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2005/10/13

読書雑記(続)

[所用があって慌てていたので、中途の文章をアップしてしまった。しばしばパソコンがフリーズしたり文書が消え去ったりするので、保存しようとしたはずがアップしてしまったようだ。気を取り直して続きを若干だけ。]

 前稿では、「むしろ定まらない自分の中の掴み切れない妄念なのだろう」といったところで終えている。
 典型的なお茶を濁すといった切り上げ方。
 時間切れということもあり、半端な形になっているが、自然ということについては、もう少し触れておく余地がある。
 ソローの時代はともかく、地峡上に60億を越す人間がひしめき合う現在にあって、ソローの生活が夢であり理想であっても、夢の実現・実行となると、実際的にはどうだろうか。
 狭い料簡しかない小生には、何か皮肉な見方をしたくなる。現代にあって、自然の景勝に恵まれた地にあり、ほどほどの土地を耕し、地の実りを収穫し、木の実りのお零れを戴き、魚や貝など河の恵みを採り、そうした自然の贈与を戴くだけで自足し得る生活を送れるのは、一体、どれほどの数の人だろうか。
 しかも、万が一、そうした人里を離れた生活に倦んだなら、その気になれば里に降り、あるいは都の空気を吸いに気分転換をかねてでも舞い戻る事だってできなくはない。いや、多分、呆気ないほど簡単に元の黙阿弥に戻れる。
 所詮は、都会人なのであり、村や村外れにあっても、交通・交流の手段に事欠くことはないし、場合によっては役所関係の人が見回りに来ることだってありえる。きっと、見放したりはしないだろう(何も税金の徴収が目的だというわけじゃないが)。
 ある意味、西欧や欧米カブレした先進諸国の人間には自然の中の生活というのは贅沢の極みなのである。
 都会の飽食に飽き、贅沢三昧に倦み、そんな奴に限って、オレはお茶漬けが好きなんだよとか、御飯にお新香があれば十分、旬の素材を旬な時に味わえれば最高だなとと、要するに時間とカネに余裕のある人の言いそうなセリフなのである。
 自然といっても、蚊は見つけ次第に殺すか殺すような薬剤が部屋の隅にあり、そもそも窓や玄関の外から虫などが入ってこないように完全に締め切られ、緑が好きと言い条、雑草は片っ端から毟り取り、選ばれた嗜好に合った季節の花や木々が愛でられ、秋の風を風流だといいつつ、しっかり空調設備が整っている。
 自然といっても、小生の言葉を使えば、刈り込まれた自然、人為的な自然に過ぎないのである。
(過ぎないと言っても、小生だって、そのほうが快適だと思うし、かくありたいと思う。)

 が、さて、都会にあっては窓の外、アスファルトの下、ガードレールの向こう、ミラー状の窓に反射され(中からは外を伺えても外から中はシャットアウトする)、空気清浄機と殺虫剤に遮断された自然、手付かずの、というよりも、手の付けようのない、人間の力など脆くも潰え去るような圧倒的な自然。得体の知れない微生物が生息し、人間を獲物としか見なさない獣が跋扈し、生き血を狙って息を潜める蛭(ひる)が木の枝葉の陰に隠れている、万が一、その世界の中に足を踏み入れたなら、人間性の全てが剥き出しにされ、心のコートが引っ剥がされ、生か死かの瀬戸際にあって、善悪を忖度する余裕など微塵もなくなり、身心共に吹き荒ぶ風と吹き付ける雨に翻弄され、世界が嵐そのものとなる。
 それでいて、その嵐は豊穣なる世界の象徴なのだ。ギリシャの哲人がピュシスと呼んでいたところの、人間にしてもその世界に実は直面しているはずなのに、教育と慣習と馴れの中に気付かなくなってしまったところの、鼓動し蠕動する肺腑そのものが人間も常識をも圧倒し去る世界。
 さて、過日、中沢 新一著の『純粋な自然の贈与』(せりか書房)」を読了した。
 レビューによると、「危機にさらされる人間の霊性を根本において支え、擁護するものとしての「贈与の精神」を探究する、今日最大の問題にたちむかう書。マルクスとキルケゴールとモースが一つに結びあいながら未曽有の地平を開く」という。
 この中の「贈与の精神」とは、マルセル・モースの贈与論が大きなテーマになっていることを示している。贈与を過剰と置き換えたら、バタイユを連想するか、マルクスを連想するか、人ぞれぞれだろう。
 本書の書評を書く能力も時間もないので、ここは「オンライン書店ビーケーワン:純粋な自然の贈与(脇博道)」を参照していただくほうが、小生より遥かにましだろう。
「氏のテクストは、常に外部に開かれている。ゆえに、深刻に読む必要などないとここでは思いきって断言してしまおう。音楽を聴くように軽快に読み、サンプリングされた他の優れたテクストに即座にジャンプする。氏の論考のスタイルそのままに読者も気ままにリミックスを繰返しながら、氏の論考を再点検する。そのような読書の楽しみが保証されているおすすめの一冊である」という結論は、納得する。とにかく、面白かった。
 どの論考からも、中沢 新一氏はピュシスの世界、人間が生まれ育ち常識を涵養し去ったのちには縁を切ってしまい、あるいは眼前に眼下に足下に頭上に背後に肺腑に世界に過剰に横溢している自然の世界へと導いてくれる。彼が採り上げるマルクスもゴダールもバルトークもディケンズも、その世界は剥き出しの、仮借ない自然を描いている、あるいは予感させる、あるいはせめてその入口に導いてくれるのだと教えてくれるのだ。

