木の葉髪…梳くいようなし?
例によって「俳句ステーション」サイトの「季題【季語】紹介 【11月の季題(季語)一例】」表を眺めていたら、表題に示した「木の葉髪」が気になった。
← 11月19日、東京某所の公園にて 眼福だ!
(実を言うと、ボージョレ・ヌーボーの発売日でもあるし、ワイン関連の季語は見当たらない代わりに、今日は「熱燗」という乙な季語を採り上げようかと一瞬、思った…けれど、酒が飲めないし、ワインを買うゆとりも、呑めないまでも部屋に飾ってみる…なんて遊び心もないので、まあ、「熱燗」は12月にこそふさわしい季語のようでもあるので、小生らしく「木の葉髪」に決めたのだった…。
「普通50度前後がうまいとされるが、寒さ凌ぎに特に燗を熱くして飲む」というが、ワインを熱燗にするわけにもいかないってことも、「熱燗」をとりあえずは取り下げた理由ではある。)
前日の季語随筆「枯葉の季節は詩人を生む」で示したように、季語である「木の葉」の意味合いは、「落葉も枯葉もいう、緑を失った朽ち葉全体をいう」らしいのだが、そのことの(つまり、なぜ「木の葉」とあるだけで冬の葉っぱの状態を指してしまうのかということの)若干の不可解さもともかくとして、「木の葉」が冬の寂しげな葉っぱの在り様を含意するとしたら、「木の葉髪」って、きっと…と思って調べてみた。
案の定である。「木の葉髪(このはがみ)」とは、「初冬木の葉が落ちる頃になると人間の頭髪も脱け易くなる」の意だという。
「頭髪の抜け毛」は誰しも気になる。これが脛毛(すねげ)や腋毛だったりしたら、あるいは腕や髭や○▲の毛だったりしたら、抜け落ちたって、擦り切れたって、それほど気にはならないだろう。
むしろ、早めに擦り切れ細くなり、できれば産毛(うぶげ)のように成り果ててもらえば、逆にありがたいかもしれない(剛毛のほうが嬉しい、気持ちいいという向きもあるのだろうけれど)。
しかし、頭髪の抜け毛は大概の人は困るし寂しいし、ここだけは、仮に色が年齢に応じて白っぽくなるのは我慢はしても、抜け落ちるのは勘弁してほしいと思うのではなかろうか。
お坊さん(浄土真宗などは別として)は頭髪が生えないほうが頭を剃る手間が省けて助かると思うのか、どうか。
男性も薄れ行く頭髪という惨状には寂寥感を覚えたりするが、それでも、ある程度を過ぎると開き直ったりもするらしい。けれど、女性の場合は、感傷など抱いていられず、むしろ危機感をも覚えるのではないか。鏡を覗き込み慨嘆する鬼気迫る表情が怖いようでもある。
予断だが、以前、鏡に向かい髪を梳(す)く女を背にした男の恐怖を描いた掌編を書いたことがあったっけ。何より、髪が抜け落ちるのをまるで気にしない女にこそ男は恐怖を覚えた…というのが眼目だったはずだ。が、掌編のタイトルを忘れてしまった。
どうにも、「木の葉髪」という言葉が気になる。これまたしばしばお世話になっている「よっちのホームページ」サイトの「三省堂 「新歳時記」 虚子編から季語の資料として引用しています。 11月の季語」の中にある「木の葉髪(このはがみ) 」の項を参照させてもらう。
「俗に「十月(陰暦)の木の葉髪」などといつて、やうやく冬めく頃、木々の葉のおのづから落ちるが如く人間の毛髪も亦常よりは多く脱ける。女は梳る櫛の歯につく髪の毛が漸く多いのに驚くのである。」とある。
「梳あげて眉目あらはや木の葉髪」(曉雨)が句の例として掲げられているが、「梳あげて眉目あらは」となるより、女性ならば頭皮があらわになるのが辛いのではないか。眉目(びもく)があらわになることの一体、何を表現しようと意図している句なのか、小生には分からない。
上にも示されているが、「十月の木の葉髪」というのは慣用句にあるらしい。「陰暦の十月頃は、木の葉の散るころに、髪の毛がよく抜け落ちること。髪の毛の落ちるのを落ち葉にたとえていったもの。 」というのは、これまでの説明にあった通りだとして、どうして秋も深まると髪の毛の落ちようが歴然としてくるのか。
それとも、夏だって髪は同じ程度(頻度)で抜け落ちていたのだが、晩秋となると、それが落葉の光景とダブって、こうした慣用句が生まれてしまっただけなのか。そもそも、「木の葉」だけで冬の季語だというのも、晩秋か初冬の人恋しい気分と背中合わせのようだが。
