« 2005年9月 | トップページ | 2005年11月 »

2005/10/31

ホントに火のことだけ…

 あの夏の日の暑さがウソのように、一気に秋が深まり、東京では今日など11月下旬の寒さとなると予想されている。地域によっては12月の陽気になるかも、と天気予報では言っていた。
 だからといって、冬の話題を持ち出すのも気が早すぎるようだが、そこはそれせっかちな小生のこと、持ち出してしまうのである。
読書拾遺…山田の中の…」(スクナビコナ)、「稲作…自然…櫛」(クシナダヒメ)、「葦と薄の恋」(スセリビメ)、「「鳥」の声と虫の息」(トコヨノナガナキドリ)と(それぞれの()内は、扱われた神の名)、坂本勝著『古事記の読み方』(岩波新書)の記述(特に第2部)に寄りかかる形で、季語随筆を綴ってきたが、今日は、「カグツチ」の項を覗かせてもらう。
「カグツチ」の項のテーマは「火」なのである。
 冷え込んできたことでもあり、温まりたい思いもあるので、早速、転記作業に入ろう。

続きを読む "ホントに火のことだけ…"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/30

「鳥」の声と虫の息

読書拾遺…山田の中の…」、「稲作…自然…櫛」、「葦と薄の恋」と、いずれも坂本勝著『古事記の読み方』(岩波新書)の記述を参照する(というか、転記が多いことからして、おんぶに抱っこの状態だが)形で、あれこれ季語随筆を綴ってきた。
s-nio-renge
 今回も、しつこく、その続きとなりそうである。

← 蓮華草さんから戴いた仁王様(阿形)の画像です。申し訳なくも画像は縮小しています。ココに行けば、吽形の仁王様も含め、夜の東大寺などの素晴らしい画像群に出会えます。

 今回は、「鳥」がテーマ。
「鳥」については、「渡り鳥」という季語を巡る形で、既に「渡り鳥…遥か彼方へ」にて採り上げているし、その余談ということで、鳥インフルエンザの問題に触れてみたいという思いもあり、「「渡り鳥」余談」、さらには「「渡り鳥」余聞余分」まで書いてきた。
 が、今回は、文字通り「鳥」がテーマなのである。
 例(もう、慣例)によって、本書『古事記の読み方』からの転記をメインとする記事になりそう。俳句の世界で季語としての「鳥」というと、(「鳥」に限らないが)短歌などの世界とは違って、古代よりの伝統とは断ち切れたところで、句の境が切り拓かれた面が大きい。
 それでも、和歌など古来よりの伝統に棹差す世界では、どのような常識が素養として土台として横たわっているか、敢えて口にせずとも脳裏に浮かべているかを知ることは、全く無駄な営為とも思えない。
 そんな言い訳めいた断りをさせてもらった上で、さて、作業に入ろう。

 以下は、「トコヨノナガナキドリ」なる項からの転記である(p.141-3)。

続きを読む "「鳥」の声と虫の息"

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2005/10/29

葦と薄の恋

 表題の「葦と薄の恋」とは、「アシとススキの恋」と読む。その意味は、後段で分かる筈である。

 もう、坂本勝著『古事記の読み方』(岩波新書)については、前回でお終いのつもりでいた。「読書拾遺…山田の中の…」にて「案山子」のこと、「稲作…自然…櫛」にて、秋の季語というわけではないが、自然を相手の「稲作」という営為について、引用(転記)をメインの形で、たっぷりと勉強もしたし、紹介させてもらったし。
 ただ、本書はお気に入りの本となったので、これで打ち止めのつもりで、もう一度だけ、採り上げさせてもらう。
 今回は、「薄(すすき)」がテーマである。
kanreki-kisaragi
← 我がサンバチーム・リベルダージ(G.R.E.S.LIBERDADE)のパーティーがあります。詳細は、ココ。チラシ、大きくなるよ!

 もっと言うと、「人と草木との生命的な連関が息づいている」と著者の語る古代の生命観が示されているというべきか。

「すすき」は、秋9月の季語である。この季語随筆でも、「すすきの穂にホッ」(September 01, 2005)にて既に採り上げている。季語としての「すすき」は、この頁を覗いてみて欲しい。
 あるいは、似ているというか、つい連想してしまう植物ということで、季語随筆「猫じゃらし…エノコロ」(August 20, 2005)でも採り上げているエノコロを脳裏に思い浮かべてみたりしてもいいのだけれど。

 さて、例によって転記から、ということで。
 今回は、本書『古事記の読み方』の第2部の「スセリビメ」の項からの転記である(p.180-2):

続きを読む "葦と薄の恋"

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/10/28

稲作…自然…櫛

読書拾遺…山田の中の…」にて、「案山子」についての記述を見つけたということで、坂本勝著『古事記の読み方』(岩波新書)からいろいろ学ばせてもらった、その幾許かを書かせてもらった。
 引用(転記)もたっぷりさせてもらっている。
 この本を、今日、読了。特にこれという感想文は書かないが、なかなか好著だった。

 岩波書店のレビューでは、以下のように説明されている:
「第1部には、古事記の世界の神話空間、古事記が書かれた時代のこと、変体漢文体と呼ばれる文体の特徴、古事記と日本書紀の神話のちがいなど、古事記をおもしろく読むための基礎知識がやさしく解説されています。
 また、古事記の読み方は、人それぞれにあるのではないかという考えから、第2部では、坂本先生自身の生活体験と重ねあわせながら、アマテラス、スサノヲ、コノハナノサクヤヒメ、アメノウズメ、トヨタマヒメなど八百万の神々のことがコンパクトに紹介されています」
 実は本書に好感を抱いたのは、この第二部のほうだった。岩波書店では本書を古事記の入門書という性格付けという与えているようだけれど、それは第2部にこそ、当て嵌まりそう。まさしく、「坂本先生自身の生活体験と重ねあわせながら、アマテラス、スサノヲ、コノハナノサクヤヒメ、アメノウズメ、トヨタマヒメなど八百万の神々のことがコンパクトに紹介されてい」るので、身近な生活や実感と絡む形で古事記の世界へと導いていかれるような気がする。
 前回、いろいろ引用したのも、第2部からだった。

 小生は、今、前田晴人著の『桃太郎と邪馬台国』(講談社現代新書)を車中でボチボチと読み進めているが、こちらは、「古事記の読み方」と比べると応用篇といった性格がある。我々に馴染みの昔話(「桃太郎」や「一寸法師」など)には、実は古代史に淵源する題材が盛り込まているという。桃太郎と吉備との関係などは知らないではなかったけれど、桃太郎と邪馬台国となると、おお、そこまで読み取れるのかという驚きがあったりするが、読んでいると、昔話が創られていく経緯などを知ると、納得してしまう。古事記や風土記、祝詞、日本書紀、その他の文献を読み解きつつ、昔話と古代史との関係が推理小説を読むように解きほぐされていく。

