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2005/10/13

読書雑記

 ソロー著の『森の生活』の新訳が出たという情報は書評か何かで知っていた。が、生憎、その新訳本が出た頃には小生、本の購入は断念し始めた頃で、書店に足を運ぶこともやめている(止めて一年半となる)。
 いつしか、ソローの本のことも忘れてしまっていたのだが、先週、図書館で次に読む本を物色しつつ書架を巡っていたら、件(くだん)の本が鎮座しているではないか。
 その本とは、ヘンリー・D. ソロー著『ウォールデン 森の生活』(今泉 吉晴訳、小学館)である。
 実は本書については文庫本を既に持っている。しかも、二度三度と読み始めたこともあったのだが、いつも、数十頁も読み進めないうちに、他の本を読み始め、その間だけだと、脇に置かれ、いつしか忘れ去られ、チラシや小冊子などの堆積の中に埋もれていき、ある日、何か探しものをした際に、ほろっと顔を覗かせる。
 ああ、読み止しだったっけ…でも…今、読んでいる本が他に何冊もあるし…またの機会にしよう…そして、書棚に突っ込まれてしまう。
 新しい訳を出された今泉吉晴氏は、本書(原書)に魅入られ、幾つも出ている日本語訳に目を通し、こんな訳ではダメだと、ついに自ら翻訳に取り組み、こうして立派な本の形で刊行と相成ったわけである。
 読みやすい親しみやすい日本語の本の形でソローの『森の生活』を出すという悲願が成ったのだ。
 新訳の評判も地味ではあるがよかったはずだ。
 さて、では、ようやくこの手にした新訳でのソローの『森の生活』を自分は今度こそは堪能できるのか。今まで本を読み出して中途で投げ出すことなどまずない小生、今度こそはその世界に没入できるのか。
 どうにもソローの世界に浸り切れなかったのは訳に難があったからなのか。
 今泉吉晴氏翻訳による本書『ウォールデン 森の生活』を読んでみて、小生、またも中断しそうである。まだ四百頁ある本書の百頁にも達していないのに。
 訳はいい。本書の装丁もいい。本書が書かれたウォールデン池の素敵な写真も載っている。N・C・ワイエスの筆になる「釣りを楽しむソロー」という、ソローのありし日の生活を髣髴とさせてくれる感じのいい画も冒頭に載っている。親切丁寧な注も本文の直近に載っていて、助かる。

 しかし、やはり、小生、今回も本書を投げ出しそうだ。
 彼の世界。
 さて、何を書き出すか分からないので、「出版社からの内容紹介」を転記しておく:
「自然好き必読の名著が読みやすい新訳で登場。19世紀末の作家ソローが、森での暮らしと大自然の素晴らしさを新鮮な感覚で綴った、米文学史上に輝く名著。自ら森暮らしを実践するナチュラリストによる読みやすい新訳で、初めて原著の真の姿が浮かび上がりました」
 あるいは:
「19世紀末のアメリカ人作家が、森暮らしの素晴らしさを綴った名随筆。自然や人生に対する鋭い洞察と名言の数々を、自らナチュラリストである大学教授が読みやすいように新訳。原作の本当の素晴らしさを伝える」

 そうなのだ。「森での暮らしと大自然の素晴らしさを新鮮な感覚で綴っ」てあって、それはそれは素晴らしいのである。
 が、正直、小生は馴染めない。そういう生活を送った人が居るし、現在だって居るのだろう。そんな生活を送れたなら素晴らしいのだろうとも思う。何かの切っ掛けで、ことに寄ったら、山の間伐材の伐採の仕事や炭焼きの仕事の下働きを志願することだって絶対ないとは言えない。
 否、環境問題が喧伝される今日である、むしろ山の環境の保全という仕事はこれからの時代の地味な花形仕事になる可能性だってそれなりにありえるとさえ思う(そこそこの待遇で誘われたらトライするかも?!)。
 しかし、仮に小生がソローが暮らしたウォールデン池の周辺のような環境に暮らせるチャンスがあったとしても、さて、その生活する日々の我が胸中に去来する念というのは、一体、どんなものだろうか。
 決して晴耕雨読の生活に満足しきることはできないだろう。明窓浄机に似つかわしくない小生の性分も不満を募らせる一因となるかもしれない。
 何も美酒佳肴の日々を望んでいるわけではない。内清外濁なる己を自覚してもいる。けれど、水魚之交の友がいないと退屈して死にそう、ということもない。鶏口牛後の逆を行く人間だが、そのその牛は人の群れでなくても山や海という自然であっても何ら問題はない。
 無為自然というより徒食の輩であり、明鏡止水どころか被害妄想の塊であり、酔眼朦朧、思案投首、遅疑逡巡の典型のような奴である。
 軽挙妄動に走らない代わりに、行雲流水とばかりに生きることも叶わない。
 有為転変は世の習いというけれど、小生に言わせれば我が胸中こそがかくの如しなのである。
 気宇壮大なことなど誰も居ないところでしか呟くことができず、泥中之蓮ならば素晴らしいが、泥中之泥に過ぎないのである。
 幣衣破帽は己が志の故であり、粗衣粗食を標榜したいが、貧乏暇無しの結果に過ぎず、ウォールデン池の傍で背水之陣の覚悟のもとに暮らしたいが、意気軒昂な日々も三日天下のうちに萎え果て、森の生活の日々の予想外の困難に打ちひしがれ、清流に身心を漱ぐ日々も薬石無効に終わり、斎戒沐浴も河や池でよりもスパでのほうが快適だと懐かしみ、夢幻泡影もただただ都の享楽の日々への愛惜の念に他ならず、漫言放語だ悲歌慷慨だ夜郎自大に過ぎない、あっという間に青息吐息の惨状を晒すに過ぎない。
 森の生活、しかも、人との交わりのない、通信手段もないような隔絶した草の庵での生活に鎧袖一触、すごすごと退散するに違いない…。
 要は雑念が多すぎる、心が揺れ動きすぎる、世俗を断ち切る覚悟もまるでない、山の緑と空の青と川の白と山の香の赤だけでは飽き足りないのだ。行く手を阻むのはネオンの類いではなく、むしろ定まらない自分の中の掴み切れない妄念なのだろう。
(制作途中)

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