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2005/10/20

木の実…林檎…楽園追放

 表題の「木の実」は、「きのみ」と読むのか「このみ」なのか。それともどちらでも良くて、好みに任されているのか。
 例によって分からない時のネット頼みで、「三省堂 「新歳時記」 虚子編から季語の資料として引用しています」を参照させていただく。
s-tingensai-tuki-1

← 青梗菜さんに戴いた大阪(数日前)の月! 見事!

 当該の項を見ると、「木の実(このみ)」とあり、「栗の実・樫の実・椋の実・椿の実・無患子、その他名のある木又名の無い木も大概な木の実は秋に成熟するので、それ等を総称したものである。「木の実落つ」別項。木の実(きのみ)。」といった説明が施されている。
 うーん、「きのみ」と「このみ」の両方が載っている。木の実ナナさんに聞いてみるしかないのか。
 ちなみに、その直下には、「林檎(りんご)」の項があり、「林檎は夏食べられる早稲種もあるが、普通秋熟する。 色彩が鮮美で、滋養に富み、生食する外蒸したり、 羊羹、酒等をも作る。北海道・青森等産額が多い。」という説明を見出すことができる。

「木の実 季語」でネット検索してみる。
 また、小生を思い出話に花を咲かせようとでもいうのか、「黛まどか「17文字の詩」98年11月の句」なる頁が上位に浮上し、「恋人を待たせて拾ふ木の実かな」という思わせぶりな句が目を惹いてしまう。s-tingensai-tuki-2

→ 同じく青梗菜さんに戴いた月の画像。「サッキオ前ガ見タ月ハ、コンナ月ダッタカえ?」だって…。

 小生も小生で、いけないと思いつつ、「女の子は、四つ葉のクローバーを探したり、木の実を拾ったりすることが大好きです。木の実拾いにすっかり夢中になり、彼を待たせたままの女の子。彼女はきっと、待っていてくれる恋人の優しさに、ちょっぴり甘えているのです。彼のほうも、無邪気に木の実を拾う彼女を見ながら、「愛しいな…」なんて思っているのかもしれません。木の実を拾う女の子と、待っている男の子。そこには、二人だけの信頼関係もあるのです」と、鑑賞文を転記してしまう。
 いいよな。そんな場面の中の二人、そのうちの一人があの子で、その相方がオイラだったら…。

 気を取り直して、「林檎 季語」でネット検索してみる。すると、「ikkubak 日刊:この一句 最近のバックナンバー(2001年9月1日)」にて、「空は太初の青さ妻より林檎受く    中村草田男」という句と坪内稔典による評釈を見出す。
 鑑賞文の中に、「(山下)一海さんによると、江戸時代の林檎は夏の季語だった。それは中国原産の小粒なもので、子規なども夏としていた。林檎が秋の季語になるのは、昭和に入って編集された高浜虚子の歳時記などから」という記述がある。

横浜市経済局 中央卸売市場 市場のトッピックス-今が買いごろ-果物 リンゴ」を覗く。
 旧約聖書での扱いも書いてあるが、ここでは日本と林檎の絡みを教えてもらう。
「日本で「リンゴ」の名が記録されたのは平安時代の中ごろ。中国から渡来した「和リンゴ」と呼ばれる粒の小さな野生種で、江戸時代にはリンゴ栽培が広がりました。明治の初期にアメリカから多くの品種が輸入され、栽培・育成されてきました」とある。
ikkubak 日刊:この一句 最近のバックナンバー(2001年9月1日)」に書いてある、「はやくに林檎は秋の果物として詩歌に登場していた。島崎藤村の「初恋」(『若菜集』明治30年)に、「やさしく白き手をのべて/林檎をわれにあたへしは/薄紅の秋の実に/人こひ初めしはじめなり」とあるのがそれ」というが、島崎藤村は初物好きだったのか。好奇心旺盛だったのだろう…か。