続きを読む "稲作…自然…櫛"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/27

懸巣…懸想…別れの一本杉

 今日の表題:季語は「季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」から「懸巣」を選んだ。
 小生は、てっきり、「懸巣」は、読み方は「かけす」か「けそう」かどうかは分からないとして、意味としては、<鳥が巣を懸ける>なのだろうと思った。
 それでも、鳥って春に営巣するんじゃないかという疑問が、さしもの小生の脳裏に掠めないではなかったが、俳句の世界には何か小生の知らない伝統や経緯があって、ちょっとその言葉を目にしただけでは、なぜこの季節の季語となったのか理解の及ばないような季語が生まれてきている事例は数知れずあるのも事実であろう。
 今日は、その辺りのことも含め、また、自分の身近な営巣の経験とも絡めて書いてみようかなという思惑があった。
 が、最初にネット検索して浮かび上がってきたサイトの説明を読んで、あれ?! であった。
「懸巣(かけす)」は別名(類義語)が「樫鳥 橿鳥」であり、「体色は全体が葡萄色を主とした鳩くらいの大きさの留鳥」とあるではないか?!
 もしかして、「懸巣(かけす)」って、まさか、鳥の種類名なのか?!
 さらにネット検索で、「YS2001のホームページ」サイトの「季語(か) 懸巣」なる項を読んでみると、「鳥や人言をまねるカラス科の鳥」といった説明が施されている。
 ここまで来ると、「懸巣」は「かけす」であり、鳥の一種だと納得するしかない。
 まあ、「カケス」と読めた時点で察するべきだったのかもしれないが。

続きを読む "懸巣…懸想…別れの一本杉"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/10/26

読書拾遺…山田の中の…

 ついさっき、坂本勝著『古事記の読み方』(岩波新書)を読んでいたら、「案山子」についての記述を見つけた。この本は、一昨日までの帰省の際、列車中での読書用に借り出しておいたもの。ほかに、読み止しのミラン・クンデラ著の『裏切られた遺言』(集英社)やポール・ホフマン著の『数学の悦楽と罠―アルキメデスから計算機数学まで』(吉永 良正/河野 至恩/中村 和幸訳、白揚社)も用心のため持参。
 さすがに、日本文学大系の正宗白鳥集は、読みきれる見込みもなく、バッグに詰め込むのは断念した。
 実際、クンデラの本は、田舎で夜中などに読んで読了したが、『古事記の読み方』は半分ほど、『数学の悦楽と罠』は百頁ほどを車中で読めただけ。

 田舎では空いた時間は、ほとんど寝て過ごした。家事に疲れたからというわけではないはずだが、自分でも驚くほど居眠り・仮眠・惰眠の連続になってしまった。東京での生活で疲れが溜まっているから? 田舎にいて張っていた気が緩んだから? 秋も深まり一気に寒さが募って、眠りの深さも増したから? 理由はあれこれ考えられる。
 それだけではなく、往復の列車中でも、土日を外しての移動を心掛けたせいか、自由席もガラガラで、一人で二人掛け、三人掛けの席を占有できて、そのゆったり感もあってか、やはり本を十頁ほど読んでは転寝の繰り返しで、それを阻む唯一の気がかりといえば、乗車すべき列車やホームを間違えないこととか、居眠りしていて下りるべき駅を乗り過ごしてしまわないかということくらいのもの。
 頭の中はあれこれ思いの惑い募ることもないわけではないけれど。

続きを読む "読書拾遺…山田の中の…"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/10/25

砧…聞夜砧

季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例」に載る季語・季題の数々を見ていると、今は失われてしまった風習・風俗と深く結びついていると思われる言葉にしばしば出会う。
 今日、採り上げる「砧」も、その一つなのだろう。
「砧(きぬた)」は、「ごわごわした麻や楮などの布地を木槌で打った槌が砧」の意で、「砧打つ 藁砧 遠砧 紙砧」などの類語・関連語があるようだ。
[ 花鳥風月 ]では、「植物繊維で織った布をやわらかくする為に木槌で打つ作業のこと。またはその木を打つ台」とあり、「槌」か「作業」または「台」というふうに、微妙に意味合いが違う。
「今頃の季節には、あちこちでこの砧を打つ音が聞こえていたのでしょう」ともあるが、今頃の季節…秋…には何故、「あちこちでこの砧を打つ音が聞こえていたの」だろうか。

 やはり、考えられるように、農閑期の仕事(の一つ)だからなのだろうか。春前後から晩秋までは農作業に関連する仕事に追われていて、とてもじゃないが、「植物繊維で織った布(ごわごわした麻や楮などの布地)をやわらかくする為に木槌で打つ作業」などに興じているわけにはいかなかった…、そんな風に考えていいものか。
 それにしても、やはり疑問なのは、何故、「砧」が秋の季語なのか、ということ。

続きを読む "砧…聞夜砧"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/24

改めて更新のお知らせ

 事情があり、帰省していました。本夕、帰京。
 この間の季語随筆の更新は、以下で行っておりました:
無精庵明月記


 たとえば:
 「朱欒…さぼん
 「稲架は…「はざ」と読む
 「葡萄とワインの間に
 「通草…山女の謎

 報告が遅れてすみません。
 今夜半過ぎから、また、ここにて更新していきます。
 これからも、宜しくお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/23

ちょっと更新

無精庵明月記にて更新しました! 今日のテーマは「ぶどう」!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/10/22

ちょっと更新

無精庵明月記にて更新しました!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/10/21

ちょっと更新

無精庵名月記にて更新しました!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/10/20

木の実…林檎…楽園追放

 表題の「木の実」は、「きのみ」と読むのか「このみ」なのか。それともどちらでも良くて、好みに任されているのか。
 例によって分からない時のネット頼みで、「三省堂 「新歳時記」 虚子編から季語の資料として引用しています」を参照させていただく。
s-tingensai-tuki-1

← 青梗菜さんに戴いた大阪(数日前)の月! 見事!

