手袋は心の形に似ている
今日の季語に「手袋」を選んだのは、昨日、分厚いビニールの手袋をはめて、ちょっとした作業をやったからである。
郷里に居る小生、父に言われ、内庭に向かう屋根の雨樋に溜まった松葉を取ろうとしたのだ。内庭のそこそこの樹齢となる松の枝振りが立派過ぎて、先日来の雪の重みで撓んで屋根の上にまで掛かり、松葉が屋根瓦の上に大量に落ちる。
雪のせいだろうか、常緑のはずの松葉も赤茶けた色になって、まだ枝にしがみついているものもあるが、雪を退けるとかなりの松葉が落ちている。雨樋にも溜まっていて、雪解けの水の排水を妨げる。
そもそも日中の最高気温が零度前後だから雪解けもしないようなものだが、実際には日中に晴れることもあるわけで、直射日光を浴びると雪解けする。流れないと水が凍って氷柱になったり、松の枝や松葉やこびりついた雪などが、うまくすれば日光を浴びて屋根からとけ落ちるはずの雪の落ちるのを妨げるのである。
アルミ製の梯子を屋根瓦に立てかけ、覚束ない足取りで梯子を上っていっての作業。怖くて下はあまり覗けなかったが、結構、高く感じる。
← 富山の家を出る直前に撮ったもの。昨日の雪が解け始めていたのが、夜のうちに降り出して一層、深く積もってしまった。
幾度となく梯子の位置を変えるため降りては場所を移動させ、梯子を上り、雨樋の松葉を取る。仕舞いには、止めの上まで伸びている庭の松の枝をノコギリで切り落としたりした。
そんな作業をするのには、手袋が居る。それも夏場なら草むしりの際などは軍手だろうが、冬だと裏生地の施してあるゴムやビニールの手袋でないと雪掻きにしても庭仕事にしても困る。
そうはいっても、帰省した折にほんの少し手伝うだけで、その日は雪掻きと松葉取りと食事の用意などで疲れ果てて、ダウンしてしまった。日頃、碌に体を使った労働などしていないのだ、雪掻きが好きだといっても、体が付いてこない。
雪はひどく降るというわけではないが、それでも、夜が明けてみると、道路の両脇を除いては雪が掻き消されていたものが、一面の銀世界に成り果てている。人が疲れ果てていようと、もう、勘弁してくれよと思っても、容赦なく降る。
そんな日々が豪雪が当たり前の頃は数ヶ月も続いたのだった。
しかも、その頃は、雪掻きだけは楽しさ半分でやっていたけれど、そのほかの雪吊りを含めた庭仕事の一切をしないで育ってしまった。今でも、ほんの時折、帰るだけなので、申し訳程度の手伝いをするだけである。一家の大黒柱ともなったら、ずっしり重たい責任が圧し掛かるのだろうけど、今はただ、目先の簡単な作業を片付けるだけで精一杯。
こんな風に書くと、帰省の折にのみ余儀なく手袋を使わざるを得ないようであるが、実際は、まるで違う。
小生は、二十歳の頃からのライダーなのである。多少のブランクはあるが、ライダー歴は合計すると四半世紀を超えているだろう。
オートバイに乗る際には、気分転換とか面倒だと思ってとか、忘れてしまったりといった場合を除いては、必ず手袋をする。今はそれほどではないが、昔のバイクは、素手でバイクの洗車をすると、何処かしらに尖がったところやバグがあって、すぐに切り傷をこしらえてしまう。
乗車中、エンジン周りを見る際にも、素手など論外である。走行中だって、ガードレールと車の間をすり抜けるのがバイクの宿命のようなものだし、その際、ハンドルを握る手には、ガードレールを食み出して伸びてくる並木の枝葉が擦れたり、ぶつかったりすることが間々ある。
ライダーにグローブは必需品なのである。
バイクの場合、手袋ではなく、グローブと呼ぶことが多い。
あるいは、グローブ以外の呼び方はしない。少なくとも手袋と呼ぶのは、オートバイに興味がなく、何かの折に話題がバイクのことに及んだ際、バイクの門外漢がグローブのことを手袋と呼んだりするのである。
手袋と称されると、ライダーはちょっと拍子抜けする、が、知らない人間だもの、仕方ないよなー、である。
ライダーになりたての頃は、バイクも中古ならヘルメットも変てこで、服装もありあわせだった。ブーツもズックのようなものを代用していたし、グローブも、まさに手袋だった。
というのは、スキー用のグローブを代用したり、冬だと、まさに毛糸の手袋であって、いつだったか、誰かが毛袋だ、などと言ったことがあったが、「毛袋」だなんて、ちょっときわどい、誤解されかねない表現ではある。
