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2005/10/16

孤悲…ギョエテとはおれのことかとゲーテいひ

 今日の表題(テーマ)は「葡萄」にするつもりだった。秋10月の季語例表を眺めていて、ふと、葡萄の房や一粒一粒の葡萄の粒の、いかにも果汁に満ちた感じが今の小生の心の栄養になりそうに感じたからである。
 そこで「葡萄 季語」でネット検索していると、「五線紙の栗や葡萄が唄奏で」という句を「右脳俳句パソコン句会 10月例会(3)」にて発見。楽しげな句で、葡萄に絡む句の事例として挙げようかと思っていた。すると、同じ頁にて、「万葉の恋は孤悲とも鳥渡る」なる句を発見した。
(正確に言うと、「鶏頭にしきりにお辞儀する烏」も気に入ったのだが、今更、「鶏頭」の項に入れるのも億劫だなと思っていたら、その直下に、「万葉の恋は孤悲とも鳥渡る」なる句があったわけである。)
 小生、この句で、「万葉集」では「恋」を「孤悲」と表記していたことを再認識した。

 この「孤悲」をさらに検索してみると、まさにこの表記に拘り、書道の題材に選んだ方のいることを知る。
岡久郁子~文字に孤悲(戀)した人たち~」を覗いてみて欲しい。
「万葉集では、「戀」に孤悲、古悲、故非、古比、故飛などを当てている。戀には、「孤悲」がよく似合う」という冒頭の一文は納得するしかない。
「複雑な感情の塊である「孤悲」。その深さ、重さを穂先の短い刷毛でどのように表現できるか挑戦した。背景に貼ったのは、大和から鎌倉時代までの、文字の変遷が分かる資料を臨模したものである」ということ。作品はひたすら鑑賞するしかあるまい。

「万葉集」における表記上の試行錯誤は、その歌の表現世界と切っても切れない関係にある。
 その辺りの背景事情などは、「日本国語大辞典第二版オフィシャルサイト:日国.NET 第13回 万葉集の戯書」を覗いてもらうのがいいだろう。
 さらに、「日本国語大辞典第二版オフィシャルサイト:日国.NET 連載・日本語塾 第79回」によると、「問題392 「恋」を万葉仮名ではどのように表記した場合が多かったでしょうか。」に対する答えとして、「「孤悲」です。万葉仮名では単に表音だけの目的で字が選ばれるのではなく、表意意識が強く働いて字が選ばれる場合も多く、「孤悲」という恋の表記がまさしくそうで、ここから当時の人々の恋観が濃厚に浮かび上がってきます。それは目の前にいない対象を求め慕うことで、求める相手といしょにいることのできない悲しみを伴うものだったのです。」と書かれていて、興味深い。

 ちなみに、長友 文明著『古代和歌集点描―恋心を孤悲と詠む万葉びと』(文房夢類)といった本が見つかった。面白そう。
 余談だが、仮名漢字変換で万葉仮名の事例がさりげなく浮かび上がるようなソフトがあると、パソコンを使っての文書作成も楽しくなりそう、などと思ったりする。

 現代において、日本語の乱れ(と呼ぶべきかどうか迷うところだが)が時折、話題になることがある。
 多くの言葉(名称)において、必ずしも固定した表記が定まっていたわけではない頃には、書き連ねる人によって、今の我々が見るなら当て字としか思えない表記が施されている事例をしばしば目にする。
 外来の文化(特に欧米)が怒涛の如く流入してきた幕末から明治にかけては、表記の上での流動性が極度に高まった時期ともなった。
 明治の文豪の本を読んでいて興味が尽きないのは、案外と表記の可能性(それとも融通無碍さ)を豊に感じられるという点も少なからずあるように思える。

 もともと漢字というのは中国(朝鮮を経由して)からの主に仏教経典などの形で日本にやってきた。弥生時代の人は、その表現世界に圧倒されたことだろう。そして懸命に表記に取り組み試行錯誤してきたわけである。
 漢字は、表意文字であり表音文字でもあり、しかも、漢字一文字でそれなりに独立した意味合いを有していることが多い。明治の初期において、欧米の文化(言葉)に対応するため、漢字二文字を組み合わせることで、ほとんど全ての外来語を日本語化(漢字表現化)したわけである。その力技の凄さをつくづくと思う。
(この項は、「ゆたかな文字文化を創りあげるために 漢字と日本文化」を参照。)
 明治の初期というのは、弥生時代から奈良以前(万葉集の成立した時期)に匹敵するとは言えないだろうが、戦国時代末期(大航海時代)に勝る表記の上での疾風怒濤の時代だったとは言っていいのだろう。
(あまりの混乱振りに、「慶応二年(一八六九)に前島密は「漢字御廃止之儀」を将軍に提出した」というし、「明治一〇年、福沢諭吉は「文字之教」で漢字の数を三千程度に抑えることを主張」したという。前島密とは、日本の近代郵便制度の創設者であることは言うまでもないだろう。)

 まあ、表記に限らず、いろいろな意味で「万葉集」(や「古事記」)は、字面を眺めているだけでも楽しく(?)なる。
 柿本人麻呂らの歌は、表記の上で漢字の使い方に工夫が重ねられたが、同時に音の上でも苦心されていたと素人ながらに感じる。この辺りのことは、関連する文献を読む機会が得られたら、再度、触れて見たい。

 漢字表記に止まらず、外国語の日本語表記という一般的なテーマとしても面白い。取りあえずは、「明治 漢字表記 混乱」というキーワードでのネット検索トップに現れる「外国語の日本語表記 - Wikipedia」なる頁を一読するだけでも、「川柳「ギョエテとはおれのことかとゲーテいひ」はそのような日本語表記の混乱を題材にしたものである」といった記述もあり、楽しいし日本語表現への興味が改めて掻き立てられるようだ。
 
 さて、秋もいよいよ深まってきたということで、ホットなコーヒーが恋しい季節となってきました…。


 我ホットに愛す珈琲を
 珈琲を恋しいと読む我悲し
 アイスでもホットな孤悲が叶うのよ
 ホットなの私を愛す恋しいって

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