野分…野分立つ
「季題【季語】 【9月の季題(季語)一例】」を覗くと、その例は少ないが、採り上げてみたくなる語が目白押しである。
今日は表題の「野分」をあれこれ調べてみたい。
「さきわいみゅーじあむ」の「今月の季語 <9月1日~30日(陰暦8月4日~9月3日)>」で、簡潔だが要を得た説明を読むことが出来た。
「◆野分(のわき)」の項に、「野の草を吹き分ける、の意味。秋の初めに吹く激しい風、台風のこと。また、秋の末から冬にかけて吹く風、木枯らしのことも野分といいます。源氏物語には「野分」という段がありますが、当時の人々は台風が過ぎ去った後の、野の草や垣根等が倒れて荒れはてた様子を「あわれ(風情がある)」と感じていたようです」とある。
「野分」が台風のことを指すのなら、「秋の初めに吹く激しい風」であり、且つ、「秋の末から冬にかけて吹く風、木枯らしのことも野分」をも意味するのは分かるような気がする。
「こよみのページ」の「二百十日(No.0770)」を覗くと、「「野分」は野の草を分けて吹きすさぶ風ということから名付けられたもの。台風を含む秋の頃の強風の一般的な呼び名」とあるが、引き続いて、「ただ現在は雨を伴わない強風に限って呼ぶことが増えているようです」と説明されている。
「吹き飛ばす石は浅間の野分かな 芭蕉」や「我が声の吹き戻さるる野分かな 内藤鳴雪」などが掲げられているのがありがたい。
内藤鳴雪というと、「3年前、書店での衝動買いで『鳴雪自叙伝』(岩波文庫刊)を入手し読んだことがあって、ユーモアのある文章に好感を抱き、鳴雪には親近感を抱いている」。
実はこの引用文には書き足りない点がある。というか、若干の言い繕いがあるのだ。実は小生、内藤湖南の本を買ったつもりでいたのだ。前々から彼の本を一冊くらいは読んでおきたかったのが、たまたま立ち寄った書店に内藤何某(なにがし)の本が岩波文庫であったので、てっきり内藤湖南の本と思い込んで買ってしまった。
帰宅して改めて袋から購入してきた本を取り出し、とくと表紙を眺めて、あれ? というわけなのだった。
ほんの数年前までは内藤鳴雪なる人物のことは、全く知らなかったのである(余談だが、「鳴雪」という名前の由来が面白い)。
ここにお詫びと訂正と恥の告白をしておくものである。
さて、「野分」という言葉についての語感や意味合いなど、それなりの揺れや思い入れの違いなどがあるようだ。
どうも、野分という言葉(の持つ語感)と台風とが結びつかないということのようだ。もともとは、「秋の暴風のことで「野分の風」の略。草木を吹き分けるほどの風ということからこの名が起こった。特に二百十日、二百二十日前後には猛烈な暴風が襲ってくるとされた。古くは台風という用語がなかったため、台風を含めて秋の強風はすべて野分であった」(「水曜通信(2003-08-27)」より。ここには蕪村、石田 波郷、中村 草田男らの句が載っている)のだけれど。
「WEB種子島 ほぼ週刊たねがしま便りバックナンバー」の「ほぼ週刊たねがしま便り No.125」を覗かせてもらうと、「▼さらに、南日本新聞から 『南風録』 8/9」という項目がある。
「台風のことを昔の人は野分(のわき)と言った。平安朝の紫式部や清少納言もこう書いた。江戸時代の松尾芭蕉も野分を季語に俳句を詠んだ。でも言葉が優雅すぎて、なぜか怖さが感じられない」とあり、さらに「ではいつから台風と呼ばれるようになったのだろうか」として、興味深い記述が続く。
「晶子も「野分には俳諧(はいかい)や歌の味はあるが科学の味がない」と書いている」とか。
いつの頃からか「野分」という言葉の持つ、「草木を吹き分けるほどの風」といった荒々しいイメージが薄れ、「台風」という言葉のほうに、夏の終わりから秋の終わり頃までに日本などに襲来する暴風雨といった意味合いを被せるようになったということか。
