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2005/12/18

黒曜石から古今東西を想う

 今年の年末は、ことタクシーに関しては不況が始まった97年(8月)年度以前に近い忙しさを経験している。お客さんを乗せて走って、目的地で下ろした先にお客さんが待っているという、息つく暇がないというと大袈裟だが、それくらいの繁忙である。
 但し、相変わらず長距離のお客さんはないので売り上げが目覚しく増えるというわけではないが、ただ、仕事を終えて帰宅の途に付いても、疲れの中に仕事をした(!)という充実感のようなものは味わえる。
 まあ、この数年が悲惨すぎたのだ。年末で忘年会などがあっても、夜半前に電車のあるうちに帰るか、そうでなかったら(若い人などは)何処かの終夜営業のレストランで朝まで過ごし、始発の電車で帰宅するらしく、夜半を回ると、めっきり人影が疎らになってしまっていたのだ。
 それが、この師走は人影が途絶えることがない。何処かしらに人の姿を見かけるし、交差点の信号待ちの間に前のお客さんの記録(下ろした時間と料金、地名)を付けていると、コンコンとドアを叩かれ、「乗っていいか」という仕草や表情を示して合図する。
 もう、信号は赤から青に変わる寸前だったりするし、後ろや脇からバイクが来るかもしれないと感じ、日報の記載も半端なままに、慌ててドアを開け、乗っていただく。

 そんな慌しさの中にあっても、本は手放せないし、ラジオには耳を傾ける。タクシー業務では、実車率が大切で一日の走行時間のうち50%を越える実車率だと、なかなか効率がいい営業をしたことになるし、売り上げもそこそこにはなる。
 まして、60%に近づいたりすると、上記したように息つく暇もないという感覚を味わってしまうのである。嬉しい悲鳴。トイレも、お客さんが途絶えた瞬間を狙って、あるいはそれほどトイレの用を覚えていなくても、公衆便所を見かけたら、とりあえず車を止めて済ませておく。
 食事も、今だ! と思ったら、道端に止めて、さっさと済ます(夜中は別だが)。
 そうしないと、いつ、どんなところでロングのお客さんに遭遇するかもしれないし、そうでなくとも、次々とお客さんが乗ってくると、いつになったらトイレへ行けるんだ、とか、腹が減って仕事どころじゃないよー、という文字通りの悲鳴を上げる羽目になってしまうからだ。

 そんな昨今、今週、車中で読んでいる本は、今週は「読書拾遺(サビニの女たちの略奪)」でも触れたが、森浩一/網野善彦著の『日本史への挑戦―「関東学」の創造をめざして 』(大巧社)である。

 レビューには、「日本の首都のある東京を含む関東は、いままでは一つの地域としてみる試みはあまりなされていないのではないか。僕が考えれば、関東には鎌倉幕府があり、江戸幕府があった。明治政府は関東で政府を開く理由もないのに東京に落ちついてしまった。それは偶然ではなく、もともとそういうことを引き寄せる潜在的な大きな力のある土地なのではないか。これまでの先入観を取り払って、「関東学」という骨組みができないだろうか」とある(恐らく森氏の話)。
 近畿に王権の中心があり、歴史は「日本書紀」以来、近畿などの西日本を中心に、稲作を意識しつつ叙述されてきた。
 稲作の遅れた地域、狩猟に拘り続けた地域、稲作以外の農事に重きを置く地域は遅れた地域として看做されてきた。
 が、実際には、九州などから大陸に渡るルートが古来からあったように、北陸(新潟)や北海道から大陸に渡るルートが、それこそ縄文の昔から(あるいはそれ以前から)あったわけで、何も西日本に依存しなくても、先進文化は随時、獲得することができてきていたのである。
 ただ、その様式や文化や伝統、そして地域性が異なるだけなのである。
 
