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2005/12/30

山崎方代の周辺…甲斐つながり

 昨日の日記(レポート)「丹沢湖・中川温泉へ行って来た」にあるように、恐らくは二年ぶりに温泉へ行って来た。この中川温泉は、武田信玄の隠し湯の一つと紹介されることが多い。
東京新聞 中川温泉(神奈川県) 丹沢に抱かれた“美人湯”」によると、(中川)「温泉の起源は古く、戦国時代、武田信玄が小田原城攻めや金山採掘の際、傷兵の治療に使ったと伝えられ、別名「信玄のかくし湯」とも呼ばれる。」という。
 信玄の隠し湯といっても、信玄自身が入ったかどうかは、定かではないのかもしれない。
 ただ、「中川温泉の湯はpH10」に近く、アルカリ湯のなせる業か、皮膚の分泌物を流したり、「戦国期の傷兵や山男たちを癒やし続けた」ようではある。
 小生らが泊まった宿も、「近代に入り、一九一〇(明治四十三)年、地元で農業を営んでいた、井上近次郎が自噴の源泉の横に、旅館(現・信玄館の前身)を建てたのが、温泉地としての始まりとされ」、「今も信玄館玄関前には、自噴源泉と、かつて使われていた露天風呂が残る」という。

 さて、温泉宿へ来たのは忘年会も兼ねていて、雑談に花が咲いたが、そんな中で友人の口から小生には未知の歌人の名前が出てきた。同じく歌人の吉野秀雄の薫陶を受けたという。吉野秀雄については、著書も読んで感想を綴ったこともあったが(『吉野秀雄著『良寛』』参照)、もしかしてその際にその歌人の名前も登場することがあったのかもしれないが、小生の記憶にはまるで残っていない。
[ あとで思い出したのだが、何処かで…吉野秀雄関連の記事の中だったろうか…山崎方代の名を目にしたことがあった。ただ、その時は山崎方代の「方代」をちゃんと読めなくて「かたよ」などと適当に読み、ああ、女性の弟子もいるのかな程度で流してしまったようだ。注意不足でもあり、探求不足だった。 (05/12/31 追記)]

 鎌倉ゆかりの歌人でもあり、地元(鎌倉)では彼を追慕し顕彰する会があったり、彼の歌への評価が高まりつつあるという。
 せっかくなので、その歌人・山崎方代(ほうだい)のことを調べてみた(実は、宿へ電子辞書を持ち込んでいて、検索してみたが、データが全く載っていなかった)。

中道町教育委員会」(山梨県東八代郡)の中の「放浪の歌人 山崎方代 年譜」が彼・山崎方代のプロフィールを知るには頼りになる。
 冒頭に「旧右左口村は、甲府盆地の南部に位置し、現在の東八代郡中道町に属する。生家のあった宿地区を通る右左口路は甲斐の古道の1つ。 一般に、中道往還と呼ばれ、甲斐と駿河を結んでいた。」とある。ここで生まれたとは書いてないが、ここが生地なのだろう。
 おお! 偶然なのか、それとも山崎方代という歌人の存在を持ち出した友人が、方代の生地が山梨(甲斐の国!)だったということを知悉していたのか、いずれにしても、話題が持ち出された温泉地や宿(なんたって、泊まった宿の名は信玄館!)とは山梨(甲斐・武田)繋がりとなるわけである。

「山崎方代は1914(大正3)年11月1日、父龍吉(65歳)、母けさの(45歳)の二男として誕生。八人兄弟の末っ子であった。「方代」という名は、長女くま、五女ひでこ以外の子供を亡くした両親が「生き放題、死に放題」にちなんで名付けたという。」のが面白い。ペンネーム風な印象を受ける名前だが、本名なのだった。

 山崎方代は12歳の頃に横浜は鎌倉へやってきたことがあるが、「1937(昭和12)年11月25日に母けさのが亡くなる。方代は翌年の2月、神奈川県横浜市の歯科医に嫁いでいた姉、関くまのもとへ父とともに引き取られる。方代、歌への志を胸に、右左口を発つ。」という。
 同時に、「方代は、1941(昭和16)年7月、陸軍東部第77部隊に入隊。昭和17年7月野戦高射砲第33大隊の一等兵として宇品港より出帆、シンガポール、ジャワ島、チモール島と転戦。昭和18年と19年の二度にわたり、チモール島クーパンの戦闘で負傷。1946(昭和21)年6月、帰還。負傷によって右眼は失明、左眼も視力0.01となっていた。」という経歴を持つことが彼の歌人として人生に影響すること大だったかもしれない。

