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2005/11/15

読書拾遺(白鳥と芥川)

 相変わらず正宗白鳥の短編集をちびちびと読んでいる。一週間で短編を二つほど。
 今日は、「生まれざりしならば」(1923年)という短編を一個、読んだ。もう、これだけで本日の読書は足れり、という充実した読後感があった。
 今日、正宗白鳥という作家の存在は文学や読書界ではどういう位置付けとなっているのだろうか。世の読書家たちは、彼をどう評価しているのだろう。
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 それとも、もう、忘れられた存在?
 あるいは、せいぜい小林秀雄の巻き起こした数々の文学論争の一幕として時に省みられるだけ?

← 東京に怪獣出現?!

 小生はもう、小林秀雄が「作家の顔」という小論の中で正宗白鳥をどう批判していたか、覚えていない(小林秀雄に対しての興味もとっくに薄れているし)。
 確か、白鳥がトルストイについて書いた評論に対する論難だったはずだが。
 所謂、「思想と実生活論争」という奴である。
正宗白鳥『文壇五十年』より」なるサイトを開くと、扱うテーマは違うが、正宗白鳥の面目躍如といった評論を読むことが出来る。
「正宗白鳥は現實主義者で、常識人であつたから、理想主義者トルストイの死を卑俗な觀點から解釋して小林秀雄と論爭をしてゐる。さう云ふ白鳥にしてみれば、將來の世界統一、世界平和なるものが馬鹿馬鹿しい妄想にしか思はれなかつたのも當然であらう」とある。
 まだ十個ほどの短編を読みかじっただけだが、白鳥の人間や世間で生きる人間の生活を見る怜悧とも思えそうなリアルな目を実感させられている。

 医学者、それも生理学や解剖学など基礎医学を学ぶ者の目で世間や世態風俗を余すところなく見、分析している。そこには理想や夢では脱出できるはずもない、出口なしの状況に実はある世間一般の人のにっちもさっちも行かない生活が余すところなく淡々と描かれていくばかりである。
 安易な感傷に浸るのが優しさと混同されてしまう、そんな甘口な小説ばかりが流行りがちな今日にあっては、白鳥は読まれようはずがないのかもしれない。
「白鳥は、注意深くその「妄想」の社會が實現した時の事を批判してゐる。「理想の社會」が實現した處で、人間は理想的な存在とはならない、と白鳥は言つてゐる。社會を改良した處で、人間が良くならなければ意味はない」と上掲のサイトにはあるが、どこにいっても人間がいる。少なくとも自分が居る。自分という厄介な荷物が付き纏う。世間が一人の人間の中にもどっかりとぐろを巻いている。
 そうして現実を冷徹と思われそうな目で、どこまでも淡々と(しているかのように)描いていく。
 小生、少なくとも年内は、筑摩書房の「正宗白鳥集」を、辛口過ぎて飲んでも酔えない酒を嘗めるように、ちびちびと啜って行きそうである。

 辛口つながり、というわけではないが、先週、図書館の書架を眺め歩いていたら、懐かしい本に再会した。丸山健二著の『まだ見ぬ書き手へ』(朝日新聞社)である(今は、朝日文芸文庫に入っているようだ)。
 本書では丸山は、ひたすら孤立に徹し、生活においても交流においても禁欲を説く。
 本書「まだ見ぬ書き手へ」は、無論、現状に落胆し、まだ見ぬ若き書き手へ向けて書かれたメッセージの」書であるのだけれど、同時に、むしろ、自らの苦い後悔に満ちた経験に照らしての慙愧の書であるようだ。
 最初に書いた作品で芥川賞を(当時としては最年少記録で)受賞し、いきなり文学界(のみならずマスコミ界)の寵児に躍り出てしまって、舞い上がってしまった。その結果、自らの文学の方向性を見失ってしまった、そんな経験が少々過度に禁欲的な姿勢を頑なに守ろうとするのをよしとするメッセージの書を書かしめたのだろう。

