山眠る…白き屏風
11月に比べて12月の季語・季題例の多いこと。
少ないのも困るが、多すぎるのも目移りしてしまって、選り取り見取りなんて言っていられなくなる。「12月は季題が豊富にあります」に示したように、すでに相当数、昨年の12月に扱っているという事情もある。
それでも、表をぼんやり眺めていたら、なぜともなく「山眠る」に目が留まった。
なんとなく、昨年末はともかく、すでに触れたような気もする、のだが。
調べてみたら、「山笑ふ・花粉症・塵」(March 13, 2005)の中で、「山笑う」に連なるような季語・言葉ということで、「「山笑う」というと、「山眠る」(冬)「山粧う」 (秋)といった季語を思い浮かべる方も多いだろう」と書いている。
以下のように「山眠る」「山笑う」)「山粧う」 といった一連の季語について典拠を示している:
「西部医師通信 No.16」などによると、「北宋の画家・郭煕の 「林泉高致」 に 「真山水の烟嵐、 四時同じからず。 春山とう冶にして笑ふが如く、 夏山蒼翠にして滴る如く、 秋山明浄にして粧ふが如く、 冬山惨淡として睡るが如し。」 とあることから来ている」とか。
但し、「さきわいみゅーじあむ」の「今月の季語」の当該項によると、「出典は「臥遊録」の「春山淡治にして笑ふが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し」から」とあって、「春山とう冶」と「春山淡治」といったふうに、若干、表現が違う。
「春山澹冶(たんや」といった表記を示しているサイトもあったりする。
意味合いとしては、「珈琲とリスニングのバッハ,リスニング,隠れ家,スローライフ」の「季節のことのは・冬」に見出されるように、「雪を冠った山は、すっかり木々の葉を落としした冬山の景は、まさに「山眠る」です」ということのようだ。
もっとも、「今月の季語」の中の、「冬の山が、冬ながらの鈍い日差しの光のもと、草木も枯れ、閑散とし、まるで深い眠りに入っているように見えることを山眠ると表現しています」といった説明に見られるように、山眠るといっても、必ずしも雪化粧した山というわけでもなさそうだ。
考えてみたら、山間にあっても育っている樹木が杉や檜などの常緑樹の森だったりすると、木々が葉っぱを落としているというわけにはいかないだろうし、雪が降っていなければ、ずっと緑色を保っている地もあるのだろう。
ただ、それでも、山を眺める人が、凍えそうな手を吐く息で暖めながら、身を縮めていたりすると、山までが縮こまっている、体を硬く閉ざしているように見えることもあろう。
あるいは、山間の何処かの温泉宿の窓から窓外の山の景色などを眺めると、ピンと張り詰めたような空気の冴え、刺すような空気、吐く息も瞬時に凍りつきそう、などと、ついさっきまで歩いてきた道のりの寂しさ厳しさを思い返しつつ、感懐に耽ることもあったりする。
木々の樹皮など分厚い。皮がいかにも固そうである。夜も更けたりすると、月も星も目に痛いほどに輝く。天空の輝きがその光の切っ先を目の前にまで突きつけている、そんな錯覚に陥ったりする。
人恋しい。明かりが恋しい。肌の温もりがやたらと愛しい。それでいて一人であることが、妙に嬉しかったりする。この地上世界の寂しさを自分ひとりが占有しているように思えて、痛いほどの孤独感が贅沢の極みに思えてくるからだ。
山眠る。命までもが眠っている。情の焔がその炎の舌先を大地の下で突破口を見出せないままに燻っている。遥か遠くの人家の明かり。あの窓の明かりを覗くなら、人の暮らしがある。
鬱陶しい。でも、覗きたい。けど、遠くのままでありたい。
「ikkubak 日刊:この一句 バックナンバー 2004年1月26日」にて、以下の句を見つけた:
山眠る山の寝言を聞かむかな 多田智満子
「「山眠る」は季語中の季語とでもいうべき言葉。それだけに「山眠る」を詠んだ句は多いが、「寝言を聞かむ」と言ったのはこの作者が最初だろう」と評釈者の坪内稔典氏。
「眠る以上は、たしかに山も寝言を言うだろう。ともあれ、山の寝言を聞こうという気分に共感したとき、眠る山が急に親しくなった。そして、私はひとりでくすっと笑っていた」とも。
ユーモラスと受け取れるのは確かのようだ。
ただ、詠み手の心持次第とも思える。
つまり、詠み手が寂しい心持をどうにも持て余していたならば、「山の寝言」ということで、人の温もりが得られないなら、せめて山よ、お前という大地の胸の鼓動に耳を傾けてみたい、生きていることを感じてみたい、といった解釈が少々の無理を承知の上だが、できなくもないと思われたりする。
ユーモアを解し、ユーモアに満ちた表現の出来る人は、案外と寂しがりやだったりするように小生には見えるのである。
この「詩人の多田智満子は2003年1月23日に亡くなった」という。
山眠る…。山の動物たちも(熊など冬眠する動物は別として)眠っているわけではないが、その気配を感じがたくなる。人も、山に暮らす人以外は、影一つ見当たらない。樹木は葉っぱを落としているので、陽光を浴びていても、まるで素知らぬふりを決め込んでいる。
けれど、だからこそ、人恋しくなる。星でもいい、月でもいい、窓明かり一つでもいいから、心の闇を照らして欲しい。寂しい心を錯覚でもいいから暖めて欲しい。
ネットでは、「山眠りランプのごとく月が居り」(猿人)なる句を見出したが、そんな心持を詠んだ句なのだろうか。
さらに、ネット検索を続けたら、「恵那山を眠るごとくに見る馬籠」という句(2004年12月18日)に出会った。
地元の人間として恵那山を眺める人ならではの複雑な心境が詠み込まれているとは、日記を読まないと分からないかもしれない。
小生は今は東京に暮らしている。山の風景など、めったに愛でることはできない。郷里にあった高校時代、遠くは冠雪して白い巨大な屏風と化した立山連峰、近くにあっては呉羽のなだらかな山並みを真冬であっても眺め入ることができた。
富山の冬の雲が低く垂れていて、標高が百メートルもない呉羽山と接するかのようだった。
そんな山を眺めていた頃は、「山眠る」などといった表現を知るはずもない。ただただ、呉羽山の麓に住む人を想って熱くなっているだけだったのだ。
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コメント
つい最近までは雪の布団をかぶり山は眠るのだなと感じていましたが!ニセコに住んで以来、冬こそ山は起きている感じにカワッテしまいました。人それぞれの価値観により季節感も成り立つ感じがしております。伝統俳句の中央主権絶対制季語はどうにかしたいものです。
投稿: YODA | 2005/12/05 11:50
YODA さん、こんにちは。
>つい最近までは雪の布団をかぶり山は眠るのだなと感じていましたが!ニセコに住んで以来、冬こそ山は起きている感じにカワッテしまいました。
これは実感でしょうね。山を遠くから景色・風景として眺めるからこそ、「山眠る」といった形容表現が生まれる…、しかも、無邪気に味わいのある表現だと深く考えもせずに使ってしまう。
でも、一歩、その世界へ、山の生き物たちの息づいている地へ踏み入れていき、日々、その暮らしぶりに接したなら、山は時に眠り、時に起き、時に怒ったりもする。
そう、山は常に鼓動している。
YODAさんの記事を読むと、つくづくと思い知らされます。
俳句についても、季語は地域に根ざして改めて見直す必要がある。しかも、句を作る人に限っても、詠み味わう舞台は、今や日本だけじゃなく、世界に広がっているのですからね。
投稿: やいっち | 2005/12/06 13:39