勤労感謝の日…無為徒食に感謝
「勤労感謝の日」が11月の季語例の中にある! どんな日や事柄であっても、俳句に詠み込めるし、句をひねる題材にもなれば切っ掛けにもなるということか。
今朝未明のラジオでも、今日が「勤労感謝の日」ということで、この祭日の意味や由来、意義などについて聞く機会があった。
「伝次郎の平成暦」の中の「伝次郎のカレンダー 勤労感謝の日」が簡潔に且つ遺漏なく纏めた記事を提供してくれている。
「勤労をとうとび、生産の豊かなことを祝い、国民が互いに感謝しあう日という趣旨により昭和23年(1948年)に制定された」とかで、「この日は、それ以前(明治6年、1873年以降)、新嘗祭と呼ばれる祝日」だったという。
より詳しくは、「勤労感謝の日 - Wikipedia」を参照させてもらう。
ここでは、「国民の祝日に関する法律(祝日法)では「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨としている」と記されている。
「戦前の新嘗祭(にいなめさい)の日付をそのまま「勤労感謝の日」に改めたもの」で、「新嘗祭は1872年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていた」という。
ところが、「1873年に太陽暦(グレゴリオ暦)が導入されたが、そのままでは新嘗祭が翌年1月になることもあって都合が悪いということで、新暦11月の2回目の卯の日に行うこととした」という。「それが1873年では11月23日だった。しかし、翌1874年には前年と同じ11月23日に行われ、以降11月23日に固定して行われるようになった。よって、11月23日という日付自体には意味はない」とか。
要は、日付はともかく、戦前の新嘗祭にその謂れがあると理解すればいいのだろう。
「新嘗祭(にいなめさい)」については、後日、改めて触れることがあると考えている。
さて、「勤労感謝の日」の意義とは、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことだという。
必ずしも分かりやすい説明とは言いがたい。働くこと(勤労)に感謝するのか、働いている人(労働者)に感謝すべきとしているのか、とにかく生産があるということを祝うべきということか、仮に不況や不作の年だったら、その年は祭日ではなく、勤労の日に変えても生産の上がるように働いて頑張るべきなのか、あるいは祭日は変えないものの、土壌か天の神様に国民がこぞって祈りを捧げるべきなのか。
「国民たがいに感謝しあう」とは、その場合、労働しているもの同士が日頃の互いの労苦を褒め称え励ましあうことを奨励しているのか、それとも、働いている人たちを養われている人たちが感謝すべきというのか、いや、そんな了見の狭い意味合いではなく、「国民」とある以上は、老若男女を問わないわけで、物心付いている人は皆、否、赤子も含めて豊かな生産のあることを祝い感謝すべき、そして言外に尊き方への感謝も忘れるな、ということも含意されている可能性もある。
豊かな生産。しかし、時代は変わっていて、豊かな資産の時代にすでに突入して久しい。今、デフレ脱却か否かのぎりぎりの、それこそ瀬戸際にある。
ただし、動くべきカネは、一部に偏在している。巨大なマネーが流動性を持つかどうかが関係当局も含め息を凝らして見つめられている。
日本に限らず世界を目に見えない金融という怪物が餌を求めて大きな口を開けて動き回っている。
生産よりも投機。絞られたターゲットへのマネーの投資。
生産に従事する圧倒的大多数の意向や心情よりも、巨大マネーを動かす一部のものの思惑が政治も経済も、悲しいかな文化も、そして生活をも左右してしまっている(敢えて支配してしまっている、とまでは書かないけれど)。
額に汗しての労働。この手でモノを作る、誰かの顔を見ながら働く。目に見える形での、感謝したくなるような風景が、巨大資本・金融という怪物に押し潰されてしまいそう。
潰されないまでも、足蹴にされて息も絶え絶えになって、それでも、地に足の付いた仕事を日々営む、その日常が水平化され平板化され陳腐なものに、時代遅れなモノに、価値の低いか無きに等しいものに貶められていく。
そう価値が漂白されてしまっている。透明化されて、時給数百円で働く、その遥か頭上で株価のちょっとした動向で、あるいは思惑で読みで投機で数百億、数千億、数兆円の利益が、逆に損失が生まれ消えていく。
やっと収めた税金が訳の分からない年金施設や道路や釣堀としてしか使えない岸壁に投入されて資産が死産になって、やがて二束三文で虎視眈々と待つ誰かに買い叩かれ口に収まっていく。
生産に携わること。それより、巨大なマネーが追い求めるのは消費。もっと言うと浪費なのである。カネを使う奴やシステムこそが至上なのである。
このことは、功罪がある。働かざるもの食うべからずという生産至上主義は後退し、働こうと働くまいと、資本の流動するシステムに入ってさえいれば、存在が可能だし、時に消費や浪費や散財に才を示すものこそが持て囃される可能性が生まれる。
働かないでパチンコばっかりやっている、働かないで生活保護で暮らしている、ニート、親のスネを齧って生きている…、そうした人々を厄介者だとかお荷物だと看做されがちだったのが、消費市場であり浪費至上であるからには、とにかくカネを使うことに価値があるとされるから、従来は世間にあるいは自分でも日陰の身だった存在が意義を持ってくるようになり、今こそ堂々と胸を張って生きることが可能となるのだ。
何故なら箪笥に貯金として死蔵されるより何より、とにかくどんな形にしろおカネが動くことが先決だし、文化に関わる活動(文化の種類を一切問わない)、もはや文化とは無縁な活動、無為徒食と昔なら蔑視された日陰の営みでも、これからはマネーの回転に寄与しているという意味で生産に携わる、つまり額に汗して働いているものたちと同等か場合によってはそれ以上の意義をさえ持ってくるようになる(可能性の話だが)。
となると、時代は今や「勤労感謝の日」ではなく、「無為徒食感謝の日」に変わっているということか。
どんな営為が価値を持つか、誰にも判断が付かない時代、ということでもある。
それゆえ、小生のような古株の人間は田んぼや畑で働くもの、機械油に塗れながら働くもの、手に道具を持ってコツコツ働く職人、働いていることが誰の目にも見えるようなものこそ立派だと思いがちなのだけれど、高度に複雑化した社会にあっては、「働く」ということの形は極度に抽象的で流動的で(他人にもそうだが、当人にさえ)掴みどころのない「鵺(ぬえ)」の如きものとなるしかないということなのだろう。
無為徒食…。一見すると他人にはそう見えても、実はバーチャルな世界では誰よりも価値を持つ「働き」を「役割」をその人は果たしているのかもしれない。
働いているか役割を担っているか、他人にも当人にも分からない時代。掴みどころのない時代。
他人にもその人の価値が分からないし、当人にも自分の存在意義が分からない。生きている意味も見えはしない。社会の片隅に引きこもって、ただ生きているだけ…、ただ、空気を吸っているだけ…なのだし…。
けれど、そうであってさえ、社会はその人を手放さない。遥か彼方からか、それとも案外と身近なところからかは分からないが、その人を見つめている。その人のために心を痛めている、あるいはその人のゆえに心を暖められている。
その実相は、神ならぬ誰にも分からないのだ。
ここまで来ると、やっぱり、「国民たがいに感謝しあう」ことに意義があるということになる。
目の前の相手が正体不明であっても、回りまわってどんな恩義を与えてくれているか分からない、知りようがないのである以上は、とにかく目を瞑って、目の前の誰彼構わず感謝しておけばいいということになるのだ。
但し、その誰彼のうちに自分を感謝の対象に加えることを忘れないように気をつけるべきだろうが。
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