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2005/12/13

屏風といえば…

 ぼんやり「季題【季語】紹介 【12月の季題(季語)一例】」を眺めていて、さて、今日は何しようかと迷っていた。
 某サイトでストーブの話題が出たので、「ストーブ」はどうかと思ったが、昨年大晦日に扱っている。
 一昨年までは、不具合のある電気ストーブを使っていた。暖房について強・弱の切り替えがあるのだが、数年前、強がプッツンしてしまい、弱しか機能しない。真冬になっても、弱だけで過ごさざるを得ない数年を送ってきた、それこそ、ウォームビズの先駆けのようなダルマみたいな格好で寒さをしのぎながら。
 それが、一昨年の冬早々、とうとう思い切ってストーブを買い換えたのだった。やったー、である。実際には強に切り替えることはめったにないのだが、強があるのだが、敢えて寒さを堪えて弱で過ごすのと、弱しかないから弱で耐えがたきを耐えるというのとは、気分的に天と地ほどの差がある。
 そんなことを書こうか、などといった目算は当てが外れてしまった。
 
 と、さらに上掲の表を眺めていたら、表題に選んだ「屏風」という季語があるではないか。
 屏風。
 小生だって、屏風がどんなものかくらいは、分かる。
 俵屋宗達作の「風神雷神図屏風」とか、尾形光琳作の「紅白梅図屏風」や「燕子花図屏風」がある、なんてことも知らないではない。
 学生時代になんとなく眺めていた教科書には、ほかに「鳥毛立女屏風」なんてのもあったっけ。

MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト - 屏風絵」で事典的な説明を求めておくと、「屏風とは、木枠の表面に布または紙をはった調度のことで、いくつも立てならべて間仕切りとして使用できる一方で、不要なときには折りたたんで撤去できるところが特徴である。こうした屏風にえがかれた絵画を屏風絵とよぶ」とか。

 が、しかし、分からないのは、何故に「屏風」が冬12月の季語なのか、ということ。
実用品というより装飾品として利用、本来風除けの道具で」、「金屏風 絵屏風 銀屏風 枕屏風 衝立」などの関連語がある、などと説明されても、ピンと来ない。
 ただ、今の説明の中に、「実用品」という言葉がある。
 玄関(や門)から部屋の奥が覗かれないよう、衝立(目隠し)として使われているとか、「いくつも立てならべて間仕切りとして使用できる」とか、まあ、実用(目的)は考えられる。
 が、冬の季語とは結びつかない。

 田舎の我が家にも、昔、衝立に近いような屏風があったように記憶している。玄関の上がり口近くにあって、玄関から茶の間へ続く廊下との仕切りとして使われていた。
 が、茶の間と廊下との間に蛇腹状のドア(仕切り)が設置されて、衝立は意味を成さなくなった。しばらくはそれでも置かれていたようだが、そのうち、邪魔になって仕舞われてしまったようである。

 この、屏風が何ゆえに冬の季語なのかという素朴な疑問、「ようこそ!加悦町ホームページへ [江山文庫]」の中の、「山の寺蕪村屏風を舒べて待つ   高野素十」の項で氷解。
 つまり、「部屋の仕切り・装飾品でもあることから、屏風は必ずしも冬に限って用いられる物ではありませんが、風除けという側面から、俳句では冬の季語とされています」というのである。

 やはり、風を避けるため、という実用性が風の冷たい冬なればこそ、一番意識されるということのようだ。
 それだったら、玄関の戸を閉めておけば、と思うのは、野暮の骨頂というところか。
 考えてみたら(考えてみるまでもなく?)、表記の「屏風」そのものを眺めてみれば、一目瞭然だったのだ。
「屏」は、「塀(へい)」と同義だし、そこに「風」が加わっている。風除け…。そのまんまなのであった!

 現代にあっても、きっと玄関が大きくて廊下も幅広く長いような家だと、衝立や屏風は置いてあるのだろう。恐らくは、「屏風絵一覧」に見られるような洒落た絵の付された屏風が来る人の目を楽しませてくれるのだろう。
 この頁の冒頭には、「屏風は中国より渡来して千三百余年、日本の文化と、永い歳月に洗練され、飾と実用を兼ねた調度品として愛用されてきました。風よけ、目隠し、間仕切りなど多様な機能を備えるばかりか、美術鑑賞の対象として、数多くの名画が残されています」といった説明が示されている。
 最初からこの頁を見つけていたら、あちこち説明を探し回らなくてよかったのだ。

「屏風」という語の織り込まれた句をネット検索で探してみる。
「絵屏風の平家滅びる方に寝る」(金谷信夫/『アイネクライネ』)が見つかった(「俳句を読む 2003.11.28」にて)。「仁子さん亡く、潤一氏も逝かれた。俳句は、滅びる方に寝るものなのでしょう。」という鑑賞。

 同じく、「俳句を読む 2004.1.3」にて、「西国や昼の屏風の向う側」(『北野平八句集』)や、「人の世の屏風の陰といふところ」(後藤比奈夫/『花びら柚子』)などを見出す。
 前者は、「屏風は逸民の必需品です。屏風の陰ならば、餅は見事なきつね色に焼けるのです」と、後者は「何かの裏側、俳句はその様なところを何時だって覗き込もうとしています」と鑑賞されている。

 同じサイトで、「金屏風何んとすばやくたたむこと」(飯島晴子/花神コレクション)を見出す。正月三が日が過ぎたから、さっさと屏風を仕舞ってしまうということなのか。せっかくの金屏風だけれど、埃の被らないうちに仕舞ってしまおう、堅苦しく形式ばったことは、息苦しいだけだ、ということなのか。

「あかあかと屏風の裾の忘れもの」(波多野爽波)や「運ばむと四枚屏風に抱きつきぬ」(後藤綾子)を「現代俳句データベース」で見つけた。
 前者はともかく、後者の意味合いが分からない。
 ネット検索してみたら、「老いてなどをれぬ椋鳥来る雨が漏る」という句などが後藤綾子には見つかる。
 理由や事情は分からないが、一人暮らしなのだろうか、家事の一切をあれこれしなくてはならない、雨漏りだって自分で手当てしなくちゃいけない、四枚屏風だって、用意するのも仕舞うのも自分でやるしかない、「老いてなどをれぬ」ということのように解されるが、さて。

 今となっては、装飾品・美術品的な存在になっていて実用性はさほど求められなくなったようだし、「屏風」という季語の織り込まれた句は、そんなに見つからないかと思っていたら、案外と見つかる。
 なので、屏風の句は、これまでにしておく。
 
 屏風というと、つい一週間ほど前、「山眠る…白き屏風」と題した季語随筆を綴った。富山は立山連峰を地元の人間なら、真っ白に輝く屏風と表現したくなる…。
 冬12月の季語である「山眠る」を扱っていたはずが、いつの間にか、市街地から眺められる立山などアルプスの峰峰の白き屏風を連想してしまう…。身贔屓もいいところである。
 富山に居住していた若い頃、あの峰の向こうに東京という街がある、遥かに遠い街…、そんな言葉にならない思いを抱いていたことを思い出す。
 いざ、住んでみたら、ま、そこには自分がいることには変わりはないのだった。


 屏風立つ彼方の夢を誘うよに
 屏風越し手が出る足も出る
 折りたたむ屏風の裏の置手紙
 屏風越しのはずの恋の忍びがたき

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