曼珠沙華…天界の花
今日、採り上げる季語は表題にあるように、「曼珠沙華」である。
小生、この季語を俎上に載せるのは、やや気が重い。
というのも、これまで曼珠沙華については散々書いてきたので、今更何を付け足すことがあろうかという憂鬱というのではないけれど、やや億劫だなという思いが先に立ってしまうのである。
そこで、自分でも確認する意味もあり、一体、これまでどんなことを曼珠沙華について書き散らしてきたか、リストアップしてみた。
その結果は本稿の末尾で示す。
リストアップされた文章群を眺め渡して言えることは、季語としての「曼珠沙華」を採り上げたことがないということ。
なので、改めて、季語としての「曼珠沙華」について、簡単に説明を施しておこう。
「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は秋9月の季語であり、関連語・類語に「彼岸花、死人花、幽霊花、狐花」などがある。
余計なお世話かもしれないが、「曼珠沙華」という季語は、俳句では、5・7・5の5文字に換算される(何も、5の位置に置かなければいけないという意味ではない)。
追記(05/09/28):彼岸花の画像などを:
「心の万華鏡」
「So-net blog風の詩彼岸花・・・そして飛鳥の思い出・・・」
「ikkubak 2002年9月22日」などのように、ネット検索すると、曼珠沙華という花(言葉)の織り込まれた句というと、「曼珠沙華もろ手をあげて故郷なり 鈴木真砂女」が挙げられるようだ。
坪内稔典氏による鑑賞文によると、北原白秋の詩に「曼珠沙華」(詩集『思ひ出』)があるとか。
「曼珠沙華-北原白秋」から、一部だけ転記しておく。このサイトなどで詩の全文を読まれたらいいかも:
GONSHAN. GONSHAN. 何処へゆく。
赤い御墓の曼珠沙華、
曼珠沙華、
けふも手折りに来たわいな。
GONSHAN. GONSHAN. 何本か。
地には七本、血のやうに、
血のやうに、
ちやうど、あの児の年の数。
同じく、「ikkubak 2001年9月17日」から「とどまれば我も素足の曼珠沙華 あざ蓉子」なる句を鑑賞しよう。
転記しては拙いのかもしれないが、坪内稔典氏の鑑賞文の一部を。「句集『ミロの鳥』にある蓉子の傑作の一つ。足をとめると、自分が素足の曼珠沙華になってしまう、というのである。一面に咲いた曼珠沙華の間に立った少女が、ゆっくりと曼珠沙華に化してゆく光景を想像したい。怪しくも美しい光景だ」というのである。
ああ、今日もまた黛まどか氏の句がネット検索で上位に浮かび上がっているのを目にする。やはり人気があるということか。「黛まどか「17文字の詩」2002年9月の句」には、「まへがきもあとがきもなし曼珠沙華」という句が載っている。
リンク先へ飛べば、鑑賞文が読めるのだが、味わうためにも、勝手に転記させてもらう。
「曼珠沙華という花は、ある日気がつくと、それまで何もなかったような畦道や空き地に突然真っ赤な花を咲かせ、花が終わるとまた何もなかったように土に返っていくような印象があります。唐突に現れ、唐突に消えてゆく曼珠沙華。その様子は、前書きもあとがきもない小説のように思えるのです」という。
ああ、よかった。今日は、この前みたいに、取り乱さなくて済む。
杉田久女の句にも曼珠沙華(という花)の織り込まれた作品がある。「われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華」である(「杉田久女の俳句」から)。
この句へ付せられた高橋正子氏の鑑賞文もいい。短いドラマを読んでいるようだ。
前にも書いたが、句を作る方は、簡潔な鑑賞文を綴る能もいる。両者が相俟って読者が付いてくるような気がする。句単独で句の宇宙が広がるのが一番なのだが、鑑賞文とのハーモニーで句の世界、表現の世界が広まるのも、一興なのだし、俳句の妙味だと思えるのである。
ネット検索の事例をずらずらと見ていったら、「回廊を渡る逢瀬や曼珠沙華 愛子」という句に行き当たった。「平安朝の幻影を見る思い」とか、「日常から遊離して美の回廊に降り立った意識」という理解に納得。
「曼珠沙華と案山子」
これは掌編である。曼珠沙華の花よりも、まず、何処かのサイトで、「御用済みとなり、放置されているのだ。髪の毛がバサバサで、まるで頭が禿げているように見える。胴体というより骨の上にしわくちゃでみすぼらしい衣服が申し訳程度に被せてあるだけなので、落ち武者のなれの果てを思わせ」る、そんな案山子の画像を見たので、その貧相な案山子と曼珠沙華の深紅の花とを組み合わせたら印象的な作品になるかもと、一気に掌編の着想が湧いたのだった。