その後、バイクの趣味も昂じてしまって、服装も(装備品も)オートバイ専門店で買い揃えるようになった。ブーツからヘルメット、ジャケット、パンツと、それぞれに拘って選ぶのだが、グローブも物色していて、決めるにはなかなか迷ってしまう。用途に応じて幾つもグローブを持っていて使い分けるわけにもいかず、冬用と春から秋まで用の二種類を所有するのがせいぜいである。
オートバイのグローブについては、ヘルメットなどと同様、これだけでちょっとしたエッセイが幾つも書けそうなほど、あれこれ思うことがあるが、今は自重しておく。
このように、ライダーたる小生は、手袋と言う前にグローブなのである。しかも皮製。その意味で、俳句の季語としての「手袋」とは、やや意味合いも光景も違うのかもしれない。
冬12月の季語としての「手袋」というと、やはり毛糸で編んだものであり、とにかく手編みが一番最初に光景として浮かんでくるのではないか。
子供の頃、冬が近づくと貰った手袋は母が編んだものだった。段々、それがダサく思えて、あるいは忙しくなってお袋が構う暇がなくなって、経済的な余裕もあってか、店で買う手袋に変わっていく。
紛失を避ける意味があるのだろう、子供用の手袋は手首のところで両方がつなげられている。手から外すと首からぶら下げたりする。
それから思い出すのは、手袋で作って遊ぶ人形が部屋の中、教室の中での娯楽となっていた。
娯楽と言うと、大袈裟かもしれない。暇の徒然の、ちょっとした遊びに過ぎない。けれど、わけもなく楽しかったような気がする。
ネット検索してみたら、「暮に大活躍する軍手 軍手活用術と手袋人形の作り方」といったサイトが見つかった。
手袋人形などといった正式名称(?)もあるのだろうか。
探したわけではないが、遠藤ますみ 著の『ほのぼのてぶくろ人形』(NHKおしゃれ工房)なんて本も見つかった。
「手袋人形・指人形」というサイトも見つかった。多彩な人形の数々にびっくりである。「おはなし会をされていらっしゃる皆様はもちろん、ご自分のお子さんに手袋人形の楽しさを体験させてあげてみませんか。きっと目をキラキラさせて夢中になりますよ。」という謳い文句も、小生など真に受けてしまう。
手袋については、「手袋 - Wikipedia」が「指1本ずつ覆うようにできているものを手袋と呼び、親指を除く指をまとめて覆うようにできているものをミトンと呼ぶ」などから始まって、全般的なことを教えてくれて覗き甲斐がある。
小生など、「日本語でグローブというと一般的には、野球の道具を指すことが多い」という記述を読んで、ああ、肝心なことを書き漏らしていると気づかされたのだった。
ガキの頃は、草野球が大好きだった。高校三年までは、休み時間ともなると、雨でグラウンドが使えない場合を除いては、校庭でソフトボールで遊ぶのが常だった。草野球での思い出も、グローブを焦点に絞ったとしても、あれこれ書き連ねる話題がありそう。
上掲の頁の途中に「手術や鑑識の際に着用される医療用のラテックス製の手袋は、オーストラリアのアンセル社が開発した」という記述がある。幾度となく手術したことのある小生には、医療用の手袋というのは、心穏やかには見ることが出来ない(この件についても、稿を改めて書いてみたい)。
こうしてみると、「手袋」を題材に本の一冊も書かれているだろうことは容易に想像できる。
手袋は所詮は道具の一つなのだろう。用がなくなったら捨てられるか仕舞われるか、何処かに忘れ去られるか。靴下と同様、使い捨て。
でも、たとえほんのひと時であって指と手と、そしてきっと心をも覆っていたのは間違いないのだ。
好きなのと一色の文字なぞる指
覆う手袋ただただ愛し
手袋への思い入れも人それぞれにある違いない。「手袋」を織り込んだ、あるいは手袋のある光景を詠んだ句も「手袋は手のかたちゆゑ置き忘る」(猪村直樹/『二水』)など、少なからずあるだろうと予想される。紙面が尽きたので、例示はしないが、関心のある方は探してみるのも楽しいだろう。
もっといいのは、句作を試みることだけれど。
(それにしても、「手袋」は冬の季語のようだけど、「グローブ」となると、どうなのか、分からない。)
指人形仕草で告げる思いかも
指人形作り損ねて絡む指
手袋やかたちのままにそこにある
手袋を取って見えるは赤い指
グローブをはめて心を引き締める
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