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2005/12/20

葛湯から古代を想う

 以前、この季語随筆「風天居士…寅さん」でフーテンの寅さんを扱ったことがある。
 フーテンなんて言っても今時の人に通じるかどうか。風俗店の略称か、なんて誤解されるかもしれないが、(正しくは?)「風天」か「瘋癲(ふうてん)」のいずれかである。
 意味合いは、リンク先で説明してある。

 そのフーテンの寅さんは、東京は葛飾・柴又の生まれ育ちということになっている。
 葛飾・柴又というと、都心からだと結構、東京の外れのほうというイメージが濃い。映画でも、荒川沿いの、何処かキューポラのある町を連想させるような、昨今の東京では珍しいような人情味のある町という色彩を漂わせている。
 それでも東京は東京なのだが、その東京にしても、江戸以来、繁盛した町というイメージがある。豊臣秀吉が徳川家康に江戸の地を与えられた時は、辺境の地であり、その地を家康が苦労の果てに切り拓いたという<常識>がある。
 尤も、さすがにその前に大田道灌という大名がいて、もともとの江戸城というのは、大田道灌が築いたのだということは知られている。ただ、「道灌の死後、朽ち果てたままになっていた江戸城を本拠とし、立派な城とすべく修築に着手したのが徳川家康(1542~1616)」だったのだと強調されるのが常である:
江戸net 江戸謎物語 太田道灌VS徳川家康」などを参照のこと。

 しかし、江戸に限らず関東の地、それどころか東北や北海道も中世を超えて古代から西日本に負けない独自な発展と国内外の交流の積み重ねがあることなどを、「黒曜石から古今東西を想う」の中で、森浩一/網野善彦著の『日本史への挑戦―「関東学」の創造をめざして 』(大巧社)なる書に言及する形で触れている。
 といっても、あまり丁寧には紹介できなかったので、ここでもう少しだけ本書に触れておきたい。
 というのも、本書の中で、葛飾と葛西の関係に気付かせてくれたのである。
 小生、今まで、「葛飾」と「葛西」の領地名の「葛」という漢字が共通していることに、まるで思い至らなかった。小生の中では「葛西」という地名は、なんとなく新しいという先入観があったし、居住や生活という点では馴染みのあまりない地でもあったからだろう。

葛飾区のあゆみ」を参照させてもらうと、「葛飾」という地名は古代に由来する由緒あるものと分かる。
 ちなみに、柴又(しばまた)も、古代には近辺に「嶋俣」という地名があったようだから、そこから転訛(てんか)した地名なのかもしれない(憶測であり、未確認)。
 葛飾というのは、古代(奈良時代)では、「その範囲は現在の葛飾区をふくむ江戸川流域とされている」という。
 平安時代になって、「都では藤原氏を中心とする貴族政治が栄えた」頃、「葛飾地方は恒武平氏の流れをくむ葛西一族などの武士によって支配されていた」という。

 上掲のサイトの「中 世」の項を覗くと、その冒頭に「平安末期から鎌倉時代になると、中央政府の威信は全く地に落ち、国府や国分寺などを中心に構成された地方文化は自然に解体した。この混乱期に乗じて各地に権門をほこる豪族たち、とくに関東地方においては「坂東武士」と自ら剛勇をほこる武士団が勃興した。もちろん葛飾地方にも多くの豪族たちがはいりこんできたが、このうちもっとも勢力をもった人に葛西氏一族がある。」と記されている。
 この「この混乱期に乗じて各地に権門をほこる豪族たち、とくに関東地方においては「坂東武士」と自ら剛勇をほこる武士団が勃興した」という説明は、教科書を含め、常識のように施されるようだ。
 これだと、中央政府の威信の低下の隙を縫って中央から僻遠の地でいろいろな勢力が生まれ勃興していったという印象を抱かされる。
 確かにそういう一面はあるが、そもそも古代より、あるいは歴史文書に記録の残る以前より西日本に比して巻けず劣らずの、但し稲作中心の西日本とは違った風土性に根ざした文化や伝統が築かれていたという面が忘れ去られてしまう。