誰か、この掌編に挿絵など、書いてくれないものか…。
「彼岸花の頃」
これも掌編である。ボクの遠い記憶の彼方におじいちゃんの死の秘密が潜んでいる。覚えてはいない。でも夢の中では覚えている。蘇ってくる。もしかして…、おじいちゃんの死にボクは絡んでいるんじゃないのか…、ボクに責任があるんじゃないか…、いや、もしかして…、ボクが…。
深紅の曼珠沙華の原がボクには血の海のように見えてしまう。
「曼珠沙華」
やはり、掌編である。小生、いかに曼珠沙華という花にインスピレーションを受けてきたかが分かろうというもの。本編では、曼珠沙華という深紅の花からガルシンの「赤い花」が連想され、さらに血の色までもが。今のオレは、あいつを手に掛けて血を見ないことには気が済まないような、そんな狂気を自分に覚え、戸惑う気持ちが示されている。
そもそも梵語の曼珠沙華は「赤い花」、あるいは「天上界の花」の意なのであり、「おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、と仏教の経典にある」のだとか。
ここにも書いてあるが、彼岸花というと、毒草のイメージがあったりするが、「球根と茎が有毒(リコリン)だが、飢饉時には食用にされた。肩こりやあかぎれ、腫物の薬にもなる」という。
「鶏頭となるも」
語源・語義探索の駄文系エッセイである。鶏頭→子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」→木下利玄の「曼珠沙華 一むら燃えて秋陽強し そこ過ぎてゐるしづかなる径」→曼珠沙華と鶏頭の対比、というかなり強引な筋立てとなっているのだ。
「汗駄句仙柳(10)」
曼珠沙華という花(言葉)の織り込まれた駄句の数々(恥!)。
以下、性懲りもなく、恥の上塗りを試みる。
曼珠沙華天上の花と咲き誇る
曼珠沙華血の赤ならぬ恋の花
曼珠沙華夢の中に咲き散りゆくか
曼珠沙華この世の花と信ずべし
曼珠沙華あれは夢かと咲いている
曼珠沙華死人花とはあんまりだ
曼珠沙華手折られずとも死人花なる
曼珠沙華三途の川へ導けり
曼珠沙華深紅の薔薇と競いける
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コメント
やいっちさん こんばんは♪
すっかり元気になりました。お気遣い有り難うございました。
我が庭に 天から降りたる 曼珠沙華
曼珠沙華 災い無いよに 合掌す
曼珠沙華 燃ゆる血の色 気が踊る
おやすみなさい、、、。-_-√
投稿: さくらえび | 2005/09/27 20:59
さくらえび さん、重くならないうちに快復されたようですね。みんなの大黒柱なのですから体調には十分に気をつけて下さい。
小生は、風邪などを引くと、とにかく重くならないよう自重します。誰にも看病されないし、仕事もしないといけないので、体が資本の身、自愛するしかないわけです。
> 我が庭に 天から降りたる 曼珠沙華
せっかくさくらえびさんの庭に咲いた彼岸花ですもの。大切にしたほうが。本文にも書いたけど、曼珠沙華=天上の花という意味合いの名前を持っているのだし。
天と地の絆と萌える曼珠沙華 (や)
投稿: やいっち | 2005/09/28 15:04
曼珠沙華,彼岸花といっても
仏教に縁のある名称です。
緑多き田園に突然 対称の色、赤が降ってくる。インパクトはあります。
この岸、此岸の反対の かの岸 彼岸
渡れるべく悪戦苦闘中の健ちゃんです。
投稿: 健ちゃん | 2005/09/28 18:16
健ちゃんさん、こんにちは。
曼珠沙華といい彼岸花といい、仏教色が強いですね。そのことが花のイメージを印象付けている。あの深紅が強烈。
小生は彼岸も此岸も分からず六道の闇夜を迷っているみたい。今に始まったことじゃないけど。
ところで、生命科学者の柳澤桂子さんが最近、般若心経の現代語訳に取り組まれたとか:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875219
小生は未読なのですが、いつか読まれたら(既に読まれたのならごめんなさい)健ちゃんさんの感想を聞いてみたい気持ちがあります。
今夜、NHKのBSで関連の番組が放映されるとか。小生にはテレビ(BS)がないので見れません。残念!