 当該の項を見ると、「木の実(このみ)」とあり、「栗の実・樫の実・椋の実・椿の実・無患子、その他名のある木又名の無い木も大概な木の実は秋に成熟するので、それ等を総称したものである。「木の実落つ」別項。木の実(きのみ)。」といった説明が施されている。
 うーん、「きのみ」と「このみ」の両方が載っている。木の実ナナさんに聞いてみるしかないのか。
 ちなみに、その直下には、「林檎(りんご)」の項があり、「林檎は夏食べられる早稲種もあるが、普通秋熟する。 色彩が鮮美で、滋養に富み、生食する外蒸したり、 羊羹、酒等をも作る。北海道・青森等産額が多い。」という説明を見出すことができる。

「木の実 季語」でネット検索してみる。
 また、小生を思い出話に花を咲かせようとでもいうのか、「黛まどか「17文字の詩」98年11月の句」なる頁が上位に浮上し、「恋人を待たせて拾ふ木の実かな」という思わせぶりな句が目を惹いてしまう。s-tingensai-tuki-2

→ 同じく青梗菜さんに戴いた月の画像。「サッキオ前ガ見タ月ハ、コンナ月ダッタカえ?」だって…。

 小生も小生で、いけないと思いつつ、「女の子は、四つ葉のクローバーを探したり、木の実を拾ったりすることが大好きです。木の実拾いにすっかり夢中になり、彼を待たせたままの女の子。彼女はきっと、待っていてくれる恋人の優しさに、ちょっぴり甘えているのです。彼のほうも、無邪気に木の実を拾う彼女を見ながら、「愛しいな…」なんて思っているのかもしれません。木の実を拾う女の子と、待っている男の子。そこには、二人だけの信頼関係もあるのです」と、鑑賞文を転記してしまう。
 いいよな。そんな場面の中の二人、そのうちの一人があの子で、その相方がオイラだったら…。

続きを読む "木の実…林檎…楽園追放"

| | コメント (14) | トラックバック (2)

2005/10/19

「渡り鳥」余聞余分

「渡り鳥」余談」(October 17, 2005)にて、鳥インフルエンザについて若干のことを書いた。
 すると、タイムリーなことに、且つ、小生がかいたことだけは不十分過ぎる、というか、鳥インフルエンザについて世界的な規模で危機感を以って対処が迫られているその事情の説明を付け加えておくべきだとばかりに、昨日、NHKラジオで、関連の話題を聴くことができた。
 といっても、仕事中でもあり聞きかじりなので、ネットで入手した情報で補強して、大雑把なことを、それだけでは申し訳ないので、情報源(リンク先)を記しておきたい。
s-rengeso-nara
→ これは蓮華草さんに戴いた画像です。鏡池に、映える、東大寺の中門と大極殿とのこと。ここでもっともっと見ることができます

 現下の鳥インフルエンザが危機感を以って研究者のみならず政府機関その他が対処を急ぎ、あるいは危機感を煽るかのような情報が流れているのか。警告さえ発せられている。
 それは、人に感染し死亡例も出ている現下の鳥インフルエンザが「1918~19年に世界で大流行し、2000万~5000万人の死者を出したとされるインフルエンザ「スペイン風邪」」の再来(の可能性)が危惧されているからである(ちなみに、第一次世界大戦の戦死者数800万人とか。第一次世界大戦の終結はこのスペイン風邪の蔓延の故だったという説も)。
 鳥インフルエンザ(ウイルス)は、「鳥インフルエンザ:ギリシャで発見 EU加盟国では初」という状況に至っている。
インフルエンザ情報」を覗くと、関連情報が次々と集まっているのが分かる。

 尚、今日は、「1.鳥インフルエンザ」「2.ピロリ菌」「3.渡り鳥研究者の裏話」が主な項目である。

続きを読む "「渡り鳥」余聞余分"

| | コメント (8) | トラックバック (1)

2005/10/18

団栗の背比べ

 今日の表題には、「団栗」を選んだ。これといって、団栗について思い出があるわけでも、語るべき薀蓄があるわけでもない。
s-DSCF0340

← 16日の夜、休憩の時に撮ったもの。銀河鉄道のような光の帯は、モノレール。東京はこのところずっと雨。束の間の晴れ間の光景だったのである。

 単に、「団栗 季語」でネット検索してみたら、その検索結果のトップに黛まどか氏の、「片手は君に団栗はポケットに」が現れたからに過ぎない…のかもしれない(「黛まどか「17文字の詩」2000年10月の句」より)。
「恋人と二人で歩いている途中、ふっと目をやった足元に団栗(どんぐり)を見つけました。いくつになっても女性は木の実や貝殻といったかわいいものが大好き。しかも、大好きな彼と一緒に見つけ、一緒に拾った団栗は、それだけでもう大切な宝物のように思えるのです」だって。カー!! 妬けるねーって、一体、誰に妬いているんだろう。
 その次には、同じく黛まどか氏の、「団栗の拾はれたくて転がれり」なる句が浮かび上がっている。
「今、ちょうど木から落ちてきたのか、気が付かず蹴ってしまったのか、目の前の足元をどんぐりがコロコロと転がってゆきました。殻斗(かくと)と呼ばれるおわん型の殻をかぶったその姿が、なんだか人の顔のようにも見えるかわいいどんぐり。そんなどんぐりが転がってゆく様はまるで、「自分のことを拾ってよ! 一緒に遊んでよ」と言っているかのようです」などと自分で鑑賞(分析)されている。
 常々語っているけれど、俳句をひねる人は、自身の句であろうと、人様の句であろうと、その鑑賞に優れている必要があると思う。
 当たり前? そうかもしれない。とにかく、短い且つ読みやすい親しみやすい説明文を読むことを通じて、句の世界や境に馴染んでいく、その世界への理解が深まっていく、親しみが増していく、という寸法である。
 無論、句自体が素晴らしい必要があるのだけれど、また、句自体を詠むだけで句境が目に浮かぶように広がるようであってほしいけれど、それはそれとして、俳句はその鑑賞文を読む楽しみも少なからずあると思うのである。

続きを読む "団栗の背比べ"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/10/17

秋の宴、秋のソナタ(某氏の練習日記 10/16の巻)

[削除]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジョーンズの練習日記 10/02の巻

「削除」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

本日、浅草後の初練習~!!!!!

「削除」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「渡り鳥」余談

渡り鳥…遥か彼方へ」にて季語との絡みで多少のことは触れた。
 同上の記事では、この記事を書く動機ともなった、樋口広芳著の『鳥たちの旅―渡り鳥の衛星追跡』(NHKブックス)をたまたま読み始めていると書いている。
 本稿では、季語としての「渡り鳥」から離れ、本書などを中心に、「渡り鳥事情」などをあれこれ書いてみたい(まだ同上の本は読み止しのままである)。
 著者の樋口広芳氏の略歴などは、リンク先を覗いて見て欲しい。
 小生は同氏の仕事というと、同氏の訳になるジョナサン・ワイナー著『フィンチの嘴―ガラパゴスで起きている種の変貌』(樋口 広芳/黒沢 令子訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を読み感想文を書いたことがあるが、著作などに触れるのは初めてである。
 上掲のサイトにもあるように、「研究内容」は、「生物多様性の仕組,意味,進化,保全に広く関心をもって研究している.とくに興味をもっているのは,島にすむ動物の生態と進化,托卵習性の進化,日本列島の生物相の起源と発達,動物の知的な行動の発達過程,希少種や渡り鳥の生態と保全,鳥獣害の発生機構と防止策などである.いろいろな生物に関心をもっているが,実際の研究対象は鳥類である」という。
「最近は,人工衛星を利用して渡り鳥を追跡し,渡り経路や渡りの経時移動パターンを明らかにする研究に励んでいる」というが、本書は特にこの研究の成果を著したものである。
 このサイトには、「ロシアでの調査風景」の模様が画像で示されているが、『鳥たちの旅―渡り鳥の衛星追跡』の中にもカラーの口絵や白黒の写真、図版が豊富で、見ているだけでも楽しい。