 自然は優しいという発想がある。その優しさとは、実のところ、人間的感情も論理も何もかもに対し全く無関心だということを意味するのなら、小生も納得できる。
 夜の底にあって、一人、闇の道を歩いているはずが、どこまでも付きまとう影がある。自分の影だ。なんのことはない、月が光を放って世界に一人きりの気分に浸りたいソレに対し、そんなことは許さないと告げているかのように、影を付き纏わせる。月は優しいのか。
 ソレに関心を抱いているという意味でなら、違う。なぜなら、月は地上世界の誰彼、何くれを区別することなく影を与えているのだから。つまり、誰にも何物にも関心を抱いているようでいて、つまりは全く我が道を行っているだけのことなのだ。
 そうして、足元には大地があり、ソレを包む大気があり、その上には天上世界がある。
 そのどれもがソレを抱いているようでいて、実は何もかもを一挙に一緒くたに覆い尽くしているに過ぎない。
 世界は震度百の地震の連発よりも凄まじく揺れ動いている。煮え立っている。決してある量子状態へと崩壊したりはしない。形を採っても、量子のほんの気紛れに過ぎない。
 さて、小生が自然と共に暮らすとしたら、そう、何も山の中、池の傍、海に面して、といった条件などまるで必要はない。なぜなら、自然はそこにある。板切れ一枚下は地獄のような極楽。極楽のような地獄が口を開けている。天国と地獄は背中合わせであり、一心同体であり、豊穣なる自然はほんの少し気紛れにクシャミをするだけでソレを圧倒し、飲み干し、溶け去り、灰燼に帰し、芥(あくた)の山の一粒にさせてしまってくれるのだから。
 その可能性の、せめて予感だけに過ぎなくても、それはきっととてつもない自然の贈与なのであり、豊穣を超えて過剰としか言いようのない自然の現実への食み出しなのだろう。せめて、その食み出した切れっ端くらいでも、蕩尽したいものである。

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コメント

キルケゴールでヒットしましたのでTB貼って置きます。

投稿: pfaelzerwein | 2005/11/11 07:48

PFAELZERWEINさん、こんにちは。
キルケゴールは高校時代から大学にかけて読んできたけど、殊更、彼について書いてみたことはない。ここでも掠っているだけ。なのにネット検索で引っ掛かるなんて、気恥ずかしい。

投稿: やいっち | 2005/11/12 18:41

PFAELZERWEINさん、こんにちは。
キルケゴールは高校時代から大学にかけて読んできたけど、殊更、彼について書いてみたことはない。ここでも掠っているだけ。なのにネット検索で引っ掛かるなんて、気恥ずかしい。

投稿: やいっち | 2005/11/12 18:41

キルケゴールは、今週が死後150年の命日でした。私は知らないというだけでなく苦手でしたが、これほどに影響力を持っていたというのを初めて知りました。特に北ドイツ圏です。何か纏まりましたら書いてTB貼りますので宜しく。
PCを早く直してください。文がまた溜まりますね。ネットへの不通は、設定が変わっていなければプログラムが潰れた可能性がありますね。メールも駄目ですか?自分宛に発信しても。ハードのコンタクトもありえますしね。

投稿: pfaelzerwein | 2005/11/13 21:03

pfaelzerwein さん、こんにちは。
) キルケゴールは、今週が死後150年の命日でした。

 小生も知りませんでした。学生時代、読み漁ったのが懐かしい。
 数年前にも「誘惑者の日記」などを読みましたが、ちょっとご無沙汰気味。
 ある意味、四半世紀昔、実存主義が流行していた当時ではなく、グローバリズムが世界を席巻しているいまこそ、キルケゴールの思想が重みを持ってくるのかも。
 なんだか読み返してみたくなりました。

 あ、パソコン、直ったようです。昨夜、SEの方に来てもらい、修復してもらいましたのです。
 三日ぶりのネット復帰。キーボードを打つ手が震えるようです。
 また、よろしくお願いいたします。

投稿: やいっち | 2005/11/14 01:35

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受信: 2005/11/11 07:54

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