 ところで、本書の中にも黒曜石の話が出てくるが、偶然にもなのか、昨日、営業中、ラジオから黒曜石の話が聞こえてくるではないか。
 あまりに出来すぎのことで、驚くより唖然だったが、ネットで調べてみたら、「■高原山産黒曜石調査報告会」が「平成17年12月17日(土) 13:30~16:00」に矢板公民館(矢板市)にて開催されるのである。ラジオはいつも仕事中なので聞き齧りになるので、話も断片的になるが、あるいはこの関連でNHKラジオで話題として採り上げられたのかもしれない(推測)。
 この高原山産黒曜石調査報告会は、「高原山産黒曜石調査事業の最終年度である本年度は、剣ヶ峯付近から後期旧石器時代の遺跡が発見され、大きな変化がありました。これらを含めて最終的な成果を報告します」というもので、基調報告として、「高原山産黒曜石調査事業の経緯と成果の概要 宇都宮大学教授 中村 洋一先生」があるなど、面白そう。
 
 黒曜石には小生、なぜか昔から惹かれるものを感じてきた。小生のホームページのリンク先に「黒曜石の世界」が載っているし、黒曜石をキーワードにしたりイメージした掌編をわざわざ仕立てたこともある:
翡翠の浜、そして黒曜石の山
黒い石の祈り

 なかなか意の満たない作品しか作れない。いつか「黒曜石の世界」の展示のある北海道へ行って、改めて実際に現物の黒曜石を手に取りじっくりたっぷりその世界に浸ってみて、その上で小説を書いてみたいものである。

 さらに、「堤隆 著『黒曜石 3万年の旅』(NHKブックス No.1015)」について、簡単な書評エッセイを書いている。
 その中で、以下のように書いている:

 

 記憶をたどると、小学生の終わり頃だったか、妙に石に興味を抱くようになり、木の化石とか黄鉄鉱の欠片とか、磁力のある石、模様や形の綺麗な石ころだとかを集めていた。
 あるいは中には、低くとも透明度のある青みがかった石ころなどもあった。もしかしたら、新潟は糸魚川が原産地として有名だが、富山は朝日町の河口に当たる海辺などでも採れる、ヒスイではないかと思っていた(思わせられていた)のかもしれない。

 そうした石ころのささやかな蒐集の中に黒曜石もあった。尤も、最初はストーブにくべる石炭と区別が出来たかどうか怪しいものだが、次第に黒曜石の持つ特有の奥深い、柔らか味のある黒い耀きに見せられていった。


■高原山産黒曜石調査報告会」からの引用文の中に、「剣ヶ峯付近から後期旧石器時代の遺跡が発見され」とある。
 悲しいかな情けないかな、小生、黒曜石について貴重な発見があったというニュースに気付いていない。ネット検索しても、今年の夏(8月?)にあったというニュース記事は、さすがに見つからない(とっくに削除されている)。

 まず、一般的な知識を仕入れるとなると、「高原山の黒曜石産出地と周辺の遺跡」というサイトが助けになる。
「黒曜石は割れ口が鋭いために、旧石器時代や縄文時代の石器の材料として使用されてい」るということで、「代表的な産地としては北海道の白滝、長野県の和田峠、伊豆の神津島などが有名」だという。
 ちなみに、上記した「黒曜石の世界」の工房「十勝工芸社」は、「大雪山国立公園のまち上士幌町にあ」るとか。

「高原山の黒曜石の利用は、小山市寺野東遺跡で発掘された例が現在では最も古く、今から約30,000年前にさかのぼります。縄文時代になってからも県内の遺跡だけでなく、周辺の地域でも利用されていました。高原山のふもとには、原石を運び下ろして加工した遺跡があります。その代表が、矢板市雲入遺跡です。雲入遺跡では、表面の風化した部分や質の悪い剥片が多数出土していることから、ここで原石を割り、質の良い部分を選んでから交易に用いたことがわかりました。」というのが、「高原山の黒曜石産出地と周辺の遺跡」で教えてくれる概要。

 ネット検索してみると、「考古学ニュース(考古楽ニュース) 2005年09月~」の中に、旧石器関連情報として、「黒曜石の原産地遺跡/矢板・高原山 」という見出しの記事が見つかった。

