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2005/11/26

読書拾遺(辻邦生と丸山健二の体つながり)

「読書拾遺(続々)」(今月10日夜半に発生したパソコントラブル中に書いた原稿。アップ時に「読書拾遺(白鳥と芥川) と題名を変えている。本稿も同じくパソコントラブル中に書いていた原稿である。書いてから二週間が経過したが、とりあえずアップだけしておく)の中で、丸山健二著の『まだ見ぬ書き手へ』(朝日新聞社)を扱っている。彼は本書の中で、作家たるもの何もプロのスポーツ選手ほどでなくとも、日頃、体を鍛えておくべきだとも書いていた。

 さて、作家論・文章論つながりというわけではないが、土曜日(12日)、辻邦生著の『言葉の箱―小説を書くということ』(メタローグ刊)を一気に読んだ。活字も大きく読みやすいので車中で読むつもりで借り出したのだが、ちょっと拾い読みするつもりが、ついつい辻邦生の筆致に引き込まれて読み通してしまった。
(ちなみにだが、本書の帯には「ピアニストがピアノを弾くように」などと洒落たコピーが銘打たれている!)

(以下、故・辻邦生氏のことを辻邦生と、丸山健二と同様、敬称を略して書くが、むしろ尊敬の念を以てであることを付記しておきたい。同時に、「辻」と書いているが、実際はシンニュウには点がもう一つ、付す必要があるが、パソコンでの仮名漢字変換では求める漢字が出てこなかった。「辻」と表記するのは本来は失礼なこととは思うけれど、事情を斟酌願いたい。)

 小生は辻邦生の(申し訳なくも主に)随筆や文学論・評論のファンなのである。小説と言うと、『夏の砦』や『西行花伝』など数冊も読んだかどうか。が、評論の類となると片っ端なので、何冊になるか分からない。
 首切りに遭い、一年余りの失業生活を送っていた94年春から95年秋口にかけて、模索とリハビリの日々を送っていた。プールと図書館通いをしつつ、読書三昧・執筆三昧に耽っていた。

 何が出来るわけもなく、ワープロに向かってひたすら小説や随筆、評論を書きまくっていた。
 同時にただ、力と勘だけを頼りの創作に限界も感じていた。
 三十台の半ば、会社で窓際族の身をひしひしと感じていた頃、さすがに若い頃のようにインスピレーションの到来を待ち受けるような、一瞬の閃きで着想を得て一気呵成に作品を書き上げるのだという未熟な発想は捨て去ってはいたのだが、それでも、ではどうしたらいいかというと、暗中模索のままだったのである。
 35歳の窓際族を意識したサラリーマン時代の頃から残業で遅く帰る日々だったにも関わらず、夜中過ぎ、ズ移民時間を削ってまで懸命に毎日、とにかく何かしら創作めいた小文を書き削ってはいたのである、が。
 インスピレーションなど(少なくとも自分には)ありえない…、だから、とにかく書く…、しかしだからといって殊勝になって文学を基礎から学び直すという発想までには至らなかった。

 そうして数年が経過して首切りに遭い、じっくり自分に向き合う時間に恵まれ、また、図書館通いなどで視野が多少は広がった中で、読み漁った本の中で数々の出会いや発見があったのである(ジョージ・エリオット『ロモラ』、デュ・モーリエ『短編集』、ガルシア・マルケス『百年の孤独』、再びのマン『魔の山』…)。
 辻邦生の随筆類もその一つだった(『西行花伝』も、その頃に読んだのだが)。
 辻邦邦生の諸著を読んで、自分の姿勢や自覚の至らなさを痛感させられたのである。

 本書『言葉の箱』(遺著)は、93年2月17日、94年2月2日、94年10月28日の三回にわたって行われた「小説の魅力」と題する講演(主宰:メタローグ「CWS創作学校」)の記録がもとになっており、テープに録音されたものをメタローグの編集部が書き起こしたものである。
 小説を書く根拠や目的、方法をめぐっての辻の思索の成果が講演の際の臨場感たっぷりに生き生きと書かれている。
 彼の文学手法は、要は「言葉」と「想像力」に尽きるかと思われる。日常見ている何気ない光景であっても、感じ見ているそのものの全てが文学の素材なのであり、主題となるのであり、言葉を駆使して世界を構築していく作業がまた想像力を一層掻き立て、沸き立った想像力がまた言葉に言葉を重ねさせつむがせていく。

 そうして構築された世界というのは、モノトーンになりがちな現実の世界を凌駕し、退屈な現実を超えて圧倒的なリアリティを以て存在する。
 そのほか、ここでは詳しくは触れないが、辻邦邦生は生命感、生き生きした感じというものを強調している。
 生命感の枯渇が作家生命の終焉にも直結する、だからこそ、一時期は頽廃的な生活が芸術を豊かにするといった発想もロマン派の人たちは考えた。
 けれど、辻邦生は強調する。生活を頽廃の澱みに陥れさせる誘惑に堕していくのではなく、むしろ、「基本的には健康な生活以外に生命の火を保ってはいけない」と得。
「丈夫な体がなければ絶対に強い作品は生まれないし、そういった激しい精神の営みを支えきることはできません」とも。
 ということで、「文学をしたい、小説を書きたいと思っている人は、まず最初に体を鍛えて、強い精神を持つことです。本当にギリシャの人たちが言ったとおりですね」と結ぶわけである。

 あるいは、この講演の場が創作学校の創作科ということで、受講者に若い人が多いから、敢えてそんな考えを披露した面もあるのかなと邪推したりもする。
 いずれにしても、丸山健二と辻邦生と、芸術観や文学に望む姿勢がかなり違うと思われる二人なのに、たまたま相次いで読んだ二冊の本の中で健康が大事、体を鍛えろ(丸山は、酒は控えろ、煙草もダメだ、美食もダメとも書いている)などと同じような主張をしていることに、偶然を超えて、まあ、小生自身の日頃の惰眠を貪るばかりの怠惰で緩んだ生活が指弾されたようでもあり、ほんの一瞬、居住まいを正そうかなと思ったものであった。
 
 辻邦生の本書『言葉の箱』に収められた講演が、小生の首切り寸前の頃から首切りにあい無職渡世となった、そんな瀬戸際の頃になされたものであることに、奇縁を感じる。
 はるかに遠いどこかで辻は小生を叱咤激励してくれていたのではなかったか、と。
 その辻邦生は99年7月29日に亡くなられている。
 小生が三冊目の本、しかし、タクシードライバーとなってからは最初に書き下ろした本である『フェイド・アウト』を刊行したのは、99年の11月のことだった。
 

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