続きを読む "「渡り鳥」余談"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/10/16

孤悲…ギョエテとはおれのことかとゲーテいひ

 今日の表題(テーマ)は「葡萄」にするつもりだった。秋10月の季語例表を眺めていて、ふと、葡萄の房や一粒一粒の葡萄の粒の、いかにも果汁に満ちた感じが今の小生の心の栄養になりそうに感じたからである。
 そこで「葡萄 季語」でネット検索していると、「五線紙の栗や葡萄が唄奏で」という句を「右脳俳句パソコン句会 10月例会(3)」にて発見。楽しげな句で、葡萄に絡む句の事例として挙げようかと思っていた。すると、同じ頁にて、「万葉の恋は孤悲とも鳥渡る」なる句を発見した。
(正確に言うと、「鶏頭にしきりにお辞儀する烏」も気に入ったのだが、今更、「鶏頭」の項に入れるのも億劫だなと思っていたら、その直下に、「万葉の恋は孤悲とも鳥渡る」なる句があったわけである。)
 小生、この句で、「万葉集」では「恋」を「孤悲」と表記していたことを再認識した。

 この「孤悲」をさらに検索してみると、まさにこの表記に拘り、書道の題材に選んだ方のいることを知る。
岡久郁子~文字に孤悲(戀)した人たち~」を覗いてみて欲しい。
「万葉集では、「戀」に孤悲、古悲、故非、古比、故飛などを当てている。戀には、「孤悲」がよく似合う」という冒頭の一文は納得するしかない。
「複雑な感情の塊である「孤悲」。その深さ、重さを穂先の短い刷毛でどのように表現できるか挑戦した。背景に貼ったのは、大和から鎌倉時代までの、文字の変遷が分かる資料を臨模したものである」ということ。作品はひたすら鑑賞するしかあるまい。

続きを読む "孤悲…ギョエテとはおれのことかとゲーテいひ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/15

たきび…山茶花

 過日、営業中ではあったが、暇の徒然にラジオから聞こえて来る話に耳を傾けていたら、今年は「たきび」を作詞した巽聖歌(たつみせいか 本名 野村七蔵、1905~1973)の生誕百周年に当たるという話が耳に。
s-nazuna-harowin
← なずなさん画の「ハロウィン」です。ここの記事には関係ないけど、嬉しくてすぐに載せたくて。ちゃんとした画像を見たい方は、リンク先を覗いてね。

 巽聖歌(たつみせいか)については、以前も採り上げたことがあるはずだが、小文の行方が不明。自分の書いた文章は(Web上を除いては)一切、保存していないので、いざ過去に書いた文章を参照しようにも、探しようがない。
 なので、新たな気分で若干のことをメモしておきたい。
 予め断っておくが、「山茶花(さざんか)」は季語であるが、11月の季語例に載っている。季節的に今、採り上げるには、やや早い。なんといっても、冬の季語なのである。いくらせっかちな小生でも、先走りすぎる。
「たきび」…「山茶花」…「落ち葉」といった言葉が歌詞の中に織り込まれている。冬の光景そのものなのだ。

 それでも、表題の一部に使ったのは、童謡「たきび」というと、「山茶花」を採り上げざるを得ないからである。文句を言うなら、10月も中旬になったばかりの時に、童謡「たきび」の話題を採り上げたNHKさんに言って欲しい(もち、冗談です。世の中には真に受ける人もいるから、うっかり冗談も書けない)。
 但し、今回は、季語としての「山茶花」に深入りはしない。

続きを読む "たきび…山茶花"

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2005/10/14

渡り鳥…遥か彼方へ

季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」表を眺めていて、今日も迷う。水曜日は東京(関東)では久しぶりに晴れ渡った。快晴。秋晴れと呼びたくなる空。その夜には、これまた久々の月影を拝むことも出来た。
 夕方の6時半近くだったろうか、都内某所を走っていて、どうした拍子か、いきなり夜空に半月が。
 その時はお客さんを乗せていたので、じっくり眺めるわけにもいかず、月影を追うわけにはいかなかった。
 しばらくして目的地に着き、下りていかれたので、急いで近くの観月ポイントへ急ぐ。運河脇で、小さな公園が傍にある静かな場所。並木道があり、運河を眺めつつ語り合えるようにと、長椅子や小さなテーブルなどが設置してある。昼間ならサラリーマンや近所の方がのんびりされる姿も多い。
 夜は夜で、運河に月の光が映ってたり、対岸のビル群の明かりが水面に揺らいでいたりする。
s-DSCF0334
 小生、人影の少ないことをいいことに、小生の腕前では撮れもしないと分かっているのに、お月さん、久しぶりだね、とばかりに敢えて撮影。

← ぼやけていて半月か満月か分からない画像。ま、お月さんが写っていただけでも小生は満足だ。 月よ月幻なれど影嬉し
 
 ということで、「石榴と鬼子母神」の冒頭で嘆いていた空ではなくなり、「秋の日、秋晴、秋高し、馬肥ゆる、秋の空、秋の雲」などのどの季語も採り上げて構わないような秋の日になってくれたのだった。
 が、今日は、表題にある如く、季語例の中の「渡り鳥」に目が止まった。
 小生自身は、渡り鳥の群生地、居留地での渡り鳥の群れを眺めたことはない。多分、否、間違いなく自分には語るべき材料は何もないはずである。
 なのに、何故、敢えて「渡り鳥」か。
 実は、たまたまだが、樋口広芳著の『鳥たちの旅―渡り鳥の衛星追跡』(NHKブックス)を読み始めている。本の題名が「鳥たちの旅―渡り鳥の衛星追跡」となっているように、正に絶好の本なのである。
「内容説明」によると、「コハクチョウ、マナヅル、サシバ、ハチクマ…。何千キロ、何万キロという旅を毎年決まって行う渡り鳥たち。渡り鳥の衛星追跡を長年行ってきた著者が、渡り鳥にまつわる興味深いエピソードの数々を語る、珠玉の科学エッセイ」となっている。
 この本に書いてあることを手がかりに何か書けるかもしれない…。
 そんな思惑はあったものの、なにせ、読み始めたばかり。
 だったら、本書を読むためにネット上で知りえることを幾分か集めてみることにしたら、ということで、「渡り鳥」を糸口に、本日の季語随筆を綴ることにする。

続きを読む "渡り鳥…遥か彼方へ"

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/10/13

読書雑記(続)

[所用があって慌てていたので、中途の文章をアップしてしまった。しばしばパソコンがフリーズしたり文書が消え去ったりするので、保存しようとしたはずがアップしてしまったようだ。気を取り直して続きを若干だけ。]