投稿: やいっち | 2005/09/28 20:16
わあ、曼珠沙華の記事ですね 嬉しいな♪
久女の句は、すごく、心に応えるものがあります。
妖艶で狂気な曼珠沙華 これこそ存在感を際立たせる言い方ですね。
薄暗い木の下に群れ咲いた曼珠沙華は踊り狂っているようにも見えます。
でも、田んぼの畦の赤い帯は、優しい過去へと私を誘うようにも見えました。
投稿: 蓮華草 | 2005/09/28 21:28
はじめまして、Miniです。
きょうは「京都 花日記」へお越し頂き、またコメントまで頂きましてありがとうございました。
小説、コラム、エッセイ・・・お書きなんですね。私はこういったコメントを書くのですら苦手で、上手く書くことができず困っています(笑)
小説を書かれたり、絵を描かれたり、曲を作られたり・・される方ってすごいですね。ほんとにそう思います。
HPの方も拝見させて頂きました。こういう分野の知識も全然なく私には場違いかと思いますが、またお邪魔させて頂きますのでどうかよろしくお願いします。きょうはありがとうございました。
投稿: Mini | 2005/09/29 00:05
蓮華草さん、こんにちは。
> 久女の句は、すごく、心に応えるものがあります
小生には女性のことは分かりませんが、人によっては年を取るごとに業の深さの募る人もいるとか。
でも、その業の深さの自覚が自然風物や人への共感の一助になったりする。皮肉なものですね。
曼珠沙華のみならず、日々、自然の風景に接することが出来る蓮華草さんが羨ましいと思うのは、浅薄なのかな。
投稿: やいっち | 2005/09/29 01:43
Mini さん、こんにちは。来訪、ありがとう。
掲示板を覗いたら、気になったので、つい、飛んでいってしまいました。
「小説を書かれたり、絵を描かれたり、曲を作られたり」する方は、小生も凄いと思います。でも、小生は世の人、周りの人がみんな偉いと思ってしまうのです。
小生、HPやブログでいろいろ書いていますが、基本的に知らないことを書いているのです。つまり、知らないからこそ、ネットの力を利用して勉強を兼ねて書いているというわけです。
困ったことに、書いたそばから全てを忘れてしまう…。
その代わり、忘れやすいと、頭の中が常に空っぽなので、何を見ても読んでも新鮮だという都合のいい面もありますが。
こんな小生ですが、宜しく!
投稿: やいっち | 2005/09/29 01:48
やいっちさん 曼珠沙華の頃 読ませていただきました。
赤い赤いこの世のものとは思えないほどの赤さで、迫る、色と、闇に閉じ込めた「思い出」と言うには、怖ろしい過去。怖かったです。
それは意図しなかった事件だけれども・・・・・
紐を引っ張る所が怖かったです
その先には、きっと見たくないもの、見てはいけないような思いがあるのに、紐はどんどん迫ってくる。
曼珠沙華には、こんな話しが似合うと言うとおかしいけれど、明るい日差しの下でも、其処はシンとして、無邪気な顔で人を惑わすようで、でもなおさら魅かれる花で、目が離せない、囚われ人みたいな心持。
曼珠沙華の写真を、ご紹介いただいて、有難うございました。
投稿: 蓮華草 | 2005/10/02 00:29
彼岸花の頃、読んでいただき、ありがとうございます。
彼岸花という名前、そして曼珠沙華という名前が、ただでさえ鮮烈過ぎる花の印象を一層、禍禍しいものにさせてしまっている。
花だけを眺めれば、命の萌えるような素敵な花の一種だったはずなのに。
画像のない、味気ないサイトなので、情報も含め、何もかもが人様の努力に依存しているのです。
勝手に紹介して迷惑だったのでは…。と、思いつつも、見たいもの、見てもらいたいものは紹介したいのです。
投稿: やいっち | 2005/10/02 10:00