枯葉の季節は詩人を生む
この数日間、読書拾遺関連の記事が続いたので、今日は、本筋に戻って(?)季語随筆を。
「季題【季語】紹介 【11月の季題(季語)一例】」の一覧表を眺めていて、「枯葉」が気になった。
先月だったか、あまりに暖かな秋の日が続くので、今年も紅葉は遅いのかな、年末になっても街路樹の葉っぱは落ちきらないのかな、と思っていたら、この数日間は、晩秋というより冬の到来を思わせる寒さが都心をも見舞っている。
← 蓮華草さんに戴いた談山神社・十三重の塔の画像です。
といっても、さすがに一気に紅葉したわけではなく、緑の葉と茶褐色や黄色の葉っぱとが混在している。日当たりのいいところの樹木と、ビルの陰になりがちな並木たちとは、葉っぱの色の変わり方も歴然と違うのが面白い。木々というか自然は正直に気温の変化や寒暖の差に敏感に反応するのだ。
季語としての「枯葉(かれは)」を念のため語義などを確認しておくと、「枯れた木の葉、草の葉をいい、地に落ちたもの枝に残ったもの全て」なのだとか。
関連する季語をざっと見渡しておくと、まず「落葉」があって、「落葉時 落葉山 落葉箒 落葉籠」といった傍題があり、「木枯が吹き始める頃、褐色になった梢の枯葉もぱらぱらと散る」という。
「柿落葉」なる季語があるのは、さすがに俳句の世界なのかなと思ったりする。「柿の葉散る」という関連語があり、「オレンジ色や黄色に色づいた大きな葉、艶めきと切なさが漂う」…。
小生の田舎の畑の隅っこに柿の木が一本、ポツンとあって、そろそろ雪が降ろうかという頃になっても、頑固に葉っぱが数枚、残っていたりする。
柿の木の枝にしがみついているのか、それとも、枝のほうが去らないでと懸命につなぎとめているのか、聞いて教えてくれるものなら、葉っぱや枝に本音のほどを伺ってみたいものである。
すっかり抜け落ちてフガフガの口に一本か二本だけ歯が残っている、なんてご老人を昔などは見かけたものだが、今は入れ歯があるし、笑って大口を開けても、綺麗な歯並びが眩しい方が増えている。
その点、冬木立間近の樹木となると、老残の趣が色濃く漂う。木枯らしなどが吹きすさぶ中、残りわずかな葉っぱや何故か落ちたり捥がれたりすることもなく残っている柿の実が揺れてたりするのを、茶の間の窓から、ハラハラしつつというわけでもなく、ただ眺めていたりする。
いつ落ちるのか見守っている…、そんな殊勝な思いで見つめているわけでもない。ただ、飽くことなく眺めているだけなのだけど。
まあ、人間とは違って、樹木は枯れて朽木になったのならともかく、葉っぱは落ち尽くしても来春になれば青々とした葉っぱが生えてくるのだ。人間が冬ざれた光景に興を覚えていても、樹木からしたら、そうした感傷など屁でもないのだろう。
それどころか、人間様のおセンチぶりを睥睨している…、なんてへそ曲がりな感想も何処吹く風だ。
冬になって寒暖の差が一定限度を超えたから葉っぱの色が変わった、風が吹いて木の枝にいつまでしがみついているのも面倒だから風に吹かれて飛んでみたまでのこと、そうして裸木になったからといって、寒さにブルブル震えているわけではない。
木肌は老いた象さんの肌のようにたのもしく分厚いのだ。
ただの衣替えに過ぎないんだってば…。
甘ったるい感傷も下手な鑑賞も余計な干渉もよしてくれ…。
閑話休題。
ちょっと驚いたのは、季語である「木の葉」の意味合い。「木の葉散る 木の葉雨 木の葉時雨」といった傍題があるのはいいとして、「落葉も枯葉もいう、緑を失った朽ち葉全体をいう」というのは、俳句を嗜む方には注意を喚起すべき知識なのだろう(か)。
もっとも、俳人には常識の類なのか。そもそも「木の葉」が冬の季語だという知識自体が俳句に(も)門外漢の小生には、驚きである。
木の葉って、常緑樹ならば年中、落葉樹だって冬の一時期を除けば、いつだって木の枝に生えているものなのに、「木の葉」は冬の季語!