 前稿では、「むしろ定まらない自分の中の掴み切れない妄念なのだろう」といったところで終えている。
 典型的なお茶を濁すといった切り上げ方。
 時間切れということもあり、半端な形になっているが、自然ということについては、もう少し触れておく余地がある。
 ソローの時代はともかく、地峡上に60億を越す人間がひしめき合う現在にあって、ソローの生活が夢であり理想であっても、夢の実現・実行となると、実際的にはどうだろうか。
 狭い料簡しかない小生には、何か皮肉な見方をしたくなる。現代にあって、自然の景勝に恵まれた地にあり、ほどほどの土地を耕し、地の実りを収穫し、木の実りのお零れを戴き、魚や貝など河の恵みを採り、そうした自然の贈与を戴くだけで自足し得る生活を送れるのは、一体、どれほどの数の人だろうか。
 しかも、万が一、そうした人里を離れた生活に倦んだなら、その気になれば里に降り、あるいは都の空気を吸いに気分転換をかねてでも舞い戻る事だってできなくはない。いや、多分、呆気ないほど簡単に元の黙阿弥に戻れる。
 所詮は、都会人なのであり、村や村外れにあっても、交通・交流の手段に事欠くことはないし、場合によっては役所関係の人が見回りに来ることだってありえる。きっと、見放したりはしないだろう(何も税金の徴収が目的だというわけじゃないが)。
 ある意味、西欧や欧米カブレした先進諸国の人間には自然の中の生活というのは贅沢の極みなのである。
 都会の飽食に飽き、贅沢三昧に倦み、そんな奴に限って、オレはお茶漬けが好きなんだよとか、御飯にお新香があれば十分、旬の素材を旬な時に味わえれば最高だなとと、要するに時間とカネに余裕のある人の言いそうなセリフなのである。
 自然といっても、蚊は見つけ次第に殺すか殺すような薬剤が部屋の隅にあり、そもそも窓や玄関の外から虫などが入ってこないように完全に締め切られ、緑が好きと言い条、雑草は片っ端から毟り取り、選ばれた嗜好に合った季節の花や木々が愛でられ、秋の風を風流だといいつつ、しっかり空調設備が整っている。
 自然といっても、小生の言葉を使えば、刈り込まれた自然、人為的な自然に過ぎないのである。
(過ぎないと言っても、小生だって、そのほうが快適だと思うし、かくありたいと思う。)

続きを読む "読書雑記(続)"

| | コメント (5) | トラックバック (1)

読書雑記

 ソロー著の『森の生活』の新訳が出たという情報は書評か何かで知っていた。が、生憎、その新訳本が出た頃には小生、本の購入は断念し始めた頃で、書店に足を運ぶこともやめている(止めて一年半となる)。
 いつしか、ソローの本のことも忘れてしまっていたのだが、先週、図書館で次に読む本を物色しつつ書架を巡っていたら、件(くだん)の本が鎮座しているではないか。
 その本とは、ヘンリー・D. ソロー著『ウォールデン 森の生活』(今泉 吉晴訳、小学館)である。
 実は本書については文庫本を既に持っている。しかも、二度三度と読み始めたこともあったのだが、いつも、数十頁も読み進めないうちに、他の本を読み始め、その間だけだと、脇に置かれ、いつしか忘れ去られ、チラシや小冊子などの堆積の中に埋もれていき、ある日、何か探しものをした際に、ほろっと顔を覗かせる。
 ああ、読み止しだったっけ…でも…今、読んでいる本が他に何冊もあるし…またの機会にしよう…そして、書棚に突っ込まれてしまう。
 新しい訳を出された今泉吉晴氏は、本書(原書)に魅入られ、幾つも出ている日本語訳に目を通し、こんな訳ではダメだと、ついに自ら翻訳に取り組み、こうして立派な本の形で刊行と相成ったわけである。
 読みやすい親しみやすい日本語の本の形でソローの『森の生活』を出すという悲願が成ったのだ。
 新訳の評判も地味ではあるがよかったはずだ。
 さて、では、ようやくこの手にした新訳でのソローの『森の生活』を自分は今度こそは堪能できるのか。今まで本を読み出して中途で投げ出すことなどまずない小生、今度こそはその世界に没入できるのか。
 どうにもソローの世界に浸り切れなかったのは訳に難があったからなのか。
 今泉吉晴氏翻訳による本書『ウォールデン 森の生活』を読んでみて、小生、またも中断しそうである。まだ四百頁ある本書の百頁にも達していないのに。
 訳はいい。本書の装丁もいい。本書が書かれたウォールデン池の素敵な写真も載っている。N・C・ワイエスの筆になる「釣りを楽しむソロー」という、ソローのありし日の生活を髣髴とさせてくれる感じのいい画も冒頭に載っている。親切丁寧な注も本文の直近に載っていて、助かる。

続きを読む "読書雑記"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/12

石榴と鬼子母神

 秋10月も中旬となっている。が、東京はこの一週間の間で晴れ間は、数時間だという。秋10月の季語例を眺めていても、「秋の日、秋晴、秋高し、馬肥ゆる、秋の空、秋の雲」などは採り上げ辛い。「秋の日」は構わないようなものの、曇天の空なら、何も秋でなくてもいいような。
「秋の山、秋の野、秋風、秋の声、 秋の暮」なども、もう少し、秋の風が吹き渡ってからのほうが気分よく綴れそう。

「木の実、桃、林檎、石榴、梨、柿、吊し柿、 無花果、葡萄、通草、椿の実、山梔子、杉の実、山椒の実」と眺めているうち、なぜか、「石榴」に目が止まった。
 実際には、「柿、吊し柿」がお気に入りの題材なのだけど、これは(特に後者は)晩秋がいい。抜けるような秋特有の青空を背景に、朱色も鮮やかな柿か吊し柿という光景は、小生には胸を掻き毟るような原風景の一つである。
「桃、林檎、梨」もそれぞれに魅力的だし食べ物としても好物なのだけど、でも、「石榴」に引っ掛かってしまったのだから、今日はこれで決まり。

「石榴」は「ざくろ」と読むが、表記としては、小生の好みとして、「柘榴」のほうが断然、好き。俳句の上では、「石榴」という表記にすべきなのだろうか。
 平安時代に中国を経て日本に伝わったと推定されている。花としての石榴、熟して割れてるその独特な、何処か生々しくもある果実の様が珍重されてもきたようである。
 ちなみに、「石榴」は秋の季語だが、「石榴の花、花石榴」となると、夏の季語であり、「夏、鮮やかな赤い花が咲く」とか。

続きを読む "石榴と鬼子母神"