 さて、目を日本の外に向けてみよう。なんといっても、林檎は時に中国から(中国へもさらに西域の何処かから広まってきたのだろう)、明治の初期にはアメリカから渡来したというのだし。
たまねぎ地獄」の「リンゴ」なる頁が参考になる。
「リンゴ。バラ科の落葉高木。コーカサス地方(現在のトルコ東部)を原産地とする果樹で、主に接ぎ木などで殖える」など、以下、リンゴについて詳しく書いてある。
「リンゴの花ことばは「後悔」(フランス)、「名声が彼を偉大かつ善良な人物にした」(イギリス)。また実にも「花ことば」ならぬ「果実ことば」があり、「誘惑」(イギリス)、「不従順」(フランス)」で、どちらも聖書の「イヴのリンゴ」からの連想である」という説明がある。
 なので、以下を読む前に、(旧約)聖書の当該の有名な話を改めて思い出しておこう。
アダムとイブ(リンゴ)」では話を簡略化して教えてくれる。
「神はエデンの園に住むアダムとイヴにこう命じた。「どの実を食べてもいいが、善悪を知る木の実だけは食べてはいけない。」ところがある日、ヘビがイヴをそそのかしたんだ。「あれは知恵の実だ。食べてごらんよ。」」ということで、「ついにイヴは禁断の実を食べ、イヴに貰ってアダムも食べてしまった!」ことから、アダムとイブの話が展開していく。
 さて、ヘビがイブをそそのかした…。確かに直接的にはそうなのだろうけど、そもそもそうした舞台設定をしたのは神なのだから、神が(そそのかすような動物として創られたところの)ヘビをけしかけて、ヘビが(誘惑に弱く好奇心が強く堪え性のない動物として創られたところの)イブをそそのかせる結果に至ったのではないか。一番、罪深いのは、一体何処の何方(どなた)でござんしょうかね、なんて、もやもやした疑念が胸の中でトグロを巻いているが、神様に向かって文句も言えず…。
 以下、「アダムとイブ(リンゴ)」にもリンゴについていろいろ教えてくれるが、「たまねぎ地獄」の「リンゴ」に戻る。

「リンゴは欧米人にとって最も普遍的な果物の一つである。人々はこの赤い果物と身近な存在を結びつけて親しみ、また秘術・宗教・学問といったあらゆるものをリンゴと関連付けて考えた」という。以下、興味深い事例を幾つも挙げてくれている。
 さて、「リンゴを意味する言葉「アップルApple」は本来「木の実」全般を差す言葉であり、特定の植物を表すものではなかった。それほど昔はヨーロッパのあちこちにリンゴの木があった、ということである」が重要な情報のように思える。
 小生などはアダムとイブの楽園追放の話に出てくるリンゴを勝手に真っ赤なリンゴなどを浮かべてしまいがちであり、なかなか木の実としての青っぽく小さなリンゴなどとは結び付け難い。
「漢語の「林檎」は「猛禽類のとまる木」を意味するもので、さまざまな鳥がこの木の実を目当てにたくさん寄ってきた姿を表している」以下の記述も面白いが、今回は寄り道するのは堪える。つらいけど。

