思って、それをネタに書こうと思っても、一端、一行か二行も文字を連ねてみると、そこには既に活字の持つ独特な存在感が小生を圧倒してしまう。
ほんの数行が己の存在を誇示し、小生の思惑など吹き飛ばし、虚構の世界特有の時空の論理が全てを差配する。たまにこんなストーリーを展開しようと思ったことがあったとしても、虚構の空間にはその世界特有の風が吹いている。その風が自分を何処へ運んでいくのか分からない。下手すると現実の世界よりも混濁した、圧倒するような現実の出来事の洪水よりも咀嚼の叶わない、ただたた文字通り風の吹くまま気の向くままの果ての異境の世界に紛れ込んでいくのかもしれない。
想像のあまりの高みに舞い上がって、ひと時は高みの見物の快感に浸っても、いつかは降りる瞬間がやってくる。降りる…と言いつつ、実際には吹いていた風が気まぐれにもパッタリと止んで、真っ逆さまに落ちるだけ。想像の翼は乗せるには都合がいいけれど、降りる時まで翼に乗せてくれて丁寧に地上世界へ、つまりは現実の世界へ滑るように戻してくれるほど優しくはない。
それでも、数行の書き出しからの虚構の旅は、その翼に乗らないことには全く始まらない。終わりの時、着地点を約束されない旅。想像の高みは、時の勢いで上っていったとしても、そのあとのことはまるで見えない旅。
物語が綴られていく。物語は活字の連なりの中で命を持っている。命を途絶えさせるわけにはいかない。生命力というエネルギーの流れに揺られ流されていくしかない。時代も世界も見えない以上は、自分の意思よりも願いよりも身の安全よりも、とにかく今は流れていく。舵などない。舳先がどっちにあるかも分からない。同舟する人も居ない。せいぜいが生命力の枯渇した己の心だけ。
それにしても、現代にあって物語りなど綴れるのだろうか。
最新の文学理論などを導入して仕掛けを駆使した現代文学を気取る。
それもいいのかもしれない。
ただ、自分にはできない。
小生は、世界を感じ、自然を感じ、現代を感じ、あるいは眩暈を覚え、空白に怯え、希薄な空気に喘いでいる。 挙句、実在感の乏しさの果てに肉体的存在感に逃げ込んでみたくなる。
それもいいかもしれない。
でも、飽きていることも事実。
肉体という名の一番身近な自然。脳という野蛮で身体の中でも一番深く身近である闇の森。空気を吸うだけで人は世界につながっていることを実感できる。モノの全てがリンクしていることを感じる。
世界はこの手にある。但し、支配など叶わぬ全貌の決して見えることのない世界がそこにある。
小説とは世界と対峙する武器なのかもしれない。
対峙というのは生意気か。むしろ世界の中にある極小の我にとっての、小説とは、唯一可能な世界を容れる器(うつわ)でありえるのかも、ということだろう。
来年のことを言うと鬼が笑うというけれど、虚構の中で世界をまるごと包み返すなら、その中に鬼だって蛇だっているに違いない。どうってことはないわけだ
読書拾遺の続きを書こうと思っていたけれど、訳の分からない夢想を提示することになってしまった。
でも、読書とは本を読むことばかりとは限らないだろう。
世界を読むとなると生意気だけど、いずれにしたって人は世界を解釈せざるを得ない生き物なのだ。世界に物語を与えずには居られない存在なのだろう。物語を綴り織り成すことで世界をほんの少し豊穣にしたいという欲望には抵抗できない獣なのだろう。
その本性のままに試みてみるまでである。
ということで、年内最後の季語随筆日記は、小生らしい呟きになったような気がする。意味などない。意味など求めない。今はただ淡々とやっていくだけなのだ。
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