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/10/11

更新のお知らせ

s-DSCF0332
 無精庵越中節を本日、更新。
 昨日付けの季語随筆でも書いたように9日の日曜日、サンバパレードに行ってきたので、そのレポートと画像集です:
ところざわまつりパレード(1)」から「ところざわまつりパレード(12)」です。
 朝の10時から午後の5時まで、途中、食事中断を1時間ほど挟みつつも、一気に仕上げました。
 ということで、本日の季語随筆は、パス。
 サンバを皆さんは、どのように評価されているのだろう。
 もっと、もっと、正面から向き合ってサンバやサンバパレードを体験してほしい!
 我がチーム・リベルダージの公式サイト:
G.R.E.S.LIBERDADE

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/10

秋祭…後の祭り

 もう既に日付の上では昨日となるが、「ところざわまつり」へ行ってきた。「“所沢の秋の風物詩”「ところざわまつり」毎年30万人前後の人手でにぎわいます」というが、実際、時折、小ぬか雨など降る中だったことを思うと、想像を絶する盛況ぶりだった。
 そうはいっても、「所沢駅西口駅前から、金山町交差点までを、午前9時30分から午後9時まで全面車両通行止めとし、各町内から10基の山車をはじめ、神輿やパレード民謡流し踊り、ストリートパフォーマンス、ライブステージ、そして、お祭の最後にエネルギッシュに祭を盛り上げるサンバカーニバル。艶やかな衣装と情熱的なダンスやパフォーマンスでフィナーレを飾ります」といったこの祭りの中で、辛うじて観たものは、最後のサンバカーニバルだけである。
「まつり」を観に行ったというのなら、「10基の山車をはじめ、神輿やパレード民謡流し踊り」くらいは観ておかないと、ちょっと看板に偽りありである。動いていない山車は何台か観たことは観たが…。中で法被姿の人たちが酒盛りをしている…。それはそれは楽しそうに。
 ということで(と半ば強引に)、今日の表題は「秋祭」を選んだ。一応、秋10月の季語の一つなのである。

続きを読む "秋祭…後の祭り"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/09

秋の雨…涙雨

 今日も東京は雨である。やや小降りになってきたが、まだシトシト降っているような。それとも、小糠雨と表すべき、微細な雨の粒が空中に漂っていて傘を差しても意味をなさないような雨になりかかっている、ような。
 雨についてはどれほど書き綴ってきたか知れない。それを秋の雨に限定しても、相当な分量になってしまう。
 季語随筆の場を得てからだけでも、昨年の秋に、「秋湿り(あきじめり)」という表題で書いている。そこでは、「雨冷え」をはじめ、「秋霖(しゅうりん)、秋微雨(あきこさめ)、秋さづい(あきさづい)、秋時雨(あきしぐれ)、秋驟雨(あきしゅうう)」といった秋の雨に関連した言葉(季語)を紹介している。
 ついでながら、「秋さづい」だけ、平仮名表記だったことに今、気が付いた。が、どうやら、「秋さづい」の「さづい」には漢字表記がないようだ(誰か知っている人がいたら、教えて欲しい)。
 さらに、「秋黴雨(あきついり)」といった言葉もあるようだ。
秋霖(しゅうりん)」も昨年、焦点を合わせて多少のことを書いている。これには、「「秋霖」追記と冬の雷のこと」という後追いの記事も書いている。
 どうやら、「夏から秋の変わり目の長雨を表現する言葉」としては、「秋霖(しゅうりん)」が最適のようである。

続きを読む "秋の雨…涙雨"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

更新のお知らせ

 無精庵万葉記では、書評風エッセイを幾つか:

 無精庵方丈記では、浪曲を一つ:

 いずれも、メルマガで配信したもの、乃至は既に公表済みのものですが、ま、更新は更新なので、お知らせします。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/10/08

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(9)

 二週間の過密日程の日々がやっと終わった。と思ったら、金曜日の営業が今朝七時過ぎに終わってからも、組合の大会があって、参加してきた。
 徹夜勤務明けの集会は辛い。集まれば多少の手当てがもらえるというエサに釣られたわけじゃないけれど、組合の大会には必ず出席している。
 エサは、お話だけだった! 決算報告があったが、その資料も貰えず!
 エサなどなくたって今までだって出席してきたのだ。エサを出さないのなら、最初からそう言えばいいのに。
 組合の団結! という立派なスローガンは寂しく見えるばかりだ。
 ま、いっか。

 大会に参加するといっても、何も発言はしない。
 日本は、労働組合はドンドン、潰されていく流れにある。そんな中、タクシーなどの自動車関連の組合も同じだ。不況が組合の退潮の趨勢に追い撃ちを掛けているようだ。けれど、組合がなくなったら、末端の労働者の声を代弁する場所も手段も勢力もなくなってしまう。
 強いものが一層、強くなる社会。弱いものは徹底して圧殺されていく。
 タクシーにしても、週の労働時間の規制が厳しくなる中で、小生のような20時間労働という労働集約的な労働形態が厳然としてある。組合は、こういった業界ではなくてはならないのだ。但し、法的に。
 法的にとは、形だけでも組合がないと会社も立場上、困る…。だから、形ばかりの組合に過ぎない会社・業界も多い、というわけである。
 会社の声、資本の声、消費者の声が圧倒的に強いから、組合は労働者の生活や主張の代弁をするというより互助会的な存在に止まりがちなのである。
 だから、たとえ小生の現状が幽霊組合員に過ぎなくても、その他大勢の一人であっても、組合員の一人であることで、弱者の代弁者の団体の一助になれればそれでいいのだ。
 徹夜勤務明けのさらなる活動参加、ということで、生活のリズムが狂い、二週間の疲れがドッと出たこともあり、本日は帰宅してからは、ひたすら寝て過ごした。
 今は、ちょっと目覚めているけれど、また、寝ちゃいそう。明日には元気、快復といきたいね。

 なんとなく、昨日NHK・FMで聴いた上原 彩子のピアノの音色の余韻が残っているような。聴いた曲は:

「ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23」
                    チャイコフスキー作曲
                      (36分20秒)
                    (ピアノ)上原 彩子
                 (管弦楽)ロンドン交響楽団
      (指揮)ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス

 この上原 彩子さんというのは、3年前(?)のチャイコフスキーピアノコンクールで日本人として初めて、かつ、女性として初めて優勝した(第一位!)方。
 小雨の三連休前の金曜日は忙しかった。トイレにいく時間もタクシーを回送にして路上から逃げるように裏道に車を走らせ、やっとのことで確保する始末。
 そんな中の曲には慰められる。
 他にも、「「“ベルガマスク組曲”から“月の光”」   ドビュッシー作曲」を聴いたり、太田 裕美のホスト番組で、以下の曲を、お客さんをお乗せする合間を縫って、貪るように聴いていた:

「スターティング・オーヴァー」      (ジョン・レノン)
「誰より好きなのに」             (古内 東子)
「くちびるヌード・咲かせます」        (エ   ポ)
「恋人も濡れる街角」             (中村 雅俊)
「イントゥ・ザ・ハリウッド・グルーヴ・フィーチャイング・ミッシー・エリオット」(マドンナ)
「雨だれ」                  (太田 裕美)
「ラヴァーズ・デイ」             (氷室 京介)
「さくらんぼ」                (大塚  愛)
「明日なき暴走」     (ブルース・スプリングスティーン)
「愛のコンチェルト」     (リチャード・クレーダーマン)
「あの日にかえりたい」            (荒井 由実)
「ダーリング」                (沢田 研二)
「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」(ブライアン・アダムス)
「桜木町」                  (ゆ   ず)
「トワイライト~夕暮れ便り」         (中森 明菜)
「私はピアノ」                (高田みづえ)

 夜中には、島倉千代子や五木寛のヒット曲の数々。聞き惚れてしまうね。往年の勢いが今、若干、薄れているような…。気のせい?
 音楽の魔力。好きな曲が掛かると、そのイントロが流れ出すだけで沈滞した心が浮き立つようになってしまう。不思議だ。眠っている、忘れている自然が目覚めるからなのだろうか。

 さて、表題の作業に入ろう!

