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2005/10/12

石榴と鬼子母神

 秋10月も中旬となっている。が、東京はこの一週間の間で晴れ間は、数時間だという。秋10月の季語例を眺めていても、「秋の日、秋晴、秋高し、馬肥ゆる、秋の空、秋の雲」などは採り上げ辛い。「秋の日」は構わないようなものの、曇天の空なら、何も秋でなくてもいいような。
「秋の山、秋の野、秋風、秋の声、 秋の暮」なども、もう少し、秋の風が吹き渡ってからのほうが気分よく綴れそう。

「木の実、桃、林檎、石榴、梨、柿、吊し柿、 無花果、葡萄、通草、椿の実、山梔子、杉の実、山椒の実」と眺めているうち、なぜか、「石榴」に目が止まった。
 実際には、「柿、吊し柿」がお気に入りの題材なのだけど、これは(特に後者は)晩秋がいい。抜けるような秋特有の青空を背景に、朱色も鮮やかな柿か吊し柿という光景は、小生には胸を掻き毟るような原風景の一つである。
「桃、林檎、梨」もそれぞれに魅力的だし食べ物としても好物なのだけど、でも、「石榴」に引っ掛かってしまったのだから、今日はこれで決まり。

「石榴」は「ざくろ」と読むが、表記としては、小生の好みとして、「柘榴」のほうが断然、好き。俳句の上では、「石榴」という表記にすべきなのだろうか。
 平安時代に中国を経て日本に伝わったと推定されている。花としての石榴、熟して割れてるその独特な、何処か生々しくもある果実の様が珍重されてもきたようである。
 ちなみに、「石榴」は秋の季語だが、「石榴の花、花石榴」となると、夏の季語であり、「夏、鮮やかな赤い花が咲く」とか。

「石榴の花」、「石榴の実」を「季節の花 300」サイトにて画像で確かめてみよう。黄緑色の葉っぱを背に真っ赤な石榴の花は鮮やかである。但し、石榴の若葉は赤いという(小生は葉っぱの赤い石榴を見たことがない…、それとも気付いていないのか)。
「石榴の実」は、外見からすると地味というか貧相というのか、いずれにしても果実の華やかさは感じられない。淡い紫というか、やや紅色がかってもいるようだ。
 それがパックリというよりグチャッといった妙に不恰好な形で割れ裂ける。中から白色っぽいような、淡い紫紅色でもあるような、それとも桃色の気味もある、汁っぽい種子が現れてくる。
 上掲のサイトによると、「漢名の「石榴」の音読み「せきりゅう」がしだいに変化して「ざくろ」になったらしい」とか(小生は、「せきりゅう」が、どうして「ざくろ」になったのか、さっぱり分からない。「ざくろ」という読みの由来は調べる余地がありそう)。
 その中国へは、紀元前2世紀、張騫(ちょうけん)が西域から持ち帰ったと伝えられるという(事典「NIPPONICA 2001」による)。

 同じく「NIPPONICA 2001」によると、「右手にザクロを持つ鬼子母神像は、釈迦が訶梨帝母(かりていも)にザクロを与え、人の子のかわりにその実を食べよと戒めたという仏教説話が日本に伝わって、できあがった。このため、ザクロは人肉の味がするとして、昔から好まれなかった」という。
「初期のキリスト教美術では、エデンの園の生命の木として描かれている」というのだが、時代により地域により篭められるイメージは随分と違うものである。
 薬用にも条虫の駆除用などに使われてきたというが、ここでは略す。

 上掲のサイトでは、語源との絡みで「ザクロの原産地がカルタゴだったのかも」と記してあるが、事典では、「原産地はイラン。アフガニスタン、パキスタン、インド北西部にも種無しの果実を結ぶ品種がある」と記してある。
季節の花 300」ではさらに、「男性の中にいる唯一の女性のことを「紅一点」というが、これは中国の王安石が石榴の林の中に咲く花を詠んだ詩から出た言葉」というのは、そうだったのか、へえー、である。

 ここには短歌(?)が載っているが、「石榴赤しふるさとびとの心はも    高浜虚子」「石榴の実の一粒だにも惜しみ食ふ   山口誓子」といった句がネットでは見つかった。
石榴(ざくろ) 写真集」をじっくり眺めてみる。やはり、花もなかなかだけれど、実のほうが印象的な気がする。その実が割れ裂ける様にこそ、石榴の真骨頂があるような。この割れ具合と割れた中身の様が、鮮烈というわけではなく、どこか不器用であり無様でもあって、一度観ると、忘じ難いわけである。
 その何処か無骨な雰囲気が、むしろ、郷愁の念を誘うのかもしれない。都会では、あまり見られないようだし。