 さて、その「葛西氏は千葉、豊島ら諸氏とともに平家の流れをくむ武将で、中でも葛西三郎清重は葛飾地方にとってもっとも関係の深い人であるが、鎌倉幕府の重臣として将軍家の信任厚く、葛西(葛飾、江戸川両区と墨田、江東各区の一部)の地3,500町歩を領していた。」のであって、「晩年、葛西氏は奥州総奉行として同地にあったが、その子孫は豊臣氏のため滅ぼされ正系は絶えた。」というのである。

 歴史は一気に飛んで「近 世」に至る。すると、「葛飾区を今日のような発展にみちびく基礎を築いたのは、やはり江戸時代になってからといえる。」ということで、「天正一八年(1590)徳川氏が江戸に移り、関ケ原の戦いによって豊臣氏を滅ぼし、慶長八年(1603)江戸に幕府を開いたことは、近世史上大きなできごとであった。徳川幕府は手はじめとして、江戸市内はもちろんその周辺地区の開こんを進め奨励した。うちつづく戦乱のため、荒廃した葛飾地方も各所で開拓が行われ、四つ木、奥戸、小菅、細田、小合などの新田村が成立した。」ということになる。
 この場合でも、確かに徳川氏が江戸の地に移って葛飾を含め、江戸の地を一層発展させたのは事実だが、だからといって、大田道灌を含めその以前からの開拓・開墾の歴史を軽視はできないように思う。
 今回は、歴史にあまり踏み込まないが、その代わり「葛西城址」などで思いを遥かに馳せてみたらどうだろう。

 さて、ようやく季語随筆であるこのブログの本題に入る。こんな話を持ち出したのは、「季題【季語】紹介 【12月の季題(季語)一例】」を眺めていて、どの季語(季題)を本日の表題(テーマ)に選ぼうかと迷っていたら、ふと、「葛湯」に目が留まったからである。
 まあ、「葛湯」「葛飾」「葛西」と、「葛」繋がりという、小生らしい単純といえば単純な、極めて分かりやすい、ストーリーが浮かんだというわけである。
「葛湯(くずゆ)」というのは、「俳句歳時記(宝石箱)」によると、「葛粉に砂糖をいれ掻き混ぜながら熱湯を注いで作る飲み物」のこと。
 決して菖蒲湯などのような、銭湯のお湯の名称の一種ではない。

 ついでながら、江戸時代(文化文政頃)には、葛湯や「麦湯の他に、桜湯、玉子湯、あられ湯」などがあったとか。
 ちなみに、吉田松陰には「葛水(くずみず)や柳の陰の懸り舟」という句があって、その「葛水(くずみず)」とは、「葛湯を冷した飲料水」のことだとか。

 ここで、遅まきながら、「くず」という植物を見ておこう。「みともり 花のホームページ」の中の、「くず」という頁を覗くと、画像と説明が得られる。秋の七草の一つであり、葛湯のほか薬用にもなる。この頁を覗いて再認識したのだが、そういえば「漢方の葛根湯」なるものがあったんだ!
 ここでは、「真葛原 なびく秋風 吹くごとに 阿太(あだ)の大野の 芽子(はぎ)が花散る」という万葉集の中の歌(作者不詳(巻10-2096))のあることも教えてくれた。

奈良新聞 -Nice Nara-」の中の「万葉の景色 阿太野 写真と文 牡丹 賢治」なる頁がこの歌の鑑賞を丁寧にされている。画像もあるし。
「葛が生い茂る原に、秋風が吹くたびに阿太の大原の萩(はぎ)の花が散っていくよ」ということで、この歌では萩に焦点が合っていて、葛原は背景のようになっている。さすがに萩には負ける…。負けたからこそ、萩という名前ではなく、「葛(くず)」という語感も地味な名称に甘んじることになったのだろう…か。

