田舎で読んでいた本など
事情があって7月8月9月と、連続してそれぞれ一週間ほど帰省していた。まあ、その事情などは季語随筆や作った句などで察してもらうとして、ここでは夜中や往復の電車の中で読んでいた本のことなど、少々。
日中はともかく、父母の就寝の時間が早いので夜は、それなりの時間ができる。
となると、やることの特にない小生、読書となる。
←上京する日、富山駅のホームにて撮影。
(但し、今まではネットに繋がる手段がなかったが、今回、ようやくにしてそのルートを確保。自分のサイトの更新は基本的に出来なかったが、それでも携帯電話での投稿の形で細々とやっていた。それ以上に嬉しかったのは、田舎でも日々、勝手に追いかけているサイトの更新ぶりや掲示板を覗くことができたこと。このことは、また別の機会に触れるだろう。)
さて、一週間も田舎で過ごすとなると、持っていく本が問題になる。8月の時のことは、「田舎で読んだ本」の中で大凡のことは書いている。バッグに忍ばせた本は、高橋治著の『風の盆恋歌』(新潮社刊)や竹田篤司著の『フランス的人間 モンテーニュ・デカルト・パスカル』(論創社刊)など。
今回は図書館で物色していて、散々迷った挙げ句、ふと、勝海舟の本にしようかなと思い立った。多分、坪内 祐三著の『慶応三年生れ七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・子規・紅葉・緑雨とその時代」』(マガジンハウス刊)を読んだりして、明治、それも明治の前半の世相に思いをめぐらしていたこともあったのだろう。
それと、なんとなく、親の一喝を欲していた心理が働いていたような気がする。帰省するのは親の世話という名目もあったし。
ということで、選んでバッグに突っ込んだ本は、『日本の名著32 勝海舟』(江藤 淳編、中央公論社刊)と、坪内稔典著の『俳人漱石』(岩波新書)である(ほかに、レイチェル・カーソンの『海辺』(平凡社ライブラリー)。但し、ほとんど手を付けられなかった)。
『日本の名著 勝海舟』には、「氷川清話」「海舟余波」や「勝小吉の無頼の生涯を独持の語り口で叙したユニークな自伝『夢酔独言』」などが所収されている。いずれも、個別には文庫本で読んだことがある。あの親にしてこの子ありというか、勝小吉の天衣無縫とは彼を表する言葉だと思える、無頼の生涯も突飛どころではない。が、彼の息子への溺愛ぶりも相当なもの。
そして、「氷川清話」に感じる、腕前に自信があっても決して抜かないと決めた腰の刀を気合のようにして一閃させているかのような気迫と覚悟。実際に、暗殺や襲撃に見舞われたことは数知れない。が、決して刀を抜かなかったのが自慢だというし、そこまで覚悟を決めて事に当たっていたのだろう。
武器を振り回す奴は、幕末から維新の頃は数知れずいた。自分を守るためだと言い聞かせて、国のため、幕府のため、藩の為、大義の為と刀を振り翳した奴は掃いて捨てるほどいた、そんな中、徹底して交鈔と話し合いで打開していく勝海舟。
毅然たる態度を求める世相になりつつあるだけに、安易な武器の振り回し、実力行使に走る風潮だけは避けたいと思いつつ、読んでいたのだった。
小生には祖父の祖父の世代の、激動の世にあって死と背中合わせの日々。
今の時代も、その渦中にあって分からない面もあろうけれど、恐らく、大転換の時にあるのだと思う。ただ、巨大な船の沈没か方向転換なので、部屋の中だけを見ていたら、窓から遠くの変わらざる景色を眺めているだけでは、変化は分からない。
変化を感じられるのは、船の真ん中にあっても敏感なほんの僅かな人たちと、船の舳先(へさき)か末端にいて、否が応でも振り回されるしかない弱者たちなのだ。
(明治や幕末、江戸ものに小生、凝りそう。今日も図書館で、維新に活躍した思想家の本を借りてきた。)
その熱湯の中の維新ころに慶応三年生れ七人の旋毛曲りなる漱石・外骨・熊楠・子規・紅葉・緑雨らが生きて創作に励んだわけだ。
田舎に持参したもう一冊の坪内稔典著『俳人漱石』(岩波新書)は、出版社側のレビューによると、「夏目漱石は作家になる前は俳人だった.特に英語の教師として赴任した松山時代から熊本時代にかけて,友人・正岡子規の影響もあって,句作に熱中し,新進の俳人として時めいていた.2500に及ぶ漱石の俳句から100句を選び,滑稽,ユーモア,ことばあそびにあふれる漱石の俳句の世界を,漱石・子規と対話しながら紹介する」といった内容。
小生、漱石の漢詩を折に触れ読み齧ってきたが、同時に漱石の俳句にも触れてきた。
漱石には俳句の重要な要素である滑稽(ユーモア)の精神がたっぷりある。神経衰弱になるほどに真面目一辺倒なのにも関わらず。まさに俳人たるべくして彼は、実際に俳人となったのだ。
彼の小説家デビューには、俳句への子規への深い関わりがあったのだし、彼の小説には俳味・俳臭が濃厚なのである。
十年程前に漱石の全集を出るたびに購入し(予約していた)読みつづけていったが、近いうちに再度、読み返そうと思う。少しは俳句の世界に親しみ始めた小生、どんな風に読めるか、とても楽しみなのである。
ちなみに、その時に漱石の作品で一番感心したのは「坑夫」だった。この小説の斬新な文学手法に驚かされたのだ。高校生の頃は、「我輩は猫である」や「三四郎」だったのだけど。