「リンゴの起源は先史時代にまでさかのぼることができる」という【リンゴの歴史】の項も目をそらして行き過ぎる(この項も興味津々なのだけれど)。

 で、行き着く先は、【リンゴが象徴するもの】という項目。
「リンゴは古今の伝承に多く登場する果物である」として、「中でも、旧約聖書の創世記のくだりで、アダムとイブが「知恵の実」を食べてエデンの園を追い出された逸話はことに有名。この「知恵の実」が何であるかははっきり言及されていないが、古くはイチジクもしくはアンズであるとされ、その後のヨーロッパではリンゴの実になぞらえられた」という記述が続く。
 あれ、「知恵の実」は何なのかはっきり書いてないって! 慌てて(慌てる必要もないが、行きがかり上、焦って戻って)みると、なるほど、「善悪を知る木の実」といった記述しかない。
 古くはイチジクもしくはアンズとされていた…。「その後のヨーロッパではリンゴの実になぞらえられた」というのだ。
「ついにイヴは禁断の実を食べ、イヴに貰ってアダムも食べてしまった!」すると、「その途端、2人はお互いが裸であることに気づき、慌ててイチジクの葉で腰のあたりを隠したんだ」とさ。
「慌ててイチジクの葉で腰のあたりを隠した」となると、イブとアダムの二人のすぐ傍にイチジクがあった…ということだろうし(葉っぱが大きくて役に立ったからなのだろうけど)、となると、彼らが口にしたのも、イチジクだったのか…。
 しかし、その後のヨーロッパでは、とにかく、リンゴの実になぞらえられたというのが重要なのだろう。歴史というのは事実よりも意味づけ、記述された事項、人々の脳裏に焼き付けられたイメージが圧倒的な意味合いを持つのだし。
「秘教や白魔術において、リンゴはしばしばウェヌス(ビーナス)の象徴とみなされることもある。リンゴを縦に割ると女性の性器に似ているからだ(ビーナスは性愛を司る女神である)」というのは、さもあらんとは思うが、小生の好みからしたら、「桃(ピーチ)」のほうが女性を連想しやすい。あの形! 何も縦に割られなくたって、外見からして、しかも彩りからして女性を象徴しているように感じるし。
 割り裂いた果実の中身が女性の性器を連想させるというなら石榴のほうが…。と、話が元に戻ってしまいそうだ。

 小生は今、正宗白鳥の短篇集と共に(こちらは文学全集のうちの一冊なので重く大きい)、ミラン・クンデラ著の『裏切られた遺言』(西永良成訳、集英社)を読んでいる。小生は、ミラン・クンデラの小説やエッセイのファンなのだ。

 本書の「聖ガルダの去勢の影」という章に、以下のような記述を見出す:

一九世紀の小説は、恋のあらゆる戦略を見事に分析できたが、性と性行為そのものは隠蔽したままにしておいた。今世紀の最初の数十年間に、性はロマンティックな情熱という霧のそとに出てくる。カフカは(たしかにジョイスとともに)小説のなかで性を発見した最初の作家のひとりなのである。彼は性を、(一八世紀流に)放蕩者たちの小サークルのための遊戯の領域としてではなく、各人の平凡かつ根本的な現実として開示した。カフカは性の実存的な様相を開示したのである。すなわち、愛に対立する性、性の条件、制約としての他者の異質性、ひとを興奮させると同時に反発させる側面といった両義性、その恐るべき力がいささかも衰えないのに、なんとも途方もない性の無意味さ等々。

 と、クンデラは、カフカの小説の基底には、根深いロマン主義がはっきり認められると、この章の中で説いていくわけである。
 そう、ジョイスとカフカのあとに、(D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』や)フェリーニや、ミラーやセリーヌ(「夜の果ての旅」は我が青春の書の一冊だ)が、日本でも数々の作家らが続くわけである。
 
 小生は、カフカの「変身」を幾度、読んだか分からないほど(短いので、珍しく原書も読んだ)。
 何が面白いのか分からないままに繰り返し読ませてしまう。未だにどこにそんな読ませる秘密(魔力)の源泉があるのか分からない。

 話は、簡単で、ある朝、平凡なサラリーマンであるザムザが目を覚ますと、一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する。不自由な体をようやくのことで起こし(なんたって、虫なので仰向けに寝ていたら起き上がるのが大変だ!)、ベッドから文字通り「這い出」すところから話は始まる。
 以下、ストーリーは、「『変身』 フランツ・カフカ」などを参照。
 最後は、「そしてある日、もそもそと部屋から出てきてしまったザムザを見かね、父親がリンゴを投げつける。そのリンゴはザムザの背中にめり込み、彼はそれが原因で、とうとう死ぬ」という場面である。

 或る日、一匹の虫になっている自分を見出す。何を象徴しているか、その含意を探るのは野暮だけれど、或る日、自分が何かに成り果てていること、あるいは昨日の自分には戻れなくなっていることを知ることは誰しもありえること。口では説明できないけれど、何かがあって、もう、昨日の無邪気な自分では決してありえないことを痛切に悲哀の念を以って自覚する。
 物語の結末では、ザムザが父親にリンゴを投げつけられる、その傷が原因で死ぬことになっている。
 けれど、もしかして事の発端は、父親にリンゴを投げつけられたことだったのではなかろうか、なんて憶測をしてみたくもなる。
 禁断の木の実。父親。投げつけられ、背中にめり込む、<それ>。あまりにあからさまなような気がする。