国立科学博物館の研究活動」の中の、「野の植物100選」の、なぜか(秋の七草だから当然か)「秋」の項に植物としての「クズ」が詳しく扱われている。「クズは縄文時代から知られる有用植物で、秋の七草のひとつでもある」というくだりが嬉しい。
 それ以上に、「クズの名前は、大和(奈良県)の吉野地方にあった古い村の国栖から、この植物の根からとった粉を売りに来たことから、という説がある。また、『古事記』に「久須」として、また「真葛」としてクズのことが出ているという説もある。中国では、「葛」の名前で呼ぶので、中国の名前が先にあったのかもしれない。」という説明が助かる。

「奈良県吉野地方の吉野葛は有名である」というが、さて、「葛西」とか「葛飾」という地名に「葛」が用いられたのは、古代において「葛」その地において印象的だったからなのだろうか。それとも、「中国では、「葛」の名前で呼ぶ」ことからして、朝鮮半島を含む大陸からの渡来人が土着した名残なのだろうか。
 あるいは、「やせ地にも育ち、土砂が雨で流されるのを防ぐ働きがあるので、砂漠の緑化に使われる」ということで、「中国の砂漠に日本のクズを植える努力が鳥取大学の遠山先生を中心に行われた」というが、関東ローム層という火山灰の多い、痩せた地には葛が育ちやすかったのでもあろうか。

 今は根拠が何も得られていないので、ただただ想像を逞しくするしかない。いつかまた、古代や中世の葛飾近辺の「葛」をテーマとして採り上げてみたい。

 葛湯から古代よりの歴史を有する葛西や葛飾の地に思いを馳せてみたのだけれど、今日もまた中途半端に終わった。季語随筆というネットの旅は、まだまだ続きそうである。

 最後に、「葛湯」という季語の織り込まれた句を幾つか掲げておく。

 ネット検索していたら、「一握の雪を溶かして葛湯かな」という句が見つかった。作者は、長谷川 櫂(はせがわ かい)氏という俳人。リンク先を覗くと、長谷川 櫂の清冽な句の数々を楽しむことが出来る(小生には発見の頁だった)。
 さらにネット検索すると、「葛湯掻く母の手元を見る夜かな」(八木美津江)なる句が見つかる。そこはかとなく郷愁の念を誘う句だ。
 
 さらに…以下の句が幾つかのサイトで引用されていた:

あはあはと吹けば片寄る葛湯かな     大野林火
うすめても花の匂の葛湯かな     渡辺水巴
夕空の美しかりし葛湯かな     上田五千石

葛湯呑む手のぬくもりも忘れずに
遠い日の葛湯の湯気の目に温(ぬく)し

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コメント

文中でフーテンの寅さんを引き合いに出している。偶然だろうが、昨夜、NHKラジオで、まさに寅さんのことが話題に上っていた:
( ふれあいラジオパーティー
「わが心の寅次郎」
数学者…秋山  仁
タレント…森川由加里
BS映画劇場支配人…渡辺 俊雄 )
ユニークな数学者の秋山仁氏に元(現在も?)映画監督の山本晋也氏がインタビューする形で、テーマは「寅さん、数学する」か「寅さんの生き方や言動に数学的発想を見る」的なもの。
その詳細を語る時間的余裕も能力もないが、なかなか楽しい話だった。
いつもながら思うが、山本晋也氏のインタビューぶりは見事だ。各界の多彩な面々を相手に、うまく話を引き出す。よほど素養があり勉強しており頭がよく、話の間合いを取る勘が優れているのだろう。
と言いつつ、監督の映画は一本も見たことがない。

投稿: やいっち | 2005/12/21 20:08

正月ともなると、寅さんの映画が思い浮かぶ。あまりに久しく正月映画の定番だったからだろう。新作が出るはずもないのに待ち受けていたりして。
昨夜、ラジオでも二度、帰宅したらテレビでも渥美清さんの歌った「男はつらいよ」(作詞:星野哲郎: 作曲:山本直純)を聞くことができた。
この曲は息の長い曲なのは間違いない。
小生には寅さんは身に抓まされる存在なのだ。

投稿: やいっち | 2006/01/03 08:39

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