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(9)"

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/10/07

無花果…暗き深紅

 季語随筆を綴るため、こうして画面に向かう際、大抵は何を書くという当てもない。一応は秋10月の季語が鍵になっているが、あとはとにかく、季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】なる表を眺め、列挙されている季語・季題の中から、何か訴えかけてくる言葉があることを期待するだけ。
 体調なのか、その時のバイオリズムなのかは分からないが、あれもこれもと目に飛び込んでくる時もあるが、どの言葉も調べてみたって発展性がまるで見込まれそうにないと感じられてならない時がある。
 それでも、とりあえず、「10月 季語」で、まずはネット検索。
 すると、何故か、「今月の季語・今月の俳句/2000年10月」という項の、以下の文面が小生の気を惹いた:
「【無花果(いちじく) 】 中世ペルシア語の中国での音訳語「映日果(インジークォ)」がさらに転音したもの。西アジア原産のクワ科の落葉小高木、 ...」
 この頁を開いて、省略されている部分も含め、全文を転記してみる:

中世ペルシア語の中国での音訳語「映日果(インジークォ)」がさらに転音したもの。西アジア原産のクワ科の落葉小高木、またその果実。葉は3裂掌状、茎・葉を切ると乳状の汁を出す。初夏、花軸の肥大成長した花嚢を葉腋に出し、内面に無数の花をつける。雌雄異花、同一花嚢中に生ずる。食べる部分は実際は花床である。葉は薬用。果実は乾して緩下剤。乳汁は痔の塗布薬、また服用すれば回虫駆除の効がある。ザクロ・ブドウとならび、世界的に最も古い果樹のひとつ。唐柿(とうがき)。

続きを読む "無花果…暗き深紅"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/10/06

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(8)

 今朝だったか、車中でラジオを聴いていたら、シブカワハルミが何とか、天文方が何とか、改暦した日だとか、例によって一応は仕事中ということもあり、話というより言葉が断片的に耳に入ってくる。
 調べてみたら、渋川春海(シブカワハルミ)というその筋には有名な人物が関わっているらしい。
暦と天文のページ」の中の、「渋川家」によると、「渋川春海は、日本における近代天文学の扉を開いた天文学者と評されてい」るという。
「それまで800年もの間ずっと使われつづけてきた暦に、実際の天体の動きとズレが生じていましたので、渋川春海は貞享元年に、”元”の暦を日本でも使えるように経度の補正を行い、改暦を行いました。これが貞享の改暦」だとのこと(「”改暦”(かいれき)とは、それまで使われてきた暦の計算方法を一新して新しい暦を作ること」)。

 それまは中国からの暦をそのまま使っていたわけで、渋川春海の貞享暦が初の国産の暦ということになる。

暦の歴史」を覗くと、「862(貞観4)年  宣明暦に改暦」とある。以後、「1685(貞享2)年  貞享暦に改暦」まで、天象と2日もズレが生じていたにも関わらず、基本的に「暦」は手付かずのまま使われていたわけだ。
 渋川春海は、改暦を請うこと三度、ようやく容れられて1684年(貞享1)10月29日大和歴が採用され、貞享暦という名を賜り、翌1685(貞享2)年10月6日、つまり、今日から施行されたのである。
 彼は功により碁所をやめて幕府初めての天文方に任じられた。
(「(2)江戸の天文学者たち・渋川春海とその後」によると、「渋川春海は、幕府碁師安井算哲の子として京都で生まれました。元禄15年(1702)に本姓である渋川姓に改め、14歳で碁所勤めをはじめました。碁格は7段」だとか。幼い頃から優れた才を示していたという。この頁には、渋川春海作の「天文分野之図」が載っている。彼が作った天球儀も現存しているとか。)
 彼は仙台の人だが、江戸に居を移し駿河台に天文台を設けた。「渋川家」にも見られるように、「仙台藩では天文暦学への感心が高く、藩士 遠藤盛俊(1669~1734)は春海に直接師事し」たというほど。
 あるいは小生の勝手な憶測だが、伊達正宗の世界への視野の伝統が背景にあるのだろうか。この辺り、調べてみたら面白そう。

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(8)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/05

新米の新米

 今日の表題は「新米」。季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】を眺めていて、いつものことだが、どれにしようかと迷った。あるサイトの掲示板で栗御飯が話題になっていたので、「栗、栗飯」がいいかとか、いやいや「団栗」が話題になっていたサイトもあったぞとか、木犀(金木犀)の話題も発展性があっていいかもとか、「柿」の絵が微笑ましいサイトも今日、目にしたばかりじゃないか、「柿」で決まりだ、とか、いや、今日は雨がそぼ降っているのだから、「秋の雨」が格好のテーマじゃないかとか、とにかく目移りして困る。
 迷った時は、頭を空白にするがいい…白…ということで(?)、「新米」を選んでしまった。
 ほとんど自棄である。

 新米、そろそろ一般家庭にも出回ってくる頃か。
 小生自身は、先月中旬、帰郷した際に、誰かが気を利かせてくれたものか、そろそろ帰京の日が迫っている頃合いに、親戚の者がわざわざ新米を我が家に運んできてくれた。新米を精米したばかりの米。それを焚いて食べろとか、明日は帰京するのだから少しでもいいから持っていけとか。
 ありがたいことである。
 つい、先日は、田舎から梨と一緒に、やはり少々の新米を送ってきてくれた。
 新米が何日を経過すると古米になるのか分からないが(風味が薄れたら?)、とにかくオカズがなくとも、せっせと御飯を炊いて食べている。

続きを読む "新米の新米"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/10/04

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(7)