ネット検索したら、坪内稔典著の『俳人漱石』(岩波新書)については出版社側のかなり詳しい紹介が施されているサイトを見つけた。
「岩波新書 俳人漱石」なるサイトを覗くと、さすがに画像は削除されているが、本書の概要を知るにはとても参考になりそうである。
画像に続き、本文までが削除されないうちに、一部だけでも勝手に転記しておきたい。
表題が「ことばあそびとユーモアにあふれる世界」というのは、その通りだと思う。
但し、言うまでもないことだが、言葉遊びの好きな人ほど、実は根が真面目だったりする。生真面目って奴である。そのクソ真面目さを自分で笑えるかどうかに、文学や虚構の世界に親しめるかどうかが懸かっているとも言えるように思う。
さて、本文の冒頭には、「夏目漱石は「吾輩は猫である」を書いて作家としてデビューしましたが、漱石の文学活動のスタートは漢詩であり、俳句でした。特に青春時代からロンドンに留学するまで、正岡子規と深い親交を結び、新進の俳人としてときめいていた漱石の俳句からは、晩年の小説とはちがって、ことばを楽しんでいる漱石が見えてきます。」とある。
そう、全くこの通りなのだと、本書『俳人漱石』を読んでつくづくと思ったのだった。また、決して、小説家・漱石の知られざる、あるいは文学経歴のエピソードということではなく、仮に修善寺の大患に倒れ伏したとしたならば、きっと子規の周辺の重要な俳人として名前が挙げられていたに違いないのである。
「著者からのメッセージ」ということで、本書のあとがきからも、上掲のサイトに一部、載っている:
漱石の俳句を三人で、すなわち、鼎談のかたちで鑑賞した本には先例がある。本文中でなんどか話題にした『漱石俳句研究』がそれだ。大正十四年(一九二五年)に岩波書店から出たこの本では、寺田寅彦(寅日子)、松根豊次郎(東洋城)、小宮豊隆(逢里雨)が鼎談をしている。( )内は各人の俳号、三人の漱石門下生によるこの鼎談では、それぞれの俳句と作者との関係が話題の中心になっている。
私のこの『俳人漱石』では、俳句と作者の関係よりも、俳句がどのように読まれてゆくかということ、すなわち、作品が作者を離れて一人歩きをするさまに重点を置いている。私見では、俳句は作者の意図や思いとは関係なしに読まれてきた。作者を離れることが俳句のとても大事な要素である。
俳句における作者離れはいろいろに工夫されている。たとえば俳号。俳人はたいていが俳号を名乗ってきたが、現実の人格や身分などからの離脱が俳号をつける根底の意味だ。さらに、俳句の基本的な場である句会では、作品が無署名で出されることが普通である。作者名を伏せて、互いに句を選んだり批評したりするのだが、それは端的に、作者よりも作品が大事だ、という俳句の思想を示しているだろう。
さて、この『俳人漱石』では、漱石、子規、そして私が鼎談するという破格というか、無茶苦茶というか、ともかく夢のような形式になった。実際、これは私の夢の実現である。
(転記終わり)
上掲サイトに転記されていない後続の部分(一部)を本書から転記する:
漱石や子規を長く読んできた私は、時々、自分が彼らのそばにいる錯覚に陥る。たとえば、明治二十二年、二十二歳の彼らの行動を私は月ごとに思い浮かべることができるが、自分の二十二歳の行動はほとんど忘れている。つまり、自分のことよりも、彼らのことをよく知っているような、ちょっと変な気分になるのである。本書はこの気分に鼎談というかたちを与えたものだ、と言ってもよい。漱石や子規がしゃべっていることがらは、言うまでもなく私の意見だが、彼らも実際にこのようにしゃべるに違いない、という確信に近い思いが私にはある。
(転記終わり)
ここまで言えるというのは、凄い!
ところで、枝葉末節に渡るが、『慶応三年生れ七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・子規・紅葉・緑雨とその時代」』の著者である坪内 祐三氏と、『俳人漱石』の著者である坪内稔典氏との縁戚関係の有無や如何。
ちなみに、坪内 祐三氏と文豪・坪内逍遥とは直接の血縁関係にないとか。但し、坪内逍遥の本名は、勇三(のちに雄蔵)で、平仮名的には一緒なのだけど。
さらに脱線しておくと、坪内というと、女優に坪内 ミキ子さんがいたが(いるのだろうけど、最近は画面で見かけない…。坪内 ミキ子さんは、坪内逍遥の縁戚関係にある)、『男はつらいよ』の寅さんの恩師の名前は「坪内散歩」だったとか(→「映画解説はつらいよ-----『男はつらいよ』」など参照)。
坪内散歩とは、いかにも坪内逍遥をもじった名前だ(「逍遥」とは、「気ままにぶらぶら歩くこと。そぞろ歩き」の意)。
尚、坪内稔典氏の句は、ネットですぐに見つけることが出来る。実際、季語随筆を綴る中で、幾度、彼のサイトにお世話になったことか。
俳誌「船団」が有名だが、ネット上のサイトを一つだけ挙げておくと、「俳句俳景Series2坪内稔典 「縮む母」」など、どうぞ。
結構、著作権などが煩いので、句は転記しない。
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