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2005/09/20

草の花…子規忌

 秋9月の季語に表題に掲げた「草の花」がある。「千草の花」という類義語もあるようだ。
 山上憶良の歌、「萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花」(万葉集 巻八)で有名な、秋の七草があって、ハギ、キキョウ、クズ、ナデシコ、オバナ(ススキのこと)、オミナエシ、フジバカマなどである。
 ちなみに、山上憶良の歌に出てくる「朝顔」とは、キキョウ(桔梗)であると言われているようだ。

「草の花」というのは、こうした地味な草花の中にも列挙されないような秋の草花を一括して指すらしい。それとも、七草も含めてイメージしてもいいものなのか、小生には分からないでいる。

 ところで、「草の花」というと、秋9月の季語と決まっているというのも、どことなく釈然としない。辞書などによると、「昔から木の花は春で、草花(くさばな)は秋とされている」というし、決まりごとだから仕方ないのだろうが。 

 この辺で待つ約束や草の花   今井つる女
 もう用のなき車椅子草の花   稲畑汀子

 などの句がある。

 ネット検索したら、黛まどか氏の句に行き当たった。久しぶりである。「黛まどか「17文字の詩」99年10月の句」を覗くと、「草の花打ち明けられてよりの距離」という句が載っている。その鑑賞文がニクイ。
 いろいろあって、「秋になると、野山や道端の多くの草が花をつけます。どれも決して華やかな花ではありませんが、その姿はとても素朴でかれん。「友人」や「幼馴染み」という関係に華やかさはないかもしれませんが、恋人とは違う、草の花のような安ど感を感じられると思うのですが……。」というのだが、確かにその通りだけれど、打ち明けたくなるのも正直なところ。
 もしかして、うまくいくかもしれないという捨てきれない望みもあるのだし。
 持てる女性にしたら、余計なことを言わないでくれたら、いい友達のままで居られたのに、ということなのだろうけれど。
 草の花…、打ち明けなければ、壁の花、なのだ、いつまで経っても、持てる異性の周辺の地味な、目立たない、他人から打ち明けられることなどありそうもない奴には。
 それくらいだったら、打ち明けて、当たって砕けろ、なのではないか。
 でも、迷惑なんだろうね、持てる人には。

 ところで、同じ頁に載っている、「弟に文を持たせて秋祭」が、可愛い。「おもちゃの一言に、一目散に駆け出してゆく弟。姉の恋心などにはまったく気付いていない弟の小さな背中を、ちょっぴり心配そうに見つめる少女です」という。
 そうなんだ、黛まどかさんにも、そんな可憐な頃があったんだ、そして、彼女は、好きな相手ができたなら、自分からアタックするほうなのだ。そんな彼女の人間性も読めない奴は、やっぱり、野暮天だということなのだろう。

 昨日、読了した『俳人漱石』(岩波新書)の著者・坪内稔典氏にも、「がんばるわなんて言うなよ草の花」なんていう句がある(「日刊:この一句 バックナンバー」より)。
 この句、どういう脈絡で作られた句なのか、分からない。よって、鑑賞の余地は随分とありそうである。
至遊さんの俳句をどうぞ」を覗くと、「特に鬱などに悩まされている人に「頑張れよ」なんて言葉は禁句らしい。頑張らないリラックスした気持が必要なのだ。ましてたかが草の花である。頑張っても限度がある。薔薇や桜のように注目の的になることもない。草の花は自分かも知れない」という鑑賞文が寄せられている。
 心か体の病の人に励まそうとする奴に向かって、そんな殊更なことは言うなよ、という意味合いなのだろうか。あるいは、「草の花」は、秋の野にあって、ただ、風に吹かれている。健気ではあるけれど、それを敢えて風に負けずに、誰にも目にされずに、注目されることなどありえないというのに、よくも頑張っているな、オレが(ワタシが)見ているよ、頑張れよ、などと声をかけたりするのは野暮であり、余計なことであり、ただ、秋の風に吹かれ靡く名の知れぬ草花を見ていればいい、それだけで十分だということ、なのだろうか。
 
 と、ネット検索を繰り返していたら、この句についての坪内稔典氏御自身のコメントが見つかった。
週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年7~9月」の「草の花(くさのはな)」の項である。
「「草花は我が命なり」(「吾幼時の美感」)とまで言った」「子規は草花をもっとも愛した俳人である」といった一文のあと、以下のコメントが載っている:

「がんばるわなんて言うなよ草の花」は、先日、テレビドラマで使われた私の句。人々から「がんばれ、がんばれ」と言われている青年が、不意にグラウンドに飛び出し、グラウンド一面に石灰でこの句を書いた。

 なるほど!

 ところで、「週刊:新季語拾遺バックナンバー 2001年7~9月」の「草の花(くさのはな)」の項に、「子規は病室から見える庭の草花を愛し」というくだりがある。
 これは、坪内稔典氏の著『俳人漱石』(岩波新書)を読んで知ったのだが、病に伏し起き上がれない子規のため、虚子が庭を眺められるようガラス障子にしたとか。
「鶏頭を切るにものうし初時雨」や「鶏 頭の十四五本もありぬべし」などの句も、このガラス障子越しに庭の様子を眺め、作ったものなのか。
句碑めぐりKUHI-meguri」の「子規庵」なる頁を覗くと、子規庵の間取りや廊下にすわる母「八重」や、「書斎での子規」「縁側での子規」などの画像を見ることが出来る。

 昨日、19日は「子規忌」だった。


 草の花誰が見ずとも咲く命
 生きているただそれだけと草の花
 名はあれど咲かなければ草の花
 風に揺れ光浴びてる草の花

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コメント

先日、和芝がびっしり敷き詰めてある公園に遊びに行きました。遊園地風で子供連れの若い親子が目立ちました。
私とK君(自閉症27才)は賑やかな場所を避けて足を投げ出し、ぼーっとしていました。赤トンボがス~イ、ス~イ。素手で捕まえるいずみさん、やいっちさんを思い出したりしました。改めてスゴイ!と思いましたよ。

寝そべれば目に飛び込むや草の花

赤とんぼ 草の花にも 媚びるかな


投稿: さくらえび | 2005/09/21 00:10

さくらえびさん、こんにちは。
最近はそんな時間が持てなくなったけど、以前は晴れた日はよく郊外の公園とか河原へバイクに乗って行きました。特に何をするでもなく。ま、大抵、本を持っていくんだけど、本は枕で、ひたすらボーンヤリ。昼過ぎに出て、宵闇が迫る頃まで、ただ、川面や空の雲や遠くのビルなどを眺めている。
いつも、一人で。
二人で過ごす時を持てていること、素晴らしいと思います。そうした時間が胸の中で豊かな心の世界となることと思います。
あ、さらくえびさんのサイトで、句の応酬、楽しませてもらってます。付き合ってくれてありがとう!

投稿: やいっち | 2005/09/21 13:40

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