この点は、後日、改めて調べてみたい。
「朽葉」なる季語も味わい深い。「地面に落ちた木の葉が雨や雪にあって朽ちたものをいう」とか。落ち葉の舞い、降り積もった道を歩く感覚というのは、実に心を豊かにさせてくれる。木漏れ日の中、紅葉した街路樹の道を歩くのもいいが、小生の仕事柄、夜中に人気のない並木道や公園の植え込みを分け入って歩くことが多い。
さすがに都会だと、朽ち葉を踏みしめて歩くのは難しい。風に葉っぱが飛ばされることもあるが、大概は落ち葉たちは掃き寄せられゴミとしてあっさり回収されてしまうからだ。
実際、舗装された道に落ち葉が敷き詰められてくると、その上を車で走る際には、直進はともかくカーブとなるとスリップする可能性が生じてくる。
でも、車より危険なのはバイクだろう。葉っぱが濡れていたり、まだ完全に枯れ葉になってなくて水分(樹液)が僅かでも残っていると、油(脂)が染み出してきたりして、路上の白いペイントやマンホールに負けず劣らず危険な落下物、ということになるのだ。
ところで、誤解しないで欲しいが、何も人気のない道を路上や人家の様子を伺って(物色して)歩いているわけではない。
あくまで休憩である。運転で神経が昂ぶっているのをしばしの歩行でゆっくり解きほぐそうとしている。
昼間は車を止めるのも大変だし、混雑する喧騒に落ち着いて空の観察も楽しめるはずもない。
真夜中過ぎの人気のない公園や町並みをおまわりさんに見咎められることもなく(だって、すぐ近くにタクシーが行灯を灯して主人の帰りを待っているのだし)、ぶらぶらできるのはまさに我が仕事柄であり役得(?)なのでもあろう。
小生が煙草を吸えたなら(吸うのは簡単だ。いつだって喫煙は再開できる。ある意味、車中にいると、日に十数本は伏流煙を吸っているし)、往年の裕次郎かアメリカのギャング映画を気取って煙草を燻らせて一服としたいとkろだが、そこは我慢。
それより、寒くて葉っぱや樹木や植え込みや、あるいは都会には僅かにしか望めない土の匂いを胸一杯に吸って味わったほうがどれほど豊かであることか。何も葉っぱを燃やして煙を吸い込まなくたっていいじゃないか、なんて。
さて、ここらで気分一新。ネット検索していたら、「 落葉踏む音かさなりて相寄らず」という句を見つけた。「季語1711」において、である。
この頁もだが、表紙や目次へのリンクボタンが設置されていないので、表紙を割り出すのに多少の面倒が要る。
どうやら、「俳句回廊」という太田かほり氏のサイトの中の一頁のようだ。以前、すでに参照させてもらったことがある。
「季語1711」は、「狩行素描 『季語別 鷹羽狩行句集』抄 俳誌「狩」掲載本文 平成16年~」という項目の一頁らしい。
この頁を見つけて、正直、がっかりした。
小生が余計な駄文を綴らなくとも、この頁を閲覧してもらうだけで、十分過ぎる意義があったと思われるからである。
「枯葉の季節は詩人や哲学者を生むという」のは、確かにそうかもしれない。哲学科に在籍したこともあるのに、落ち零れてしまった小生でさえ、ふと、哲学しようかな、詩人ぶってみようかなと思うもの。
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コメント
やいっちさん、有難うございます。
枯葉は(の、季節は)詩人を生む。
まさに、そうですねぇ。。。。
でも、やいっちさんは何時でも詩人だと思います。
暑い夏をやっと越えて、大気が日に日に澄み渡り、やがて野山は紅葉、黄葉の季節を迎えます。
更に季節は進み、やいっちさんが仰るような土の匂いもかぐわしい時期となります。
春と秋では土の匂いまで違って感じますから不思議ですね。
秋の冷たい朝、鼻の奥がツーンとする痛みまでも嬉しいような季節です。
田んぼで野焼きをするあの煙のチョッと湿気たような匂い、枯れ草の甘い匂い・・・・
秋の匂いは、香ばしいですね♪
アラ、匂いの話になっちゃった・・・
投稿: 蓮華草 | 2005/11/18 23:10
蓮華草さん、コメント、ありがとう。画像も使わせてもらってます。
小生の居住している地区は、工場地区でそこに無理やり宅地を確保したような場所。
なので、宅地の中の庭以外には土はなかなか見られないし、まして踏めない。
落ち葉が絨毯のように散り敷かれた土の道を歩いてみたい…けれど、近所では無理なので、蓮華草さんのサイトで気分だけでも味わってます。
土を踏む感触、同時に土や草木の匂い。生命感が蘇るようですね。
投稿: やいっち | 2005/11/19 01:45
この記事を書いたからだろうか、テレビなどでの紅葉の話題が気になる。今年は紅葉が一週間ほど遅れているとか。確か昨年も遅れていたような。
それでも、小生の印象だと昨年よりは今年が少しだけ紅葉の始まりが早いような気がする、のだけど、皆さんの近所ではどうだろう。
投稿: やいっち | 2005/11/19 02:11