 さて、現実のカフカはというと…

「私は恋人の家の前を通るように売春宿の前を通った」(一九一〇年の日記にあるが、ブロートによって検閲された文章)。

(注:ブロートはカフカの親友。カフカの意に反してカフカの草稿類を遺し、カフカを世に出すことに後半生を送った人物。なんとなくニーチェに対する彼の妹という布置などを連想する。ブロートも妹も共に常識人だったことが世に送り出された草稿に<常識=良識>という覆いを掛ける結果を呼んだ。)

 禁断の木の実を食べてしまった時から人は裸ではいられなくなった。何も服を着用しなければいられない、といった意味合いではない。身も心も裸ということはありえない、ということなのだ。
 あるいは心も身と同様に肉だという枷を生きるしかないということなのかもしれない。

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コメント

 月、使っていただいてありがとうございます。
 我が家のベランダから撮りました。Canon EF 70-200mm/f2.8 +EF 2x +EOS 10D、滅茶苦茶に金がかかってます、これくらいは写ってもらわないと割が合いません(〃^∇^;)。
 ベランダには2mほどのベンジャミンがありまして、葉っぱの隙間から撮りました。

 旧約聖書、ではなくてお釈迦さまの話し。関係がないような、あるような話しですが・・・。
 ご存知のとおり、釈迦が菩提(bodhi)を開いたときに座っていたのは、菩提樹の下、ということになっていまして、その菩提樹の学名は、Ficus religiosa。
 Ficus : クワ科の、religiosa : 宗教的な。
 インド原産で、和名をインドボダイジュといいます。
 寺院に植えられている菩提樹の多くは、学名Tilia miqueliana。
 Tilia : シナノキ科の、miqueliana : Miquel(オランダの分類学者)の。
 中国原産で、和名はボダイジュ。宋に修行に渡った建仁寺の僧、栄西がその種子を持ち帰り広まったったらしいです。道元の生まれた頃でしょうか。―― 道元は1200年って切りのいい年に生まれたので、なにかと計算しやすいです。
 インド原産のFicus religiosaは寒さに弱く、冬が越せない中国では、葉の形が似ているTilia miquelianaを菩提樹と称したそうな。

 ちなみに、ベンジャミンの学名は、Ficus benzyamina。
 インド原産、クワ科のこの樹は、分類学上、インドの聖木に近いのですね。一般にいう菩提樹よりも、余程。
 月とベンジャミン。ロマンティックで、リリカルで、悟りなんてのとは程遠い組み合わせですが、この頃の僕のお気に入りのセットです。
 ―― では、また。

投稿: 青梗菜 | 2005/10/21 02:39

青梗菜さん、ここでもこんにちは。
月の画像、使わせていただき、ありがとうございます。
掲示板、何度も覗いてますけど、話のレベルが高くて、まあ、勉強させてもらうばかりです。

> 滅茶苦茶に金がかかってます、これくらいは写ってもらわないと割が合いません(〃^∇^;)。

 納得です。楽していい写真を撮ろうなんて考え、甘いですね。浅草の写真でも、いい写真はちゃんとそれなりの準備と技法と機会と時間とをかけている。
 今年の浅草の画像を総覧してみて、つくづく感じました。
 こうして人様の努力の成果を使わせていただくのが小生に似合っている…のかな。
 これじゃ、いかんですよね。

 菩提樹の話、興味深いです。
 Ficus religiosaというインドの樹木とは違う樹木(Tilia miqueliana)が代用(?)されている。まあ、仏教の思想自体、中国に渡った(中国語=漢語に訳された)時点でインドとは様変わりしている、そのことの象徴なのでしょうか。

ベンジャミンFicus benzyaminaは、Ficus religiosaと科の上では仲間? 少なくともTilia miquelianaよりはFicus religiosaに近いのかな?