 ネットでは、「石榴の実むかし庄屋の白き蔵」なる句を見つけたのだが、枇杷(の木や実)同様、最近、実物を見ていないような気がする。石榴の歴史と共に忘れられつつある木なのだろうか。

 ところで、「紅一点」という言葉と石榴とのつながりを上記したが、どうにも気になるので、この点を調べてみた。ネット検索してみると、「萬緑叢中紅一点」という漢詩が浮かび上がってきた。どうやら、「紅一点」というのは、必ずしも居並ぶ男性陣に混じっての女性一人、という意味合いではなく、もとは凡夫の群れの中の俊才という稀な存在という意味だったらしい。
 さらに調べてみると、「萬緑叢中紅一点 動人春色不須多」という形で引用されているのを見つけた。宋代の詩人王安石の漢詩であり、「石榴詩」という題名で、「緑叢中紅一点 人を動かすに春色多くを用いず」と読み下され、「一面の緑の草原に一つだけ赤い花が咲いている。春の景色はこれだけのことで人を感動させてしまう」という意味だとか。

「右手にザクロを持つ鬼子母神像」の話を既に事典からの転記の形で上で示したが、もう少し、観ておきたい。
仏像&仏教」サイトの、「鬼子母神(訶梨帝母)」なる頁を覗く。
 ザクロ…人肉、という連想よりも、むしろ、出産をこそイメージされてきたようだ。つまり、「中に、びっしりと、種がつまってますからねぇ。あれからの連想で、子宝…多産…繁栄」というわけである。
 目出度いものだからこそ、食べるのを敬遠してきたのが、いつの間にか味が人肉に似ているから…といった理屈付けに変わってきてしまったのかもしれない。
 まあ、吉祥天の母である鬼子母神は、凄まじい子沢山で、「愛する子供たちを育てるため、人間の子供をさらって食べていたよう」だというから、そんな話になってしまうのも無理からぬことだろうが。
 余談だが、人肉を「にんにく」と読んでニンニクを連想し、ニンニクを敬遠していたという話を聞いたことがあったけど、これは全くの雑談。

 とにもかくにも、「石榴」(できれば柘榴)は、その花より実こそが、その割れ裂ける様の生々しさもあって、あれこれと人に想わせる植物であったし、もしかしたら今も、そうなのかもしれないと感じた。


柘榴の木山にありしを目に浮かべ
割れ避けて覗く姿に仏見ん
誰しもが思い入れたき柘榴の実
無骨ゆえ好ましきかな柘榴の実
花からは思いつけない柘榴の実

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コメント

はじめまして。
少し前から、こっそりお邪魔させていただいています。
突然、こんなことを申し上げて失礼かもしれませんが、文中でお取り上げになっている言葉やそれに対する感覚やお考えにとても共感を覚えて、いつも楽しみに読ませていただいています。

柘榴は店先などで、たまに見かけるととても懐かしく感じる果実ですね。
ここ数年、首都圏の山寄りに住んでおりまして、夏の柘榴の花は庭木などで何度か見かけたように思うのですが、実のほうは成ると収穫してしまうのか?ざっくりと割れた姿を見た記憶がありません。
この秋は、気をつけて見てみようと思います。

投稿: 縷紅 | 2005/10/14 21:58

縷紅さん、来訪、コメント、ありがとう。
おっしゃるとおりですね。石榴を割れるまで放っておくなど勿体無い。実が成ったら収穫する。その意味で割れ裂けた石榴の実の成っている光景というのは、珍しいのかもしれません。誰もが採り忘れ割れた実を探してみるのも、ハナミズキやナナカマドの赤い実を見ることのできる環境にある方の特権かもしれないですね。
貴サイト、ブログも奏月のほうも覗かせてもらいました。
「パキスタン地震救援」という題の記事がありましたが、「石榴と鬼子母神」を書きながら、石榴の種無しの果実を結ぶ品種があるというパキスタンのことを脳裏に思い浮かべていました。
ちょっと無理があるかなと思いつつ、TBさせてもらいますね。

投稿: やいっち | 2005/10/15 11:59

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アムラックスの帰り、初詣を兼ねて鬼子母神を訪ねた。 [続きを読む]

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