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2005/10/29

葦と薄の恋

 表題の「葦と薄の恋」とは、「アシとススキの恋」と読む。その意味は、後段で分かる筈である。

 もう、坂本勝著『古事記の読み方』(岩波新書)については、前回でお終いのつもりでいた。「読書拾遺…山田の中の…」にて「案山子」のこと、「稲作…自然…櫛」にて、秋の季語というわけではないが、自然を相手の「稲作」という営為について、引用(転記)をメインの形で、たっぷりと勉強もしたし、紹介させてもらったし。
 ただ、本書はお気に入りの本となったので、これで打ち止めのつもりで、もう一度だけ、採り上げさせてもらう。
 今回は、「薄(すすき)」がテーマである。
kanreki-kisaragi
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 もっと言うと、「人と草木との生命的な連関が息づいている」と著者の語る古代の生命観が示されているというべきか。

「すすき」は、秋9月の季語である。この季語随筆でも、「すすきの穂にホッ」(September 01, 2005)にて既に採り上げている。季語としての「すすき」は、この頁を覗いてみて欲しい。
 あるいは、似ているというか、つい連想してしまう植物ということで、季語随筆「猫じゃらし…エノコロ」(August 20, 2005)でも採り上げているエノコロを脳裏に思い浮かべてみたりしてもいいのだけれど。

 さて、例によって転記から、ということで。
 今回は、本書『古事記の読み方』の第2部の「スセリビメ」の項からの転記である(p.180-2):

「スセリビメ」

 

故(かれ)、詔(の)りたまひし命(みこと)の随(まにま)に、須佐之男命の御所(みもと)に参(まゐ)至れば、その女(むすめ)須勢理毘売(すせりびめ)出で見て、目合(まぐはひ)して、相婚(あ)ひたまひて、還り入りて、その父に白(まを)ししく、「甚(いと)麗しき神来(き)ましつ。」とまをしき(古事記)

 

