読書拾遺(ゲーテ・ファウストの周辺)
先週末、読了した元、漫才コンビB&Bの島田 洋七著の『佐賀のがばいばあちゃん』 (徳間文庫)はすでに季語随筆「東京国際女子マラソン…感動のラストシーン」にて紹介している。
一部には有名な本で、今更の紹介も遅きに失するが来年には映画が封切りになるようだし、その意味では遅すぎるって事もないのだろう。
表題の「東京国際女子マラソン…感動のラストシーン」の「ラストシーン」は、高橋尚子選手の復活宣言とも思える感動のゴールシーンでもあるが、本書『佐賀のがばいばあちゃん』のほぼ終わり付近にマラソンの感動的なシーンが印象的だったこともあってのタイトルなのである。
未読の方は、是非、小生の当該の記事を…というより、本書を読んでみて欲しい。
今週に入ってからは車中で大澤 武男著の「『ファウスト』と嬰児殺し」(新潮選書)を読んでいた。
出版社のレビューによると、「生誕250年ゲーテの最高傑作は、ある薄幸の女性の悲痛な事件が、すべての発端となった。『ファウスト』のなかで無惨に処刑される少女にはモデルがいる。フランクフルト市民を震撼させたその悲劇的事件とは。膨大な裁判史料をもとに、青年弁護士ゲーテの内面と、その芸術への衝動に迫る、ロマンティック・ドキュメント」というもの。
読者レビューには、「「ファウスト」のグレートヘンの悲劇は,1771年にフランクフルトで実際に起きた嬰児殺しの事件が題材になっている.事件の発端から娘が斬首刑にされるまでの期間の事柄を,当時の裁判記録をもとに,筆者の私見を交えつつ,解説している.若きゲーテが,この事件に強い衝撃を受け,「初稿ファウスト」を書き起こすに至ったのかがわかる.さらに興味深いことに,多くのゲーテに身近な人々がこの裁判に関係しており,ゲーテがこの裁判についての多くの情報を知り得た立場にあったこともわかる.この本を読むと,「ファウスト」をより一層面白く感じられるでしょう.」とあって、概要はこれで尽きるだろう。
「当時の裁判記録をもとに,筆者の私見を交えつつ」とあるけれど、実際、本書のエピローグで筆者は「当時の若者ゲーテが悲劇の娘、スーザンナの事件をどこまで見聞、体験し、何を思い、何を考えたかについては残念ながら推測の域を出ない点が多い。したがって本書の記述の中で、ゲーテとスーザンナの出会いなどの場面に関する記述は、筆者の推測と、そうあってほしいという期待とフィクションによる創作である」と記している。
本書を読んでいて、あれ、まだ有名でない時期のゲーテの生活のそんな詳細がどうして描けるのか、ゲーテの若き日の日記でも見つかったのかと思ったほどだったが、創作だったのである。
けれど、その創作が本書を面白い読み物に仕立てているのも事実。
車中にあって、小生は仕事の手ももどかしく、読み漁っていたのだった。
もっと詳しい内容がネットで見つかった。本書の読者(少なくとも感想を書いている人)には音楽関係者(乃至は音楽好きの方)が多かったが、以下に紹介するサイトの方も音楽好きの方のようだ。
ゲーテの作品を原作にオペラなどを作曲する人が多いからなのだろうか。その際の資料として本書・大澤 武男著の「『ファウスト』と嬰児殺し」(新潮選書)を読まれているようだ。
小生は、あとで書くかもしれないが、極めて個人的な理由から本書を図書館で見つけたときに手を取ったのだった。
「ようこそ、すずめの部屋へ オペラと本をこよなく愛するすずめのホームページです」の「グノー 「ファウスト」」に本書についての丁寧な紹介がある。
しかも、親切にも当時における、そしてゲーテにとっての「ファウスト博士」という存在の意味も説明してくれていて、本書のみならず音楽やゲーテ作品の理解の一助になるだろう。
例によって無断転載禁止とあるが、関連部分を転記させてもらうと、「「ファウスト伝説」のモデルとなったのは、錬金術師ゲオルグ・ファウスト(1480~1539?)、博識の医師、星占い師、人文学者、そして山師・・・、そんな彼が悪魔と契約することによって若返り、超人的な力を発揮し、思う存分に楽しむ、しかし、やがて契約の時が来て、悪魔に魂を委ねて朽ち果てる・・・、ゲーテの時代、ファウスト博士はアンチ・ヒーローとして人気がありました。死後に魂を悪魔にくれてやることで好き勝手な享楽の人生が味わえるのなら、それも良いではないか、教会が禁じるところにこそ快楽がある、この伝説は一種の人間解放の側面を持っています」という。
ゲーテも自らに選ばれしものという自覚があったに違いない。才能も有り余るほどあるし、家柄も優れ、若い頃から潤沢な財産の恩恵に浴し(学生の頃の月々の仕送りは、一般庶民の数十年分!)、だからこそ、悪魔の誘惑にも駆られることは夜毎日毎あったに違いない。
しかも美男子と来たら、どうにもとまらない!
