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2005/10/28

稲作…自然…櫛

読書拾遺…山田の中の…」にて、「案山子」についての記述を見つけたということで、坂本勝著『古事記の読み方』(岩波新書)からいろいろ学ばせてもらった、その幾許かを書かせてもらった。
 引用(転記)もたっぷりさせてもらっている。
 この本を、今日、読了。特にこれという感想文は書かないが、なかなか好著だった。

 岩波書店のレビューでは、以下のように説明されている:
「第1部には、古事記の世界の神話空間、古事記が書かれた時代のこと、変体漢文体と呼ばれる文体の特徴、古事記と日本書紀の神話のちがいなど、古事記をおもしろく読むための基礎知識がやさしく解説されています。
 また、古事記の読み方は、人それぞれにあるのではないかという考えから、第2部では、坂本先生自身の生活体験と重ねあわせながら、アマテラス、スサノヲ、コノハナノサクヤヒメ、アメノウズメ、トヨタマヒメなど八百万の神々のことがコンパクトに紹介されています」
 実は本書に好感を抱いたのは、この第二部のほうだった。岩波書店では本書を古事記の入門書という性格付けという与えているようだけれど、それは第2部にこそ、当て嵌まりそう。まさしく、「坂本先生自身の生活体験と重ねあわせながら、アマテラス、スサノヲ、コノハナノサクヤヒメ、アメノウズメ、トヨタマヒメなど八百万の神々のことがコンパクトに紹介されてい」るので、身近な生活や実感と絡む形で古事記の世界へと導いていかれるような気がする。
 前回、いろいろ引用したのも、第2部からだった。

 小生は、今、前田晴人著の『桃太郎と邪馬台国』(講談社現代新書)を車中でボチボチと読み進めているが、こちらは、「古事記の読み方」と比べると応用篇といった性格がある。我々に馴染みの昔話(「桃太郎」や「一寸法師」など)には、実は古代史に淵源する題材が盛り込まているという。桃太郎と吉備との関係などは知らないではなかったけれど、桃太郎と邪馬台国となると、おお、そこまで読み取れるのかという驚きがあったりするが、読んでいると、昔話が創られていく経緯などを知ると、納得してしまう。古事記や風土記、祝詞、日本書紀、その他の文献を読み解きつつ、昔話と古代史との関係が推理小説を読むように解きほぐされていく。

 思うに、前田晴人著の『桃太郎と邪馬台国』と坂本勝著『古事記の読み方』との両者を並行して読むことで、古代の世界、しかし、決して単に古代ではなく、視点を変えると、陰に陽に連綿と現代にもつながり重なっている現実と、昔話の物語の世界との交錯した世界が一層、髣髴と浮かび上がってくるようである。

 さて、今日は、本書『古事記の読み方』から、「稲作」に関係する部分を基本的に引用(転記)の形で紹介しておきたい。
「稲作」は、【10月の季題(季語)一例】のうちには、直接は入っていないが、「稲、稲刈、稲架」などと関係する(このうち「稲架」は既に採り上げている)。
 山間の土地などを除けば、さすがに稲刈りなど大方の農作業は終わっているのだろう。秋祭りさえも、ほぼ終焉を迎えつつある。今、改めて、日本という風土における「稲作」という文化の意味合いなど、振り返って見たい(「古事記」などからの引用の転記は、表記の都合上、一部、平仮名にさせてもらっている)。
 以下は、第2部の「クシナダヒメ」の項からの転記である(p.183-5):

 

故(かれ)、避追(やら)はえて、出雲国の肥(ひ)の河上、名は鳥髪(とりがみ)といふ地(ところ)に降りたまひき。この時箸(はし)その河より流れ下りき。ここに須佐之男命、人その河上にありと以為(おも)ほして、尋ねもとめて上り往きたまへば、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人ありて、童女(おとめ)を中に置きて泣けり(古事記)

 