 本書は小生が首切りに遭い、失業保険で暮らしつつ図書館とプールに通って、心と体のリハビリに努めていた時期、日々10枚の執筆をするというノルマを自らに課し(10枚必ず毎日書くということと、毎日必ず読書するは病気で寝込んでもやる、ということで今も続いている)ているそうした時期の或る日、図書館で見つけ、自らの孤立ぶりを励ましてもらう意味もあって、借り出して一気に読んだものだった。
 あれから十年。物書きに徹することに決心してからは十五年。自分はどこか少しでも変わったろうか。人間的な成長は、人付き合いから撤退してしまったので、切磋琢磨することもないし、望むべくもないとして、書き手として少しは修練の成果が見られるだろうか。
 作家論、あるいは物書き論としては、必ずしも小生は本書「まだ見ぬ書き手へ」に全面的に賛同というわけにはいかないが(小生の書き手としての、あるいは人間としての理想は、接して漏らさず…じゃない、和して同ぜず、である)、それはそれとして、本書を読み返すと、物書きに徹すると決めた頃のこと、失業して公園のホームレスがやけに目に付いてならなかった頃を懐かしく思い返されると同時に、それなりに頑張ってきたわりには、一向に進展らしき気配も見えず、ただただ寂しいばかりの現状を改めて自覚させられるばかりなのである。

 ところで、予断だが、「生まれざりしならば」で芥川龍之介を思い出される方は、相当な文学通だろう。
 芥川龍之介のあるアフォリズムの中でこの言葉(実は題名に違いない!)が引用されている。
青空文庫」の中の、「芥川龍之介 十本の針」の冒頭の一断片「一 ある人々」を以下に転記させていただこう:

 わたしはこの世の中にある人々のあることを知っている。それらの人々は何ごとも直覚するとともに解剖してしまう。つまり一本の薔薇(ばら)の花はそれらの人々には美しいとともにひっきょう植物学の教科書中の薔薇科(しょうびか)の植物に見えるのである。現にその薔薇の花を折っている時でも。……  ただ直覚する人々はそれらの人々よりも幸福である。真面目(まじめ)と呼ばれる美徳の一つはそれらの人々(直覚するとともに解剖する)には与えられない。それらの人々はそれらの人々の一生を恐ろしい遊戯のうちに用い尽くすのである。あらゆる幸福はそれらの人々には解剖するために滅少し、同時にまたあらゆる苦痛も解剖するために増加するであろう。「生まれざりしならば」という言葉は正(まさ)にそれらの人々に当たっている。

 この断片には、明らかに正宗白鳥の「生まれざりしならば」を読んだからこそ触発されたシニカルな芥川らしい人生解剖が見られるような気がする。
 知られるように、芥川龍之介は正宗白鳥を強く意識していた。
続文芸的な、余りに文芸的な」の冒頭の一文「一 「死者生者」」にて、いきなり正宗白鳥が扱われているが、その前に、「文芸的な、余りに文芸的な」において、正宗白鳥にかなり文面を割いている。
 特に、「九  両大家の作品」や「十 厭世主義」など。
 芥川は、(小生の目には懸命に、しかし客観性を装って)正宗白鳥の厭世主義を相対化しようとしている。「正宗白鳥氏の教へる所によれば、人生はいつも暗澹(あんたん)としてゐる。正宗氏はこの事実を教へる為に種々雑多の「話」を作つた」という白鳥の文学とは違う世界を表現しようと希(こいねが)っていた。
 しかし、芥川は白鳥と同様のシニカルさの魔から逃れられなかった。しかも、白鳥ほどにシニカルさに徹することもできなかった。
 芥川は、「正宗白鳥氏の厭世主義は武者小路実篤氏の楽天主義と好箇の対照を作つてゐる」というが、小生が思うに、正宗白鳥は意外と実は根っこの部分に楽天主義…でなかったなら好日的な資質を秘していたのではなかったろうか。
 だからこそ、(安心して)厭世主義的(と他人には見なされるような)世界を描きとおすことができたのではなかったか。


[本稿は、先週末、パソコンのトラブルに見舞われていた時、ワープロ機能を使って書いた雑文に、多少、手を加えたもの。]

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