「人間は、努力する限り、迷うものだ」とはゲーテの言葉らしいけれど、才能に満ち溢れていて、その上美男子となると、少なくとも若かりし日は優越感や選ばれしものという誇り(驕り)の念の極みを持て余すほどになるだろう。が、そういった例外者意識などを一時は抱けても、それは平凡な者には窺い知れない迷いの道を何処までも踏み惑うこと以外の何物でもなく、実際はというと、遅かれ早かれ取り返しの付かない己が仕出かしたあれこれを思い、悔恨の念に途方に暮れ、身も心も引き裂かれる思いに至ってしまうのではなかろうか。
努めるものほど迷うというけれど、誠実な意識がある限りは欲望と現実の間で惑い続けるに違いないのでは、あなどと平凡でそこそこに常識人たる小生は思っている…。
さて、本書「『ファウスト』と嬰児殺し」については、「ゲーテは見た」という項を参照のこと。
紹介した頁全部とは言わないけれど、せめてその項だけでも一読願いたい。
騙され暴力で身ごもり、宗教的禁制と世間的な通年に処置に困った挙句、嬰児殺しという大罪を犯したスザンナ(愛称はグレートヘン、ちなみにゲーテが一方的に捨て去ってしまった若き日の恋人、フリーデリーケの愛称もグレートヘン! (注)! コメント欄を御覧ください!)の斬首という公開処刑を目にし、しかも、刑の決定・宣告その他にもゲーテ一族が関わっていて、まるで自らが自分の恋人を斬首してしまったような<錯覚>に陥ってしまうゲーテ。
スーザンナの妊娠について診断、検査をしたのはゲーテ家のホームドクターで、ゲーテ自身、自宅で療養生活を送った頃、彼に診てもらっている。
ゲーテは、ゲーテの父のカスパーが「法学博士ということもあり、スーザンナ事件に多大な関心を寄せ、市側の訴訟記録を秘書を通して書き取らせ、市側の記録資料として整理、保存していたばかりでなく、その記録のわきに自らのコメントを書き込んでいたくらいであった。自宅で毎日顔を合わせていた父親とゲーテが、この事件につき度々話し合っていたであろうことも十分推測できる」
法律の道(弁護士)には気が進まなかった彼も、この事件には他人事ではない関心を抱いていたのだろう。
ゲーテは恋人を捨て去ってしまったけれど、それは若き上昇志向(階級というより芸術や表現・思索などの面で)真っ盛りのゲーテには、そのときは本人としては、やむにやまれなかったのかもしれないが、あとで振り返ってみて、傍(はた)から見る以上に悔恨の念が強かったのかもしれない。
捨てられた女性にしてみれば、上流階級の人間が自分をもてあそび、捨て去った、ひと時の慰み者にされてしまったのではないかと思っても不思議はないはず(と、ゲーテだって想像はしただろう)。
また、歴史の表にはスザンナ(本書ではスーザンナと表記されている)を犯し身ごもらせた犯人は捕まった(あるいは、そもそも追捕された)という形跡は見えないが、犯人は上流階級に属する人間で、もみ消されたのかもしれない。
もっと、想像を逞しくして、妄想の粋まで突っ走ってしまえば、ゲーテが捨てた女性が身ごもっていた、そして下ろさせた(身ごもっていなかったと、証明されているのだろうか)ってことはないのだろうか。カネで解決したってことはないのだろうか。
捨てられた女性がどんな思いを抱こうと、上流階級の身分も違う相手に届くはずもないし、ひたすら我慢と自責の念に駆られるばかりだろう(自責の念に駆られるってことが理不尽なのは明白なのだが)。
キルケゴールも婚約までした女性に一方的に破棄を通告し、恋多きゲーテも若き日には恋人を理由も言わずに捨て去り、そうしたことが哲学において、あるいは文学において創造の闇夜に突き進むパワーの源泉(の一つ)になっていたのかもしれない。
けれど、何がゆえに彼らをそうさせたのかこそが謎なのだろう。悪魔との黙契? 神の与えた林檎の魅力? そこまでしても創造と思弁の魅惑は悩ましく激しいものがあるのか…?