高天原を追われたスサノヲが最初に出会ったのは、娘の側で泣く老夫婦だった。事情を聞くと、老父は「越の八俣(やまた)のヲロチが年毎に来て八人の娘を食べてしまった。今年もその時季になった。それで泣いているのだ」と言う。老夫婦の名は「足名椎(あしなづち)、手名椎(てなづち)」(手足を撫で慈しむ霊威)。娘の名は「櫛名田比売(くしなだひめ)」。「櫛」は霊妙の意の「奇し」を含意する。『播磨国風土記』に女神が指櫛(さしぐし)を川にさして水を田に引いたとの伝承があり、櫛の呪力と農耕との関係も無視できない。「ナダ」は「稲田」。「撫づ」と同根と思われる語に「宥む」「なだらか」があり(岩波古語辞典)、前者は怨霊などを宥め鎮める意、後者は肌が滑らかで容貌が整っている意を持つ。「ナヅ」と「ナダ」との類音はそうした意味上の連想をも誘って、親に親切に育てられた童女の美しさを印象づける。

 さて、ここまでは古事記からの引用文を覗いては転記を省略するつもりだったが、以下に続く文章の理解に資するためには、必要なようなので転記させてもらった。
 この「越の八俣(やまた)のヲロチが年毎に来て八人の娘を食べてしま」うという話は有名で、場面的にも印象的なので、古代を扱う漫画にも必ずと言っていいほど、画(映像)にされる。
 ガキの頃、学校(小学校)の体育館で行われた映写会で、何かの漫画を見せてもらったが、この場面だけは鈍でボンヤリの小生の心に長く尾を引いたような…。

 

ヲロチは大蛇のイメージを持つ。事実退治される場面では「蛇」と表記されるが、その姿は全身に檜や杉が生え、大きさは八つの谷や丘に及び、腹は血に爛れていた。こうした表現からすると、その存在は優に一動物の姿を超えて、山野河川、自然の広大さに匹敵する。そういう自然の猛威が娘の命を奪うのである。逆に言えば、娘は神の猛威を宥め鎮めるために差し出される一種の「生け贄」なのだ。「贄」は神に捧げる食物、「生け」は「生かしておく」意。祭りに供するために人が一定期間獣類を養い育てておくのである。そのことによって獣類は野性から分離され、共同体の一員たることを保証される。だから神の側も「生け贄」を人の側からの贈り物として嘉納する。そこに神と人との安定した関係が成り立つ。それが人と神を媒介する祭祀の論理である。

 小生などは、ヲロチを単純に河川の洪水などによる氾濫を、凶暴で獰猛な目にするのもおぞましい動物の形に象形化されたものだと素直に思ってきた。また、実感もする。
「越」というのは、古代では新潟はおろか、山形県の南から福井県、さらには出雲地方に跨る巨大な王国だったらしいが、その地の河川の多くは、洪水と無縁ではなく、つい近年まで暴れ川と呼称されてきた。
 河川の改修工事を幾度も重ね、ようやくめったに氾濫などの被害に見舞われることはなくなってきたのである。
 恐らく、梅雨の時期などの雨と(ここまでなら「越」だけでなく、他の地方も事情は同じだろう)、(豪雪地帯である「越」地方特有の豊かな、時に豊か過ぎる…)雪解けの水とが相俟って一気に川の水が増加し(春先になると、北陸などの川の流れが雪解け水により早く激しくなるのを実感する)、溢れ出してしまうからなのだろう。
 氾濫となると、地形は一変する。河川の周辺の村も町も壊滅するなど珍しくはなかったという。「ヲロチが年毎に来て八人の娘を食べてしまった」というのは、獣類などではなく、文字通り、河川の氾濫のなきよう天に祈るための人間の犠牲者、もっと言うと、人柱的な慣習が古代(だけかどうか)にあったことを暗示しているような気もする。
 古墳を造成する場合、人柱が生きたままに埋められるのが当たり前だった(時代が下がるに連れ、人間ではなく、埴輪に変わった)。このことを思うと、祭祀に際しては獣類も供されたのだろうが、もっと端的に人が文字通りの「生け贄」に供されたことも多かったのだろうと推測する。
 だからこそ、悲劇として明文化された歴史文書には書かれなくとも人々の記憶に鮮明に焼き付けられ、言い伝えられてきたのだろう。動物類の犠牲だと、歴史にも書かれず、人々の記憶にも薄れるがままだったのではないか。
 以下、しかしながら、まるで小生の考えを打ち砕くような説明が続く:

 

しかしそのことと、かつて童女が生け贄に供された事実があったかどうかは別の問題である。人身御供譚のほんとどが実際に人身御供を行っている由縁を説明したものではなく、かの時の犠牲を最後に平穏な暮らしができるようになったと語るところからすれば、童女の生け贄は神と人との始原的な対立を説明するために新たに作り出された話と見るべきだろう。三浦祐之『神話と歴史叙述』(若草書房)は、その対立は農耕(稲作)の開始によって生じたものだと論ずる。稲作は自然への侵犯という根源的なタブーを抱え込んでおり、その<負い目>への代償として人から神(自然)に捧げられたのが、美しい乙女であるという三浦の捉え方は説得力がある。稲作は<母なる大地>を傷つける。罪を償うべく人々は贄を捧げ、神の許しを乞う。その原初の痛みを想い起こすには、償いは人の身を切るようなものでなければならない。童女の生け贄譚が成立するのはそういう地点である。しかし原初の自然と対立する稲作も、その母胎である自然の力を抜きにしては稔りは得られない。そこで人は再び祭の場に神を招き、神と一つになって、人も紛れもなく<自然>の一部であることを確かめる。その不動の事実を確証するのが<食べる>という身体感覚である。贄としてのクシナダヒメは神に食べられる存在である。同時に稲田の女神として人に食べられる存在でもある。そこには神と人との共食関係、食の魂を共有したつながりがある。

 含蓄深い記述とは思うけれど、小生、依然として「人身御供譚のほんとどが実際に人身御供を行っている由縁を説明したものではなく、かの時の犠牲を最後に平穏な暮らしができるようになったと語るところからすれば、童女の生け贄は神と人との始原的な対立を説明するために新たに作り出された話と見るべきだろう」という点には疑義がある。
 富山や新潟などの多くの河川が暴れ川でなくなったのは、古代でも中世でも近世でもなく、明治維新以降の懸命の改修工事の賜物の面が大きいのだ。
 敢えて、「かの時の犠牲を最後に平穏な暮らしができるようになった」という過去の事実が妥当するとしたなら、「越」地方ではないのではないか。物語は、「越」以外の人、「越」を既に支配下に収めた勢力の語り部か誰かが作った話なのではなかろうか。
 つまり、北陸などの現実を思うと、「出雲」が中央の政権の軍門に下り、「越」が寸断されてしまった(672-686間に越前、越中、越後に分割された。718(養老2) に越前から能登が分離。741(天平13) には能登が越中に併合。757(天平宝字元)には越中から能登が再分離。823(弘仁14) になって越前から加賀が分離。よって、越は、越後・越中・越前・能登・加賀に分断・分割されたことになる。 )後に作られた話なのだろうと思うしかないのである。
「かの時の犠牲を最後に平穏な暮らしができるようになった」という話ではなく、古代の政権が形を整えた後も、依然として、まつろわぬ地域(自然)があっては困るのだろうから、そうした裏日本(つい四半世紀前まで日本海側は裏日本と呼称されていた!)の<地方>の現実など、あってなきがごとくにされてしまったのだろうと、小生は思う。
 ただし、下記するような、「人の生命の源である自然、しかし同時に自然のままでは生きられないという人間存在の自覚が、こうした分離と回帰の振幅を描いて物語を生む」という坂本勝氏のここでの記述の本旨には、ひたすら納得するものである。
 さらに、転記を続ける:

 

人の生命の源である自然、しかし同時に自然のままでは生きられないという人間存在の自覚が、こうした分離と回帰の振幅を描いて物語を生む。ただし、人の側に生じたこの揺れの意識は自然と人間との関係にとどまらない。<母なる自然>からの分離は、文字通り<母と子>の分離でもあるからだ。小学四年生の時、母の日に近所の薬局で柘植(つげ)の櫛を買い、初めて贈り物をした。手櫛程度でせわしなく勤めに出ていく姿が気になっていたのだと思う。照れを隠して渡した気がするが、その時の母の表情は思い出せない。平安時代、伊勢斎王が天皇から「別れの櫛」を授かって出立する習わしがあったことを知ったのは、勿論大人になってからのことである。

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