「矢板市教育委員会は1日、同市の高原(たかはら)山の剣ケ峰周辺で、後期旧石器時代に加工されたと思われる黒曜石(こく・よう・せき)と、その原産地遺跡が見つかったと発表した」とか。
「発見したのは千葉県立中央博物館の主席研究員、田村隆さんと、城西大学の非常勤講師を務め、日本学術振興会の特別研究員でもある国武貞克さん。 2人は考古学を研究する都内の大学院生でつくる「石器石材研究会」の代表と事務局を務め、関東地方の平野部を中心に石器の研究を進めていた。石器の原産地や加工地を探すために02年ごろから高原山の調査に乗り出したと いう。田村さんと国武さんは今年の7月下旬ごろに遺跡を発見。報告を受けた同市教委や県教委の職員らが8月28日に現地を訪れ、確認した」という。
「黒曜石は、破片が鋭く、矢じり、やりの材料に用いられていた。国武さんによると、なかでも高原山で産出する黒曜石は、成分が同じものが関東地方 各地で発見されており、広く利用されていたことが伺える。剣ケ峰周辺では、 やりの穂先などに使われたと見られる石器や、「スクレイパー」という刃物と して使用されたとみられる黒曜石が多数発見された。大きさは1~16センチ。 現地で加工されていた可能性が高いという。」
 さらに、「生物が大気から取り込んだ放射性炭素の濃度から年代を測定するAMS(加速器 質量分析法)によると、後期旧石器時代は3万5千年前~1万6千年前。国武さ んは高原山の遺跡を「2万5千年前から1万7千年前のものではないか」と話す。 遺跡は剣ケ峰周辺の標高1300~1440メートルの地点にあり、東西約35 0メートル、南北約100メートルの緩い斜面。雨や風などで浸食されて地表が 削られ、下の地層にあった黒曜石が露出した可能性があるという。」
 また、「田村さんは「この遺跡発見の意義の最大のポイントは、旧石器時代の遺跡の密集地域である 関東地方の内部において黒曜石原産地遺跡が発見された点」としている。「石器 の材料をどのように獲得したのかが、この遺跡の調査で細かく分かる」」とも。

 黒耀石に親しむには、現物に触れてみるのが一番だが、ネットでは、上記した「黒曜石の世界」なるサイトでいろいろに細工された作品を眺めてみるのもいいし、「堤隆 著『黒曜石 3万年の旅』(NHKブックス No.1015)」の中でも紹介しているが、「島根県 壱岐の黒耀石」というサイトを覗いて見られるのも楽しいだろう。
日本海を渡った黒耀石」なる頁を覗いてみると、「隠岐産の黒耀石は、日本海を越えたロシア沿海州ウラジオストック、ナホトカ、周辺の一万年以上前の遺跡や朝鮮半島からも見つかってい」るということで、「こうした黒耀石の移動は、当然人々の移動も意味し、古代人の交流の広さを反映しています。海や山を越えた交流が盛んに行われた時代。石に託された古代人の思いが伝わってきそうです」という感をつくづくと感じるのである。
 現物もすばらしければ、その育む想像の世界も遥か、なのである。

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コメント

今朝(24日の早朝)、下記のようなニュースを聞いた:

「黒曜石産地遺跡は国内最古か」
http://www.nhk.or.jp/utsunomiya/lnews/03.html

旧石器時代にヒトが黒曜石と呼ばれる石を採って石器を作っていた遺跡が、おととし栃木県で見つかりましたが、専門家による調査の結果、およそ3万年前のもので、ヒトが黒曜石を原産地から直接採っていた遺跡としては、国内で最も古い可能性が高いことがわかりました。
この遺跡は、矢板市にある「高原山黒曜石原産地遺跡群」で、旧石器時代にヒトが黒曜石を採って獲物を捕る、やりの先などの石器をその場で作っていたことがわかっています。
地元の矢板市教育委員会は、去年、考古学や地質学などの専門家による調査団を作って、石器の分布状況や石器が見つかった地層の年代などを調べました。
その結果、この遺跡はこれまで考えられていたより5000年あまり古い、およそ3万年前の後期旧石器時代初めのものである可能性が高いことがわかりました。
調査団では「黒曜石を原産地から直接採っていた遺跡としては高原山の遺跡が国内で最も古いとみられる」と話しています。
旧石器時代の遺跡に詳しい東京大学大学院人文社会系研究科の佐藤宏之助教授は「3万年前ごろには、ヒトは黒曜石を原産地の下流の川などで拾っているとこれまでは考えられていた。今回の調査で、高原山ではこの時期から原産地で直接、黒曜石を採っていたことがわかり貴重な発見だ」と話しています。

投稿: やいっち | 2007/02/24 19:55

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