 山崎方代の歌や人となりについては、「歌われた山梨の風土」の中の「山崎方代の「うた」-自他への傍観」や「私の気になる方代の「うた」たち」にかなりの数が紹介されている。
 このサイトの中の「手土産に思いをこめる-山崎方代」には「歌人山崎方代が逝って5年になる。晩年を過ごした鎌倉には、その人柄を愛する人々による「語り継ぐ会」があり、毎年夏には瑞泉寺で「方代忌」がもたれる。」とした上で、以下のようなちょっとしたエピソードなどを紹介してくれて、彼の人柄が彷彿としてくるようである:
「照れ屋の彼がよそを訪問する時には、かならず手土産を持参した。たとえ裏山で積んだ山菜の1掴みや卵1個であっても。
鎌倉の友人だった染色家秋山光男は、20歳になった娘が、町で会った方代に「大きくなった。何か買え」といって千円札をつかまされたことを泣き笑いの顔で思い出す。(「ザやまなし」1990・8)」

 エピソードというと、「青い鳥を求めて  こんにち わ 浅田 弘光 の ホームページ です」の中の「湘南の文人たち  山崎 方代」なる頁が「平成13年7月24日 日本経済新聞」から「平成16年9月19日 神奈川新聞」までの新聞の山崎方代関連記事を纏めて総覧できて、とても参考になる。
 以下の記事など、地元の新聞ならではのエピソードなのではないか:
「ある日、鎌倉小町通りから脇に入った酒亭で、当時、現代詩の仲間の一人と酒を呑んでいると、方代がこの店の常連のように入って来たのである。私たち二人は、その奇遇を喜こびあい、杯を重ねた。はじめは戦争で失ったという右目が痛々しくも感じたが、酔うほどに彼は饒舌になった。そして専ら私に問いかけてきた。
 ─文学をやっているのか。 ─ええ、いま現代詩をすこし。 隣にいるのは仲間です。」

 上掲した「中道町教育委員会」の中の「放代全歌集」が充実している。
「第四歌集 迦葉」の中の「父さんは藁穂を束ねてなんぼでも習字の筆を作ってくれた 」(いちご)とか「妹のささ代が死んで五十年天から雪がこぼれきにけり」(鉋)、「若くして母を失い父親は戦火の中に生き別れなり」(藪柚子 )、「夢の中に近づく父は無口にて叺の帽子をかむっている」(何処かで)、「明方の夢に出できし父上はめずらしく笑みをうかべていたり 」(藪柚子)、「冬の陽が真綿のように射し込んで大正三年も遠くなりたり」(人物)、「右左口神社は小さい石の祠にて馬の手綱をかけし石なり 」(辛夷の花)などを詠むと、長く鎌倉に住み暮らした山崎方代ではあるが、彼の生地への、あるいは父母の生地への望郷の念は一方ならず強かったのだと思わせられる。
(「叺(かます)」は、「わらむしろを二つ折りにして作った袋。穀物・塩・石灰・肥料などを入れる。かまけ。」←「かます 0 3 【▼叺】 - goo 辞書」より。)
 なんといっても、山崎方代は上記したように、「父龍吉(65歳)、母けさの(45歳)の二男として誕生。八人兄弟の末っ子であった」のであり、方代(放題)も、父母の愛情や思い入れの強さを逆に裏書しているのだと思われるのだ。

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コメント

放代さんの歌と人となりについて、いろんな切り口から調べられており大変参考になります。
この中で、中道町教育委員会の「放浪歌人山崎放代年譜」が頼りになると、引用もされていますが、もとになる「中道町教育委員会」「放浪歌人山崎放代年譜」の資料や出版物を探しているのですが、見つかりません。
この資料の正式名称(タイトル)と発行元などを教えていただけないでしょうか?

投稿: 渡辺 正敏 | 2010/09/06 18:16

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