動物を見てみよう。犬でも猫でも他の動物でも、夏場は短めの体毛となり、寒さが募ってくると毛がふさふさとしてくる。豊かな体毛で冬の寒さを乗り切るのだろうし、非常に良く分かるメカニズムだ。
だったら、人間だって落ちぶれ果てても動物の端くれのはずである。冬の到来に合わせて、体毛が、とまではいかなくても、せめて頭髪くらいは木枯らしの吹き始めた頃には、冬の一時期の夢に終わろうと、髪の本数が増えるか、せめて太くなるか長くなってくれてもいいはずではないか。
「[教えて!goo] 最近毛がかなり落ちてて悩んでます」なる頁を覗くと、「最近毛がかなり落ちてて悩んでます」という質問に対して、「夏から秋にかけて髪がよく抜けるのは、ごく普通の現象です。昔の人は ”木の葉髪 ”ということばで表現しましたが、植物が冬に向かって葉を落とすのと類似の現象です。悩むようなことではありません。安心して勉学してください (^_^)/~」などと回答している方もいるが、とんでもないことではないか、と小生は疑問に思う。
人間は動物であって植物ではないはずだ。大概の動物と同じように、夏から秋にかけて髪がふさふさして長くなりすぎて困るのは、ごく普通の現象です、なら理屈として通るが、「植物が冬に向かって葉を落とすのと類似の現象です。悩むようなことではありません」では、納得できるはずがないじゃないか!
って、ここで怒っても仕方ない。
小生などは一人暮らしだし、ストレスは多いし、仕事柄、思いっきり不規則な生活だし、根性は悪いし、さすがに食べ物の好き嫌いはなくなっているが、買い物であれこれ物色するのが嫌いで、結果として偏食傾向が強いのだが、それにしては年齢の割には髪が多いし、未だに真っ黒である(抜け毛に白髪が増えてきたが)。
ワカメや昆布や海苔が好きだから、なのだろうか。
いずれにしても、抜け毛が秋場には多いように感じられるとしても、それは気のせいなのであって、決して、「植物が冬に向かって葉を落とすのと類似の現象」だ、などと納得してはいけないだと思う。
だったら、つまり、そんな(表面的にのみ)類似であるかのような現象に風情を感じるくらいなら、春先や夏場に、植物が緑を濃くするように、俳句を嗜む人間様は髪がふさふさしていいはずではないか。
生理的なメカニズムは分からないが、秋口から脱毛が目立つのは(特に加齢の度が増すと)、湿度が低いことが大きく左右しているように思える。フケが多いように思えるのも、頭皮などの皮脂分が乾燥してすぐに飛散してしまうからなのだろう(多分)。
脱毛が多いのは、糊(のり)の役目を果たしている皮脂が乾燥するからなのもしれない。
(当然ながら静電気も強くなる。この静電気のイタズラの面が髪に齎す影響など、機会を設けて調べてみたい。)
これまたとてもお世話になっている「閑話抄」の中の<木の葉髪>なる頁を覗かせてもらおう。
この季語の説明を聞くつもりで覗いたのだが、「ある女性のお話をしましょう。」ということで、「女三界に家なしといわれ」た、そんな女の典型とも思えるような話が載っていて、びっくりしつつも、最後まで読み通してしまった。
そんな女性が昔は(今も、だろうか)多かったのだろうと思いながら。
感懐はさておいて、【季語補足】 にある一文は、この季語の言わんとする内容を余すところなく表現してくれているようである:
普通、人間の髪は毎日平均50本前後抜け落ちるといいます。しかしこの時期 には普段よりやや多く抜けるようです。それを落ちていく葉になぞらえて称しました。
冬という寒い季節はどうしても物悲しくなりがちですが、その中でも木の葉髪という言葉は言い様のない切なさを感じさせます。
抜け落ちし髪を集めてカツラかな
抜け落ちし髪を並べて供養せん
木の葉髪見入る鏡の眩しかり
犬猫の体毛を真似よ木の葉髪
冬の日を木の葉髪にて知るならん
木の葉髪梳くお前見る我怯え
木の葉髪梳くいようなし櫛いらず
抜けるなら頭髪避けて木の葉髪
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