詩人の数々…峠三吉や森鴎外
川路柳虹に惹かれた…。だからといって、別に詩や文学の世界での彼の位置付けなどを勉強しようと思い立ったわけではない。
が、昨日、図書館へ立ち寄って、当てもなく次に読む本を物色していたら、詩や俳句などのコーナーで、嶋岡 晨著『日本文学の百年 現代詩の魅力』(東京新聞出版局)なる本に目が止まった。
詩はたまに読んでも詩についての本は読まない。まして、この魅力のないタイトル。詩人らしくない、飾り気はともかく、ひねりも特色(つまり、本のタイトルで通り過ぎる浮気な読者の目を、心を惹く訴え)もない題名。手に取るはずもなかった。
でも、著者が嶋岡 晨(しまおか しん)氏とあれば、手に取って捲ってみるだけの値打ちはあるかも…。
そんな安直な気持ちで手にした本だったが、借り出して正解だった。
何がって、何も川路柳虹(かわじりゅうこう)に関する記述が数箇所もある、その中には、既に紹介した詩(「塵溜」のちに「塵塚」と改題)も載っている、ただそれだけの理由だけではない。
(本書によると、「明治四十年九月「詩人」誌第四号に発表された、川路柳虹の「塵溜」第一連。のちに「塵塚」と改められ、三行目以下、「塵塚のうちにはこもる/いろ~の芥の臭み、/梅雨晴れの夕をながれ漂って/空はかつかと爛れてる。」のように加筆された。」という。
では、もとの詩はというと:
隣の家の穀倉の裏手に
臭い塵溜が蒸されたにほひ、
塵塚のうちのわな~
いろ~の芥(ごもく)の臭み、
梅雨晴れの夕をながれ
漂って、空はかつかと爛れてる。)
載っている詩の数々のどれもが、一読、いいのである。その中には、これまでだって目にしたことのある詩もないわけじゃない。まあ、出会うタイミングがよかったというしかない。
題名の味気なさも、本書が東京新聞(などへの)連載を集めたものということ、それ以上に、「今回のこの仕事を、わたしは単に詩史的事実にこだわるのではなく、わたしなりの一種のアンソロジー、何回となく黙読かつ朗誦してなお、長く深く胸にとどまる詩篇の、アンソロジーの試みともしたいと思っている」からでもあるのだろう。
どの詩もここに転記したいが、そうもいくまい。今回は、名前だけはかねがね聞いていたが、その仕事を知らなかった、峠三吉の詩などを紹介したい。
まずは、「仮繃帯所にて」の一部分を:
あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のないあなたたち
血とあぶら汗と淋巴(リンパ)液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のように塞(ふさ)いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐(ひも)だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう
焼け爛(ただ)れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔(ほのお)のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し…
(「仮繃帯(ほうたい)所にて」部分)
有名な詩人、有名な詩。きっと、ネットにこの詩や峠三吉のことが載っているに違いないとネット検索。
すると、やはりである。いろいろ情報が得られる。とりあえず、上掲の詩の全文が載っているサイトを紹介。
「田村のホームページです」の「峠 三吉」なる頁。
ここには峠 三吉を紹介する記述がある。
「1917(大正6)年2月19日生まれ。幼時に大阪府から広島へ移り、1935(昭和10)年に広島商業学校卒業。在学中より詩や短歌、俳句などの詩作を始め、卒業後、肺結核に罹る。25歳のときキリスト教の洗礼を受ける」という。
ということは、戦時中にクリスチャンとなったということか。
「1945(昭和20)年、28歳の時に爆心地から3キロはなれた広島・翠町(みどりまち)の自宅で被爆。直接の損傷はガラス破片による負傷であったが、親戚や知人を探して原爆投下直後の広島市内を歩き回ったため原爆症に罹り、9月まで入院した」など、以下の記述は上掲のサイトで確かめて欲しい。
このサイトに載っている「仮繃帯(ほうたい)所にて」で「つぎつぎととび出し這い出し…」以下の部分を(但し、やはり一部だけ。残りはサイトでどうぞ)補っておく:
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を
苦悶(くもん)の埃(ほこり)に埋める
何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめに あわねばならぬのか
何の為(ため)に なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものに
されはててしまっているかを知らない
「峠 三吉」には、「8月6日」という題名の、もっと直截な表現の詩も載っている。
峠三吉は、『原爆詩集』をガリ版刷りで、昭和二十六年八月六日の平和集会のために作製したという。「定価八十円。五百部。」
「その翌々年、肺葉摘出手術のなかばに、死去。三十六歳。原爆症による肝臓障害もあったようだ。」
「なお、三吉の妻和子は、原爆後遺症を恐れてノイローゼ気味となり、また夫の詩碑が何者かによってペンキで汚されたのを句にし、昭和四十年、縊死している。五十一歳だった。」(引用は、『現代詩の魅力』より)
こうした詩というのは、詩の歴史においてどのような位置付けを持つのだろうか。あまりに悲惨な体験が齎した、特記ないし別記すべき詩であり、詩そのものとしての評価を施すには、手の届かないものなのだろうか。
体験。一瞬にして蒸発してしまった人間たちに体験というものがありえたはずもないのだし。
[例によって「青空文庫 Aozora Bunko」の「図書カード:原爆詩集」にて、峠三吉の詩を読むことが出来る。
上で、「峠三吉は、『原爆詩集』をガリ版刷りで、昭和二十六年八月六日の平和集会のために作製した」と書いている。この点については「図書カード:原爆詩集」によると、「『原爆詩集』は、当初東京の大手出版社から出される予定で、詩人・壷井繁治が奔走するが、結局「編集会議でもいろいろ議論されたのですが、いますぐはだめだということになりました………そちらで大至急ガリ版ででも出してください」(壷井からの書簡)ということで急遽1951年8月6日に間に合わせるために、孔版(ガリ版)印刷されわずか500部発行された」のだとか。]
さて、本書嶋岡 晨著『日本文学の百年 現代詩の魅力』の冒頭には、森鴎外ほか訳「ミニヨンの歌」が載っている。小生には、ゲーテのこの「ミニヨンの歌」は、あまりに懐かしく切ない。初恋の人が手にしていたので、同じ本を書店で求めて、疼く胸で懸命に読んでいたっけ。
詩の洗礼だったのか、ただの恋の熱に魘されていたのか、今となっては定かではない。けれど、文学や哲学や詩に目が見開かれたのは事実。
早速、転記しておこう:
「レモン」の木は花さきくらき林の中に
こがね色したる柑子(かうじ)は枝もたわゝにみのり
青く晴れし空よりしづやかに風吹き
「ミルテ」の木はしづかに「ラウレル」の木は高く
くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ
君と共にゆかまし
(「ミニヨンの歌」の其一)
本書は、この詩から始まっている。あるいはこの『於母影』から日本の詩の歴史が始まっていると、嶋岡 晨氏は主張したいのかもしれない。
実に清冽な詩の世界だ。
肝心の著者・嶋岡 晨氏のことについては、機会を設けて改めて、触れさせていただきたい。
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