告白すると、小生の部屋にはポトスやらベンジャミンやらが鉢に植えられて置かれていました。入居して間もない頃、部屋が寂しくて、何かしら生き物が欲しかったのです。
それが部屋の中に荷物が増えて置き所がなくなり、誇りまみれになり、やがて涸れ始めたこともあり、邪険な扱いを受け、ついにはベランダに追放!しちゃいました。
 可哀想に夏場はなんとか生き延びたけれど、昨年から今年の冬は越せなかったのか、春先にベランダを覗いた頃には、見る影もなく…。
観葉樹の末路は我が家では哀れ。しかも、未だに手付かずのままベランダに放置されたまま。
こんなところからも、小生がとても青梗菜さんのようには、月とベンジャミンという構図を愛でられるはずもないと知れてくるわけです。

ま、大掛かりな引越しを済まされて落ち着かれた今、しばらくは静かな時空を楽しんでください。


投稿: やいっち | 2005/10/21 11:59

やいっちさん、こんばんは。

高尚なコメントの間に入れていただくのは少々恥かしいほど無学のわたしですが、りんごは紅玉です。アップルパイも紅玉に限ります。深いルビー色した紅玉りんご、あの宝石のような果実を、もし梶井基次郎なら、「丸善」へ出かけこの紅の玉を色とりどり積み上げた本の上にぽん、と置いて、涼しい顔して「丸善」を出、木枯らしの吹く街を闊歩するだろうけれど、そんな勇気はありません。といって、丸善の通りのスタバに入り、珈琲を啜りながらテーブルの上に置いた紅玉を眺める‥ というのも、いかにも芸術家を気取っているようで。‥で結局、小春日和のうららかな日のさしこむリビングで、ストールにくるまって、それが放つほんのり甘酸っぱい香を感じつつ、ちょっと距離をおいた場所からその小さな紅い木の実を見つめたり、手にとってみたりしている初冬のひと日の昼下がり、豊かな秋の実りとあったかい気持ちが目の前にあるしあわせ。‥にひたります。

「雪月花」にのせるイラストですが、わたしの手になるものと、素材屋さんからのいただきものを自由にアレンジし、レイアウトしております。お気に召していただけましたでしょうか? でも、パソコンで仕上げたものは線が固くていけません。いずれわたしも俳画など学び、すさびに描いた絵や書などを載せられたら‥ と夢みております。

よい週末をおすごしくださいませ。

投稿: 雪月花 | 2005/10/21 21:24

雪月花さん、こんにちは。
梶井基次郎には檸檬、雪月花さんにはルビー…じゃなくて林檎(紅玉)ですね。
確かに敢えてやったら気障と思われるか(知っている人ならば)、でも、大概の人には、「あの人、頭、変」と思われるのがオチです。
やはり、林檎をめぐってあれこれ想念を凝らすのがいいのかも。

イラストと文章のバランスの取れた表現、小生の切望するところです。
でも、そのための努力を何もしていないのですから、夢のままに終わりそう。
文章も適度に抑え、読み手の自由な想像に任せる…というのが理想だと分かってはいるのですが、できない。
墨絵を志していながら、実際は油ベトベトの厚塗りの油絵です。
これが性分だから、仕方ないのかな。


投稿: やいっち | 2005/10/22 01:50

アダムとイヴの話は納得できないことが多いですね。
善悪の樹から食べると「必ず死ぬ」と神は警告したのに、食べても死なない、裸であるとわかっただけ、神はウソをついたのでしょうか?
さらに「善悪の樹」の「善悪」とはなにか。
裸であると知ったのだから、性的な知識のことでしょうか?
ともあれ楽園追放物語はヘーゲルが人間の自律の物語と解釈したように、神の元でまどろんでい人間が自律する姿を描いたものと解釈できるかと。

投稿: oki | 2005/10/29 00:15

oki さん、こんにちは。コメント、ありがとう。

> 善悪の樹から食べると「必ず死ぬ」と神は警告したのに、食べても死なない、裸であるとわかっただけ、神はウソをついたのでしょうか?

