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2005/09/30

読書日記

 このところ、本というと図書館で見つけ出したものばかり。前にも書いたけど、書店で購入するとなると、どうしても購入に慎重になる。買うとは、小生の場合蔵書になるということだし、できれば再読に耐える本であって欲しい、所有し書棚にあったとき、その書名や著者名、装丁などを楽しめるものであって欲しい…、まあ、蔵書への要求というか求めるものは、過大になりがちである。
 その点、借りるとなると、普通なら買わないような安直な本も借りれる、資料としての本もOK、拾い読みのみでも構わない、図書館のラックから抜き出したときは読みたいと感じたけど、いざ、我が家で落ち着いて読むと、当てが外れてしまうという杞憂(大袈裟)も抱かなくても済む。
 安直というのではないが、車中で読む本が小生の場合、あれこれ思惑を抱いてしまう。車内の運転手の周辺には仕事に関連する用具があるので、ドアポケットの隅っこに入るような本が望ましい。自然、新書や文庫本がメイン。
 しかも、あまり高度な内容では困る(細かすぎる活字も困るが)。対談かエッセイが、仕事の事情で断片的にしか読めないことを思うと、経験的にも一番、適当に思われる。
(実際には、忙しくなるとあまり読めない。ある程度、暇になった頃には疲れているし、夜中過ぎなので、目も活字を追うのが億劫。結局、目次や前書きしか読めない場合も結構、多い。でも、何かしら本が傍にないと心配なのである。何が心配なのか、よく分からないのだが。)
 というわけで、例えば先週までは、『井伏鱒二対談選』(講談社文芸文庫)を読んでいた。

 図書館でこの本を見つけたとき、おお、この本は車中読書向きだと、勝手ながら喜んでいた。思えば、井伏鱒二という作家に失礼な仕儀に至っているのかも。久しく井伏鱒二の本は読んでいない…。最近(といっていいのかどうか分からないが)だと、『黒い雨』。この本は車中でも自宅でも読んでいて、これまで3度ほど。
 井伏鱒二にはもっと他にも読むべき本があると思いつつも、自分の原爆への関心、もっと言うと原爆という悲惨な事態を表現することへの関心から、ついついこの作品に手が出てしまうのだ。

 本書『井伏鱒二対談選』の内容には触れるゆとりがないので、目次だけ示しておく:

昭和初期の作家たち―安岡章太郎/憎めない“演技の人”太宰治―伊馬春部/書くのは愉し―三浦哲郎/戦後と漂流の行方―五木寛之/生きとし生ける者へのまなざし―新井満/『黒い雨』を語る―今村昌平/釣る話―開高健/野鳥の話―中西悟堂

 どの対談も面白かったが、特に開高健との釣りの話が作家魂の秘密に触れるようでなかなか。釣りと作家根性。三浦哲郎との対談を読んでいて、「忍ぶ川」の作家・三浦哲郎の短篇への興味が湧いた。
 偶然だろうが、五木寛之との対談を読んでいたその週、ラジオ(NHK)では五木寛之の話が一週間に渡って流れていた。シベリア抑留からの引き上げの話など、誰もが聴いておいて欲しいと思った。シベリアなどでの生活や日本へ帰還するまでの話は悲惨すぎて、あまり表に出ていない話が多いらしい。

 今週からは、川西 政明著の『小説の終焉 』(岩波新書)を読んでいる。川西政明氏は、自ら日本では一番、小説を読んでいる人間の一人だと語っている。その自負! 車中で読み流すには惜しい本だが、自宅で読む暇がない小生には仕方がないのだ。
 小生の敬愛する作家・島崎藤村について、あるいは彼の作品(『夜明け前』や『家』など)について、小生の知らない背景が作品と絡んで紹介してくれて、実に参考になった。藤村の作家としての業の深さを改めて思い知らされた。
 小生は、作家の小説は読んでも、(伝記・作家論その他のような)作家についての本は読まない。これは島崎藤村についても同じなので、あるいは藤村のファンなら知悉している情報なのかもしれないが、川西政明氏の論考から藤村の世界に入っていくのもいいかも。