秋に薄(すすき)が生い茂る野原は、子供達には格好の隠れ家だった。背丈より高く伸びた薄の株を穂の辺りで束ね、それを幾つか繋げて根付きの壁を作る。壁の透き間は別の薄で覆い地面にも敷き詰めると、ちょっとした仮庵(かりいお)が出来上がる。中に入って横になると、庵の周りの草むらも風よけになって結構暖かい。草と土の匂いに包まれ、身体と大地の境目が微妙に溶け始める。古事記の「根の国」の物語にもそうした身体感覚が潜んでいる。
 兄弟の迫害に苦しむオホナムヂを助けようと、母神は息子を木の国の大屋(おほや)ビコのもとに遣わした。そこでオホナムヂは、スサノヲのいる根の国に行くよう教えられる。根の国に至るとまず娘のスセリビメが現れ、二人は目と目を交わして結ばれる。男の来訪を父に知らせたのはその後だった。出会った瞬間に恋に落ちるというのはよくあることだが、それにしてもスセリビメの積極さは、行動的な古事記の女たちの中でも際立っている。男がスサノヲから様々な試練を受けたときにも、彼女はみずから進んで救いの手を差しのべている。実はそうした女の性格はすでに名前の中に示されている。スセリは他に用例の少ない言葉だが、一夜の懐妊を疑われた女神が身の潔白を示そうと産殿に火を放ち、燃え盛る炎の中から誕生した子の一人に「火須勢理(ほすせりの)命」がいて、日本書紀ではそれを「火進(ほすすみの)命」の別名とする。これによればスセリはススミとほぼ同義である。古代語のススムは、内から湧いてくる勢いのままに事態が進行したり行動することをいう。スサノヲの名が由来するスサブも似た意味を持つ。木の根、草の根、石根(いわね)に連なる大地の根源の国では、父も娘もそうした内から湧き上がる勢いのままに、おのずからなる<自然>を心の核に据えて生きる。
 ススミ、スセリ、スサビは、そうした<自然>の勢いを表したから、女の名の謂れもたんに人間的な心理に限定すべではないだろう。ホスセリが穂孕みの霊力と同時に稲穂の膨らみそのものを喚起するように、スセリビメの霊威もまた大地が育む生命現象に顕現して何の不都合もない。葦牙(あしかび)ヒコヂが葦の芽に、コノハナサクヤヒメが桜花に顕現するように、彼女も何らかの具体を通して生命のスセリを顕す。ただその名に特定の種目を含まないから、葦や桜や稲などに固定することはできない。しかし穂のスセリとの類縁からいえば、同じイネ科で神の依り代(よりしろ)でもあった薄などは、スセリビメの霊威を彷彿させるにふさわしい。ススミ、スセリ、ススキの音韻上のつながりも偶然ではないと思う。事実、根の国から地上に戻った男神は、連れ帰った女の激しい嫉妬に困惑して、もしも自分が去ってしまったらお前は「山の麓の一本薄(ひともとすすき)のようにうなだれて泣くだろう」と歌った。勿論この表現は男に去られて悄然とする女の詩的な比喩であるが、同時に秋に一斉に穂を色づかせる薄の生命がスセル女神の力の現れでもあるという感受性につながっている。人の姿を備えた神が同時に一本の薄でもあるという感じ方が生きている。それは相手の男神についても同様で、オホナムヂは根の国ではスサノヲによって「葦原中国」の主の威力を賛美したもので、その威力は葦の生命そのものでもある。だとすればこの男女の恋は、葦と薄の恋に他ならない。人と草とは二つにして一つ、同じアニマの異なる現れにすぎない。
 体(から)に生命が満ちて身(み)という。殻(から)に生命が宿って実(み)という。そこには明確に人と草木との生命的な連関が息づいている。古代語のススキは葦や荻などの総称としても使われたから、スセル力は鋭く茎を伸ばして穂を結ぶ植物に広く感じられていたはずだ。その力は人の命の力と一つである。そういう人の<自然>の発見が根の国の物語を生む。薄の仮庵体験もその小さな発見だったと思う。


 この「スセリビメ」の項については、特段、何を言うこともない。転記しながら、賞味していただけである。
 
 以前も書いたことも含まれるが、最後に当たって、「三浦半島,野草」から、ススキについて若干のことを。
 ススキについてススキの語源は、「スクスク立つ木からススキとなった」とされる(ホンマかいなと思ったりもするが…)。「秋の七草のひとつ」でもある。
 さらに、「花言葉は勢力・活力。たいへんに生命力が強く、強靱な植物なのです。花言葉の「勢力」「活力」はそんなススキの生命力にちなんだものと思われます」とか。

「別名:オバナ」ともある。
 連想するのは、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という川柳だろうか。小生には、この句の示す、恐怖心などが齎す思い込みをテーマにしたかのような「白いドレスの女」という掌編がある、というのは、思いっきりの余談である。
 ススキ(オバナ)が時に状況によっては幽霊と見間違われたりするとしたら、その木の下か周りには幽霊が佇んでいると思われたりするのは柳。どちらも風に吹かれ、どうにでも靡くようでいて、案外としぶとい。生命力(生活力)が旺盛である。
 幽霊に女性が多いというのは、生命力の故だろうか、それとも、過去において虐げられることが多かったから、なのだろうか。
 それとも、女の幽霊を絵においても小説においても描くのは男性であることが多いのは、自分がそんな仕儀に至ってしまった負い目があるからなのか。
 ま、そんな戯言など知ったことかと、ススキは風に揺れている。われわれはただ、それを眺め呆けていればそれでいいのかもしれない。

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コメント

こんばんは♪やいっちさん
ススキといえば、幼少のみぎり(笑)田んぼの土手をザザーッと滑って降りる時、土手が高いのですぐにススキを持って、手を切っていました。痛いしよく切れるのですよ(T_T)
かみそりみたいですわ。