聖書では、創世記(2/16-17)「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず(その日のうちに)死んでしまう。」と書いてあるようです。
 都合が悪いのか、訳では(その日のうちに)という部分は訳されていない?
 それはともかく、(その日のうちに)の部分を除けば、「善悪の知識の木から」食べたが故に、人間は死ぬようになった…、その意味で、人間は必ず死ぬという神の警告(禁止命令?)を破った人間は神様の言った通りの宿命を背負うようになったわけです。
 ギリギリですが、神様の体面は守られたことになる(?)わけですかね。

 小生が疑問なのは、「善悪の知識の木から」は食べないとして、さて、何から食べたらよかったのかという点(瑣末で申し訳ないけど)。

> さらに「善悪の樹」の「善悪」とはなにか。
裸であると知ったのだから、性的な知識のことでしょうか?

 というより、「善悪」について、自分たちが無防備だということを裸ということで比喩(象徴)しているのだろうと思います(かなり、聖書に好意的に解釈するとして)。

>
ともあれ楽園追放物語はヘーゲルが人間の自律の物語と解釈したように、神の元でまどろんでい人間が自律する姿を描いたものと解釈できるかと。

 この点は納得します。「善悪の知識の木から」食べたが故に人間は死ぬべく宿命付けられ、善悪について裸(無知乃至無防備)であることを自覚させられ、人間はサル、但し裸であることを自覚しているサルとなったわけです。
楽園を追放された、ということですね。
ま、その代わりに悦楽も含め地獄と背中合わせの享楽的な(知的な快楽も含め)極楽の味も覚えてしまって、その愉悦ゆえに、裸のサルの道をまっしぐらに(マッ逆さまに)突き進むしか道はなくなったということでしょうか。

 ただ、自律の物語と捉えようとした点に、ヘーゲルの近代性を感じてしまう。まあ、市民社会の勃興期だったから精神も昂揚していたのでしょうけど。
 サルトルなら自由の刑に処せられている、とでも言うのかな。バタイユなら蕩尽という至高の悦楽の物語の始まり、ということになるのかな。

投稿: やいっち | 2005/10/29 01:57

TB返し、ありがとうございました。
禁断の木の実についての解釈、興味深く拝読させて頂きました。カフカの「変身」は確かにどこが面白いのか解らないまま何度も読ませてしまう不可思議な作品ですよね。カフカが極度の父親恐怖症だったことが、この作品に影響している事は確かだと思うのですが。
 セリーヌ「夜の果てへの旅」はまさに青春の書という呼び方に相応しい作品だと思います。因に私の青春の書のベスト・5は(1)セリーヌ「夜の果てへの旅」、(2)ヘルマン・ヘッセ「荒野のおおかみ」、(3)アンリ・バルビュス「地獄」、(4)ドストエフスキー「地下室の手記」、(5)コリン・ウィルソン「暗黒のまつり」といったところです。

投稿: 下等遊民 | 2006/02/27 20:29

下等遊民 さん、TB、ありがとう。
「変身」などの小説を書く上での父親の存在はカフカの場合、想像以上に大きいのでしょうね。というより、ほとんどカフカを押し潰してしまっているのかもしれない。それこそ踏み潰された林檎とカフカは自分を感じていたのかも。

アンリ・バルビュスの「地獄」は一度しか読んだことがないのに印象的な小説です。誰しも読めば忘れられない小説になるかも。
ヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」は三度、読みました。ヘッセのほかの小説は繰り返し読みたいとは思わないのに(「車輪の下」だけ二度、読んだけど)。自分でも気づかないうちに青春の書になっているのかも。
コリン・ウィルソンは「アウトサイダー」を初め結構、読んだけど、「暗黒のまつり」は知らない。今度、探してみます。

小生の青春の書というと、(1)ドストエフスキー「罪と罰」、(2)セリーヌ「「夜の果てへの旅」かな。

モーパッサンの「脂肪の塊」なんて、短編ということもあるけど十回近く読んでいるかも。ドストエフスキーの「白夜」、チェーホフの「六号室」、ガルシンの「赤い花」、川端康成の「雪国」「眠れる美女」といった小説が何故か読んで居ない時にも脳裏に浮かんできます。