 自宅では、幕末・明治維新ものにこの頃、凝っているので、その一環で、『日本の名著 30 佐久間象山・横井小楠』 (松浦 玲編さん、中央公論社)を読んでいる。名前は日本人なら誰でも知っている。特に司馬遼太郎など
時代小説のファンならアクの強い存在感のある佐久間象山のことは知らないはずはない。しかし、彼の著作や仕事に注意を向ける人は少ない(のではなかろうか)。
 本書は、現代語訳されているので、実に読みやすい。幕末に輝きを発した思想家の息遣いが感じられるようだ。アメリカ、ロシア、イギリスなどが日本をも中国のように植民地にしたり、あるいは阿片付けにして廃墟の地のされてしまう恐れが…、いや今そこにある危機として差し迫っていた中で、幕府は機能せず、朝廷側も時代や世界情勢の変化、日本に押し寄せている事態を把握しきれず、多くの藩も様子見を決め込む中、命に引き換えても自らの信ずるところを表明する。
 実際に、佐久間象山も横井小楠も、志半ばにして暗殺されてしまった。過日、読んだ勝海舟も結果的には長生きしたのだが、彼の体には顔も含め数知れない刀傷、鉄砲の傷があったという。しかし、彼らは決して人を殺めない。暗殺の形で意にそぐわない相手を倒そうという発想など持たなかった。断固、議論であり、勉強であり、その根底には命に変えても国家国民のために、という気概があるばかりだったのだ。
 今、日本にしても世界の大潮流の中で展望が見えなくなっている。だからこそ、金切り声を上げるような指導者に魅力を感じるのだろう。みんな不安なのだ。こうだ! と断定してくれると安心する。ついていったほうがいいかと思ってしまう。凛々しく頼もしく見える。しかし、先行きを見通せる人など、世界を探してもいないのだ。先行きが見通せるというのは小生は幻想だと思う。
 大切なのは議論であり、現実を見つめ事実を拾い、勉強を重ね、衆知を集め、迷い苦しむことからしか何も生まれないのだと思う。

 まあ、贅言を尽くしても仕方がない。とにかく、迫り来る国家・国民の危機の最中、思想家たちの奮闘振りを生の声(手紙)や文章(現代語訳)で触れて欲しい。

日本の名著 30 佐久間象山・横井小楠』 (松浦 玲編さん、中央公論社)と並行して、就寝前の寝床では、中沢新一著の『純粋な自然の贈与』(せりか書房)を読み始めている。「危機にさらされる人間の霊性を根本において支え、擁護するものとしての「贈与の精神」を探究する、今日最大の問題にたちむかう書。マルクスとキルケゴールとモースが一つに結びあいながら未曾有の地平を開く」というから(本書レビューより)、寝る前に瞑想に耽るには相応しい本である。「序曲」の聖霊の話からして、さすが思想家の掴みは一味違うと感じさせる。
 この「聖霊」の話は、やがては『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』 (中沢 新一著、講談社選書メチエ)などで発展させられていく着眼点なのだろうと思われる(リンク先の読者レビューなど参照)。

 といいつつも、中沢新一氏の本を読むのは久しぶり。『哲学の東北』(青土社)以来のような。

 中沢新一氏の本で次に読みたいのは、『網野善彦を継ぐ』(中沢新一・赤坂憲雄著、講談社)である。小生、先年、惜しくも亡くなられた網野善彦氏のファン。知られているように(?)、網野善彦氏は、「中沢の叔父(父の妹の夫)であり、このふたりは著者の幼い頃から濃密な時間を共有してきた」のである。『僕の叔父さん 網野善彦』という本が中沢新一氏にはあるくらいなのだ(集英社新書)。
 いつ読んだのか覚えていない、今は懐かしい名著『無縁・公界・楽』から、昨年になって読んだ『蒙古襲来』と、網野善彦氏には啓発されてきたのである。

「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋」の(5)を綴るはずだったのに、前書きが長くなりすぎたので、この読書日記だけで独立させることにした。
 ホント、余談が過ぎる。

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