(もっとも、小生自身について言えば、「台風」はそれなりの意味が分かるとして、「野分」は野分で、草木を吹き分け、あるいは吹き倒す感じがあるし、それ以上に、まず、都はともかく、ちょっとでも門外を出たら、疎らな民家を覆い尽くすかのような野原や林や森が広がっている、魑魅魍魎の跋扈する荒れ野があるばかりの殺伐さを、まず脳裏に画かれてしまう。都の雅なる人々はともかく、「野分」なる言葉の生み成された場面というのは、結構、荒涼たる風景だったのではないか、そんなことを思うし、「野分」とは、その素朴な言葉からしても、そんなことを思わせる言葉なのである。)
確かに、「「野分の又(また)の日こそ甚(いみ)じうあはれなれ」(台風の翌日はしみじみとした情緒がある)という「枕草子」の世界は、鹿児島とはほど遠い」というのは、台風の実感として理解しなくてはいけないのだろうが、さて、「枕草子」の作者らは、そんなに風情のみを感じていたのだろうか。前夜の嵐が凄まじかったからこそ、嵐の過ぎ去ったあとの静けさを愛でているのではないか。
問題は、小生はうっかり愛でるなどと表現してしまったが、「あはれ」の意味合いに掛かっている。「あわれ(風情がある)」など、しみじみとした風情や情緒、趣なのか、あるいは他の意味合いがあるのか、この辺はさらに調べてみる余地がありそうだ。
いずれにしても、台風一過の晴れ間などと言えるのは被害が軽微に止まる場合であり、屋根瓦や茅葺の屋根などが飛んだり、塀が倒れたり、堤防が決壊したりしたら、その際に「あはれ」という言葉を使えるものなのか。
上での引用文に、「源氏物語には「野分」という段があ」ると書いてある。
せっかくなので、その段を読みたい。例によって、「青空文庫 Aozora Bunko」の「図書カード:源氏物語 28 野分」を参照させてもらう。与謝野 晶子の翻訳によるものである。
クライマックスの部分だけを覗きたいという方には、「家紋 京都 刺繍 三京 着物 ペット 刺繍」の中の、「源氏物語・野分・のわき」がいいかも。
「今年の野分(のわき)の風は例年よりも強い勢いで空の色も変わるほどに吹き出した。草花のしおれるのを見てはそれほど自然に対する愛のあるのでもない浅はかな人さえも心が痛むのであるから、まして露の吹き散らされて無惨(むざん)に乱れていく秋草を御覧になる宮は御病気にもおなりにならぬかと思われるほどの御心配をあそばされた。おおうばかりの袖(そで)というものは春の桜によりも実際は秋空の前に必要なものかと思われた。日が暮れてゆくにしたがってしいたげられる草木の影は見えずに、風の音ばかりのつのってくるのも恐ろしかったが、格子なども皆おろしてしまったので宮はただ草の花を哀れにお思いになるよりほかしかたもおありにならなかった。
南の御殿のほうも前の庭を修理させた直後であったから、この野分にもとあらの小萩(こはぎ)が奔放に枝を振り乱すのを傍観しているよりほかはなかった。」(「与謝野 晶子の翻訳」より)。
「そこに来合わせた夕霧は、妻戸の開いた間から、紫上の姿を凝視し」「気高く、清らかに、春の曙の霞の間から望む桜花のように美しく、かたわらの女房など物の数ではなかった」ことを知るのである。
「源氏物語」の「野分」の段については、「源氏物語に関するエッセイ・論文集」の「六條院の四季 -秋の章-「野分」
大槻 美知子」がとても参考になる。「15歳、思春期の夕霧は、成熟した女の美に魅せられ、父親と玉鬘の親子とも思えぬ「あやしのわざ」に、心は野分同様、千々に乱れる」という「野分」の段のドラマチックなこと。
嵐の夜には何かが起き、序破急の「破」となり、話が大きく展開していくわけだ。