幽霊の小袖があるお寺がわが町にあります
確か4年に一回のご開帳です。オリンピックみたい。
一度見に行きました、綺麗な色でしたけど・・

投稿: 蓮華草 | 2005/10/29 22:00

蓮華草 さん、こんにちは。

> ススキといえば、幼少のみぎり(笑)田んぼの土手をザザーッと滑って降りる時、土手が高いのですぐにススキを持って、手を切っていました。

 ああ、これって棚田だからできることじゃなかろうか。小生の田舎では、一応は平野なので、田圃の土手など、ただの畦で、滑るどころか、歩くのも気をつけないと、呆気なく崩れてしまう。
 ただ、幼少のみぎり(小生も、ちょっと前はそうだった…笑)ススキの原がまだあって、そんな原っぱで遊んだり駆けたりすると、気がつくと手を切っていたりしたものでした。

> 痛いしよく切れるのですよ(T_T)
かみそりみたいですわ。

 さすがにイネ科の植物だけのことはありますね。

> 幽霊の小袖があるお寺がわが町にあります

 普門寺のことでしょうか:
http://www.town.geino.mie.jp/kankou/bunka.htm
「境内は桜の名所としても有名」だとか。
 幽霊の小袖伝説とはどんな話なのか…。
 

投稿: やいっち | 2005/10/30 06:47

こんにちは、さっき画像の方へ仁王の宅配便をお届けしました♪
ハイ、棚田なので家の近くにある田んぼからウンと下の谷の側にある田んぼまで道を通らなくても、滑り降りていけるのです^m^
しかし、行はよいよい帰りはなんとやらで息を切らせて、坂道を登ることになります。

普門寺 やはりこのお寺が出ますね
こちらの方が有名ですのね。
私んちの方は、もっと、マイナーみたいです。

投稿: 蓮華草 | 2005/10/30 15:03

蓮華草さん、こんにちは。
河の土手の斜面などをダンボールをお尻に宛がって滑る遊び。やったことがあったかな…と思い返してみたら、ありました!
それも、小学校で。
38(サンパチ)豪雪の折、校庭の整備に自衛隊が来ました。雪掻きのためです。その翌年だったか、我が小学校のプールの脇にスキー山が作られました。雪遊びを覚えたガキんちょのためでしょうか。
で、その高さ数メートルのスキー山(築山)で冬は勿論、スキーですが、春からはダンボールか何かを橇代わりに滑り降りる遊びに変わる。
そのスキー山、今もあるのですが、雪も少なくなったし、遊びに使われているのかどうか…。

あ、画像のほう、おねだりしたみたいで、すみません(明らかにおねだりだった…ですね)。
近く、使わせていただきますね。
ありがとうございます。

投稿: やいっち | 2005/10/30 19:38

今晩は~
その昔(?)近くに野原があった頃。。
草を集めて隠れ家を作って遊んでました。
捨て犬を内緒で飼ってたら、見つかっちゃいましたけどね。
懐かしく思い出しました♪

投稿: ちゃり | 2005/10/30 23:56

ちゃりさん、こんにちは。

> 草を集めて隠れ家を作って遊んでました。

 凄い!
 隠れ家というと、近所の兄ちゃん(いつも遊んでもらっていた人)が、我が家の真裏の藪にあった背の高い木の幹から枝分かれしている太い枝の根元の辺りに板切れなどを按配して、人間版の巣を作った事があった。
 悲しいかな、小生の記憶では、当時の小生には高すぎてその巣まで上っていくことができなかったような。
 ただ、記憶の欠片を拾ってみると、小生、もしかして高さにビビッテ上るのを躊躇っていたようにも思える…。

 捨て犬というか野良犬については、ちょっと苦い思い出がある:
「犬とコロッケ」
 http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/essay/dog-food.htm

 藪とか原っぱとか、ススキの原とか、懐かしいですよねって、ちゃりさんて、何歳くらいなんだろうという疑問は野暮だね。


 

投稿: やいっち | 2005/10/31 04:05

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