上で、「小生は、あとで書くかもしれないが、極めて個人的な理由から本書を図書館で見つけたときに手を取ったのだった」と書いたが、すでに紙面が尽きたので、委細は機会があったら、書くかもしれないということで、今日のメモは終わり!
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コメント
誰かが「ファウスト 嬰児殺し」というキーフレーズでネット検索しているようだ。
小生のこの記事も、大澤 武男著の「『ファウスト』と嬰児殺し」(新潮選書)を扱っているので、ついでにネット検索で浮上してくるみたい。アクセスが急増している。
投稿: やいっち | 2006/01/31 12:54
TB頂きました。嬰児殺し事件は面白いのですが、リンクやら記事で気づいた事を幾つか。フリーデリケの愛称はグレートヘンでは無く恐らく他の娘と混同しているようです。更に田舎の牧師の娘とはいえ、ゲーテとの身分差はそれほど無いと考えるのが妥当ではないかと思われます。
ゲーテ家を上流階級と云うのは言い過ぎでしょうか。小市民的な生家だけでなく、後年のプチブルジョアーぶりへの俗物意識を見るとこれは直感出来ます。ネットで調べますと、タオル職人から三代目で、母親の家系の方がまだ知的階級の様です。父親も十分な資産も資格も得ていながらも、フランクフルトの貴族階級には仲間入り出来なかったとあります。またこれを説明としている。
同様に、ファウスト博士とマルガレータの関係もゲーテとフリーデリケに粗対応していますね。するとです、もしここで扱われた著書に於いて、「上流階級と市井の女との関係」として強調されているとなると、現在で云うとベントレーを乗り回すような俗物ゲーテの「階級闘争」と云ったものがどのように説明されているのかが大変気になるところです。これは近代主義と云う点に関しての評価でもあります。
コメントされている「アクセスが急増」も、研究者の反応への出版者側からの憂慮なのかもしれませんね。「極めて個人的な理由」も是非聞きたいものです。
投稿: pfaelzerwein | 2006/05/01 15:32
pfaelzerwein さん、いろいろご指摘、ありがとう!
「フリーデリケの愛称はグレートヘンでは無く恐らく他の娘と混同」
グレートヘンは初恋の人で、その次の相手がフリーデリケ、以下、シャルロッテ、リリー…と続くようですね。
ゲーテ家が上流階級かどうかは、医者や弁護士といった職業が雄弁に物語っていますね。
「ゲーテ家を上流階級」とは書いてなくて、「若き上昇志向(階級というより芸術や表現・思索などの面で)真っ盛りのゲーテ」とか、「捨てられた女性にしてみれば、上流階級の人間が自分をもてあそび、捨て去った、ひと時の慰み者にされてしまったのではないかと思っても不思議はないはず(と、ゲーテだって想像はしただろう)。」と、特に後者は微妙な表現。
本文を読み直してみると、ホントの上流階級と、相対比較の上でより上流(あるいはより下流)の階級という意味合いでの上流階級という言葉の使い方が我ながら雑だと分かる。
特に、「捨てられた女性がどんな思いを抱こうと、上流階級の身分も違う相手に届くはずもないし、ひたすら我慢と自責の念に駆られるばかりだろう(自責の念に駆られるってことが理不尽なのは明白なのだが)。」は、彼女からしたらずっと上流階級の云々と、丁寧な表現が要ると感じました。
本書において階級闘争的な側面の分析に力点があったわけではありません。あくまで「文献学者ボイトラーがゲーテ家の古文書の中から若き日の青年弁護士ゲーテが携わった「嬰児殺しの女」の事件に関する記録を発掘し,それがグレートヘン悲劇の題材であり,創作の直接の動機であることを裏付けて以来,グレートヘンのみならず,「ファウスト」という作品のイメージが大いに変貌したのであ」(Dieter Dorn's production of Faust」から転記)り、若き日の青年ゲーテと女性との関係に創作を以て話を膨らませているわけです:
「Dieter Dorn's production of Faust」