投稿: やいっち | 2006/02/28 07:54

最近、マルト・ロベールの「カフカのように孤独に」(平凡社ライブラリー)を読んでカフカにとって父親のインパクトがいかに大きかったかをあらためて認識させられました。「眠れる美女」は川端の最高傑作ですよね。川端と谷崎は晩年の作品が優れていると思います(谷崎の場合は「瘋癲老人日記」が最高!)。
 「暗黒のまつり」はコリン・ウィルソン若書きの小説ですが昔、早川書房からハードカバーが出ただけで文庫にはなりませんでした。アマゾンで検索しても見当たらないので絶版になったままだと思います。コリン・ウィルソンの場合は「アウトサイダー」「性と知性」など若い頃書いた作品が優れていてオカルト志向(?)になってからの本は読んでいません。

投稿: 下等遊民 | 2006/03/01 03:00

マルト・ロベールというと「カフカ 」(晶文社だったかな)を読んだことがあったような。ずっと昔。中身は忘れた! 確か、K.ヴァーゲンバハの「若き日のカフカ」とか、マックス・ブロード、G.ヤノーホ辺りを読んだような。いずれも学生時代。

「暗黒のまつり」はコリン・ウィルソンが「アウトサイダー」に遅れること数年で書いていたのですね。だったら興味深いな。彼の本領とか彼らしさは若い頃にあったと思うし。
彼の性論書とか宗教書は若い頃の小生には表向きの(正統派の?)哲学に疲れた時の気休めの書になっていたような。
彼の本で最後に読んだのは、柴田 元幸監訳の『わが青春わが読書』(学研)です。やや大人になった彼の日本人向けの書き下ろし。数万冊の蔵書、数万枚のレコード!
読書(本)好き、音楽好きは一読の値打ちありです。
コリン・ウィルソンのオカルト志向(?)についてはあまり知らないのですが、「コリン・ウィルソン、オウムを語る (月刊プレイボーイ1995年9月号)」という記事をネットで読むことが出来ます:
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1733/aum/colinwilson.html


投稿: やいっち | 2006/03/02 08:55

「コリン・ウィルソン オウムを語る」の記事、今から早速読ませて頂きます。先日、「ミュンヘン」という映画を見たのですが、この映画の製作にもコリン・ウィルソンは関与しているようですね。それから「暗黒のまつり」の版元が早川書房というのは新潮社の間違いでした。謎の性犯罪者「切り裂きジャック」に魅せられた主人公の哲学青年はコリン・ウィルソンの分身のようでもあります。

投稿: 下等遊民 | 2006/03/02 20:17

さすがにコリン・ウィルソン、小生は未読ですが、彼に付いての研究書が出ていますね:
ハワード・F・ドッサー著「コリン・ウィルソン  その人と思想の全体」(中村正明訳、日本教文社)
自伝も面白そう:
「コリン・ウィルソンのすべて〈上・下〉―自伝」(中村 保男訳、河出書房新社)
彼は歌で言えばアラモのように日本において特に人気がある? 
いずれにしても一筋縄ではいかない人物のようですね。

投稿: やいっち | 2006/03/02 22:39

門脇佳吉は創世記第二章に聖書の真髄を見ていますね。
七節の「神は命の息を吹き入れられた」という一節に人間存在の神秘をみている。
しかしアダムとイヴの話を考察しないで七節の理解に止まるところが一面的に過ぎます。

投稿: oki | 2006/03/03 22:55

「門脇佳吉先生は、カトリックのイエズス会の神父・SJであり、同時に道元禅の師家でもあります。禅の大家大森荘厳老師の直弟子」だとか:
 http://www.geocities.jp/ytbpch/bokusi/b-akasi.htm
『魂よ,目覚めよ   霊感と芸術の創造 』
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/8/0012870.html
『瞑想のすすめ―東洋と西洋の総合』
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9890655640
『呼吸と共に祈る ロザリオ』
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=997358807X
『身の形而上学―道元と聖書における「智慧に満ちた全身」論』
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9940344139
などがあるみたい。
イグナチオ・デ・ロヨラの訳や、特に『呼吸と共に祈る ロザリオ』が意味深なのかな。
道元や密教への関心とキリスト教、特にロヨラへの関心を結びつけるとなると、呼吸法(息)に焦点が合うのは自然?
okiさん、どうぞ、ご教授を!

投稿: やいっち | 2006/03/04 08:05

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