 昨日も車中では待機中などに川西政明著の『小説の終焉』(岩波新書)を読んでいた。
 日本の文学について読書家を自負するだけに、新書ながらも、小生には未知の知見を一杯戴いた。
必ずしも本書の本筋ではないかもしれないが、南京の戦闘について、佐々木到一著『南京攻略記』(『昭和戦争文学全集』別巻所収)なる記録のあることを知った。
『歴史教科書』(扶桑社)は中国にたいする侵略戦争をどう書いているか-不破 哲三」によると、「ここで紹介されている佐々木到一氏の『南京攻略記』は、「南京事件」から一年四カ月後の一九三九年四月、彼が「戦場記録――中支作戦編」と題してタイプ印刷を完了していた草稿を収録したものだとのことです(『昭和戦争文学全集』別巻『知られざる記録』〔一九六五年、集英社刊〕巻末の橋川文三氏の「解説」による)」とか。
 南京大虐殺については、藤原彰『南京の日本軍 南京大虐殺とその背景』一九九七年、大月書店刊)などもある。

 原爆については、原民喜『夏の花』や井伏鱒二『黒い雨』などを採り上げてきたが(本書でも採り上げられている)、他にも、佐多稲子『樹影』、大庭みな子『浦島草』、田中千禾夫『マリアの首』、宮本研『ザ・パイロット』、堀田善衛『審判』、いいだ・もも『アメリカの英雄』、小田実『HIROSHIMA』、井上光晴『地の群れ』、高橋和巳『憂鬱なる党派』などがあるという。
 他にも、以下に列挙した作品は、全く読んでいない。情ない。
 さらに、原爆文学の語り部として林京子も逸するわけにいかない。

 本書『小説の終焉』を読んで一番、理解できなかったのは、「存在の終焉――埴谷雄高『死霊』」の章の説明。粗筋が書いてあって、そうだったのかと気付いたり、スパイリンチ事件が物語の背景にあることなどを教えてもらったけれど。
 尤も、川西氏には『「死霊」から「キッチン」へ』(講談社)という著作があるらしいので、本書の中の短い記述へのレスは後日、機会があったらということにする。
 
 この頃は読書というと車中がメイン。時間がない! 過密日程の仕事がまだしばらく続く。自宅では寝たきりの生活になっていて、本を読む余力がないのだ。
 ま、そんな愚痴を日記のサイトでもあるこのブログに書いたところで、いざ、表題の作業に取り掛かろう!
 今回は、大崎二郎氏や堀場清子氏などの発見があった。

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(7)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/03

「野路の秋」再び

 今日の季語随筆の表題を10月の季語例ということで、「秋の山」としようと思った。「秋山 秋の峰 秋嶺 山澄む 山の秋」といった魅力的な類義語・関連語もあるし。
s-sion-051003
 が、「木々の葉が極彩色に彩られ華やいだ姿を見せてくれる」といった意味合いとのことで、さすがに少々、扱うには早すぎるようである。

紫苑さんに戴いた紫苑の花の画像です!

 どうやら、今の時期だと、「秋の野原、花野というほどには花は咲いていない」といったことからして、「秋の野」という季語が相応しいようだ。類義語に、「秋郊 秋野 秋の原 野路の秋」といった使ってみたくなる、一体、今まで誰がどのような使い方をしてきたのかを探ってみたくなる語群もある。
 が、気付かれる人もいるだろうが、小生、既に、「花野にて…言葉という頚木」(September 12, 2005)において、「花野」のみならず、意味合い上の対比ということで、「秋の野」なる季語を扱っている!
 この記事の中で、「野路の秋」が「秋の野」の関連語であり、好きな言葉なので、改めて扱ってみたいと書いている。
 ところが、である。この「野路の秋」も、なんと昨年、扱ってしまっていたのだ。その題名も、「野路の秋」(October 15, 2004)である。
 この記事の中では、「野路の秋真っ赤な木の実寄り添って」なる拙句をひねり、仕事中に夜中の公園で撮ったわずかに枯れ始めた木の葉や生っている木の実の様子の画像など、掲げている。

続きを読む "「野路の秋」再び"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/10/02

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(6)

 今日は余計なことは何も書かない。ぶっつけで転記作業に入る。
 今日の発見は三田洋かもしれない。
 仕事のスケジュールが過密で、本を読むのも億劫。考えるのは嫌。ただただ詩を味わっている。
s-oriori-051003

オリオリさんにいただいた画像です。さといもの大きな葉っぱを皿にしている!

 小生は現代詩も何も知らない。こうしてネットで詩人の情報を拾い集めるという単調な作業をしていると、今の自分の状態にぴったりのような気がしてくる。
 詩は考えたって仕方がない。心を無にすることだ。
 その世界に没入できるか、感覚的に資質的に合うかどうか、なのだ。知的な詩であってさえも、人の生理的な感覚というフィルターを逃れることはできあにのだ。
 時代が現代に近付くにつれ、ネットでは詩の引用を見つけられず、本書からの転記になる。これも、面倒だけど、楽しくもある。きっと、手で一字一字、書き写していったほうがいいのだろう。
 でも、多くの詩は、書籍の形であれ、パンフレットに近いような詩集の形であれ、多くは活字なのだ。手書きの文字、肉筆ではなく、活字で読まれることを意図している…のかもしれない。
 俳画のような形もあるのだろうけれど。
 これも余談だけど、昨日はラジオで高嶋ちさ子さんの話やヴァイオリンの演奏を聴いた。彼女はパワーを与える人だとつくづく思う(以前、黒柳徹子さんの「徹子の部屋」に出演していたのを偶然、テレビで見たことがある)。

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(6)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/10/01

案山子…去年の田は

 今日から10月である。さすがに10月となると躊躇なく秋と思える。9月は秋めいてきたとは感じても、秋と呼ぶには何処かしら齟齬の感があって、句を鑑賞するにも句作するにも、何処かしら宙ぶらりんだったりするのだ。
 車中でも今年も、もう残すところ三ヶ月になりましたね、という話が出ることがある。過日は大病から治られたという方をお乗せしたが、やはり季節感とか時の移ろいをしみじみというか、切なるものとして感じるようになったとか。
 毎年、同じようにして繰り返す時。が、同じようであって、決して同じではない。少なくとも人は毎年、確実に年を取っているわけだし、体の具合、成熟度合い、子供の成長、親の老い、周囲の環境、特に街並みの変化は断固たる現実として人を切迫したような気分に陥らせる。

 さて、「季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」を眺めていたら、今日は何故か「案山子」に目が合った。
 他にも探索意欲を掻き立てる季語は居並んでいるというのに。
 やはり、少なくとも小生には、「案山子」はいろんな意味で想像力を刺激する言葉=光景なのであろう。

「案山子」を巡っては、これまでエッセイの形であれこれ書き綴ってきた:
案山子のこと
冬の案山子

曼珠沙華…天界の花」でも紹介したが、「曼珠沙華と案山子」といった掌編もある。
 本編は、小生には切ない思い出が織り込まれている。ほとんど風景描写になっているようだが、好きな人の里をしみじみ歩くという設定なので、仕方ない(仕方なかった)のである。

続きを読む "案山子…去年の田は"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年9月 | トップページ | 2005年11月 »