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tojo/archive/Kanpo/Vol10No2/tuzuki.html
「文献学者ボイトラー」については情報が得られていない。
ジェンダー問題もそれほど本書で扱われていなかったと記憶する(残念ながら本書が手元にないので、詳細を確認できない):
「ふたつの魂:バロックという概念・その2」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh26.htm
アクセスの急増は一時的な現象に終わっており、コメントも特にないということは、特段の情報が見出されず、流されたということでしょう。
「極めて個人的な理由」は、個人的なつまらないことなので、余程、暇になったら書くかもしれない。結構、面倒そうなので手に余るのを実感している。
投稿: やいっち | 2006/05/01 17:46
さらに、リンクなどを拝見。ボイトラーはエルンスト・ボイトラーで1960年ごろまでのフランクフルトのゲーテ博物館初代館長さんのようです。ゲーテの母親などに宛てた私書の本が出ています。
ドルンはオペラ演出家としても馴染深い人ですが、上のプロダクションは観ていません。都築教授が云うように、「人間に宿る自然的本性」をどのように解釈するかがポイントでしょう。
挙げられているシェーネ教授は、1920年代の方ですから、従来の解釈を否定する為にも「魔女一体化」を敢えて解釈するのでしょう。ジャンダー論者やプロレタリアートは嘗てそのように解釈してと、「歪められた真珠」になっているのが面白いです。殆んど「ルル」のようなリンクの写真などを聖女とするのはどうにも無理の様です。何れにせよこれらは半世紀前の風潮に戻っての思考のようです。学があるとどうしても足が遅くなる?
これで以ってラブレターでも書こうかと思って拘りました。個人的な事情でした。
投稿: pfaelzerwein | 2006/05/01 21:16
pfaelzerweinさん、またまた情報をありがとう。
エルンスト・ボイトラー氏については、日本語のネットで見る限り、戴いた情報が唯一のものとなる(?)のかも。
ゲーテ博物館:
http://www.goethehaus-frankfurt.de/
ディーター・ドルンについては、情報が見つからないのですが、バイロイト音楽祭で何年かに渡って「さまよえるオランダ人」を演出していたようです。
カンマーシュピーレ劇場監督だった頃、ゲーテの『ファウスト』を日生劇場で演出しテレビでも放映されたらしい。
昔、「ファウスト」を初めて読んだ時、「若きウエルテルの悩み」を読むのと同じでロマンチックにセンチメンタルに読んだものだけど、今、読み返したらまるで印象が違うのだろうな。
「白鯨」も、まるで初めて読んだような感銘を受けたし。
「挙げられているシェーネ教授は、1920年代の方ですから」というのは、よく分からない。サイトでは、「最近ゲッティンゲン大学の教授シェーネは,「ファウスト」の初期の構想を明らか」云々とあって、生れはともかく、構想を明らかにしたのは近年(少なくとも20世紀の終わり近く)なのではないかと。
ただ、魔女一体化というのは、そうした解釈にしたがる向きはいつもいるってことなのだろうと安易に考えてしまいます。
一昔前の男尊女卑的な発想に囚われた世代だと、女性が自己主張すると、頭から悪魔か魔女扱いにするって訳です。そのほうが楽だし、自分の世界観(男女観)を変える必要に迫られないし。
「ルル」って、「あらゆる者を魅了し破滅させる魔性の女・ルル」がテーマの、アルバン・ベルク作曲の「ルル」なのでしょうか:
http://www.nntt.jac.go.jp/season/s249/s249.html
これだと、確かにグレートヘンというわけには行かない。グレート変ですね。
最後の一文は気になるけど、ま、静観させてもらいます。
投稿: やいっち | 2006/05/01 22:08