尚、嵐についても、「同時代の古記録をたどると、大風の記事は多く残されていて、仁和3年(887)8月20日、延喜13年(913)8月1日、天慶5年(942)8月11日、康保2年(965)8月28日、永祚元年(1009)8月13日等々、いずれも被害が大きく木が抜け、京中の人家が倒れ、神社寺院をはじめ、御所の檜皮葺きの屋根が破損したり、城門の舎屋が倒れるなど破損は計り知ることが出来ないと記録されている」(「六條院の四季 -秋の章-「野分」」より)などと書いてあって、とてもとても「あわれ(風情がある)」どころの騒ぎではなかったようだ。
「源氏の六條院でも馬場殿、東の釣殿があやういと男どもが騒ぎ、離れた舎屋が倒れたと人々が噂する、その大風の吹き募る中を右往左往している夕霧、風の音に恐れおののく祖母大宮など、立ち騒ぐ人々の姿と、六條院秋の御殿では霧立つ庭に紫苑、なでしこの濃い、薄い色目の衵やおみなえしの汗衫など色とりどりに装う女童たちが虫籠を手に、折れたなでしこの枝を手折って、霧の中からあらわれる大和絵のような艶なる風景とを対照させて描く作者の美意識を、改めて意識させられる」と大槻 美知子氏は書いている。
「枕草子」についてみると、「野分のまたの日こそ いみじうあはれにをかしけれ 立蔀、透垣などのみだれたるに 前栽どもいと心くるしげなり」とあり、野分の惨状を画いている。同時に、そうした惨状を前にして「それを眺める美しい女性の髪を風がふくらませている細かな描写や、女童が庭にいて折れた草花を拾い集めている風景を描き、趣ありと書いている」(「六條院の四季 -秋の章-「野分」」より)というわけで、嵐を前に立ち騒ぐ人々の姿と、「艶なる風景とを対照させて描く作者の美意識」が眼目のようである。
さらに、「野分」という言葉に敏感な人がいる。但し、「野分」ではなく、「野分立つ」の読みに拘っているようだ。「ikkubak」を覗くと、「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな 与謝蕪村」が掲げられ、その評釈が面白い。
「強風の中を五六騎の武者が鳥羽殿(とばどの)、すなわち、鳥羽の離宮へ急ぐ光景。鳥羽の離宮で何か異変が生じた気配だ。鳥羽殿は平安中期に白河上皇が作った離宮。この句、蕪村得意の時代劇俳句である」というのだ。今回は、深入りしないが、「蕪村得意の時代劇俳句」とやらを機会を設けて、あれこれ探ってみたい。
さて、鑑賞されている坪内稔典氏によると、第6回俳句甲子園(松山)に審査員として参加された際、「水墨の四谷怪談野分立つ」という句を採り上げ、「野分のような激しいものには「立(た)つ」とは言わないのでは、と発言した」とか。
ということは、審査の場では、「水墨の四谷怪談野分立つ」という句の「野分立つ」を他の審査員だろうか、「野分立(た)つ」と読んだということだろうか。
なるほど、例示され比較されている「風立つ」「秋立つ」ならば、「立(た)つ」が相応しいが、「野分立つ」の場合は、「野分立(だ)つ」のほうが語感的にしっくりくる感じはある。
翌日には、坪内稔典氏は、「鶏頭のまだいとけなき野分かな 正岡子規」を採り上げつつ、山本健吉の「野分」の解説を示している。
その解説とは、「「秋の暴風で、草木を吹き分けるという意味で名付けたと言う。主として台風を指す。野わけ・野分雲。野分らしい風が吹くことを、野分だつという。また野分跡はからりと晴れて、安堵とともに爽涼を覚える。野分晴。」(『最新俳句歳時記』)」のようである。
結論として、「要するに、「野分だつ」であって、「野分たつ」ではないのである」と坪内稔典氏は書く。
語の表記のみならず、読み方にも徹底して拘る。その姿勢を見習いたいものだ。
さて、嵐。遠くの国の惨状を思う。美意識どころの騒ぎじゃないのだろう。それでも一日も早い復興・復旧を願わずにはいられない。
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