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2005/09/09

夕月夜…秋の月をめぐって

 9月ともなると、季語に月にちなむものが増えてくる。たとえば、「月、名月、月見、無月、雨月」であり、ここにさらに「二日月、三日月(新月)、 夕月夜」が加わる。
 湿度が8月までに比して低くなるから、空気の透明度が高まり、勢い、月影が清かになるということか。同時に秋の夜長も関係するのだろう。夕方かな、と思わせる時間も日々、早まる。或いは、明け方の時間も徐々に遅くなっていく。
 仕事柄、ほぼ終日、外にいる。午前中の11時前から仕事が始まって、昼を迎え、午後となり(この午後が夏はやたらと長い!)、6時を回って7時頃にようやく宵闇が迫り、一晩中、外を這いずり回り、4時過ぎか5時前に明け方を迎える。
 仕事が終わるのは、7時前後。すぐに帰宅して、グズグズしながら就寝の時を待ち(帰宅してもすぐには眠る気になれない。神経が昂ぶっている感じがあって、その鎮まりに一時間以上掛かってしまう)、9時前頃だろうか、ようやく寝入る体勢に入る。
 昼間から夜中にかけては仕事も忙しく、交差点での信号待ちの際に、風景を愛で、ふとした光景を興じるくらいだが、丑三つ時を過ぎる頃には、運良くお客さんに乗ってもらうことがないと、あとは、何処かで来る当てのないお客さんを待ちながら、あるいは真夜中過ぎの都心を車で徘徊しながら、しらじらと明けてくるまで、夜の空の変化に感応しつつ一晩、過ごすことになる。
 昨日の朝も、明け方、何処かの町へお客さんを送り届け、さて、次は何処へ車を向けようかと考えつつ迷いつつ何処かの交差点に差し掛かった。すると、そこは急な上り坂の途中だったこともあり、視線が否応なく、空に向かった。
 目線の先には、薄く切り過ぎたメロンのような月。そして星。茜というか、ピンク色というのか、まだ完全には明け染めていない空の美しさにびっくりしてしまった。秋!を感じた瞬間だった。夏の間にだって朝焼けくらいは見たはずだけど、どこかしら空気の分厚さを感じてしまって、車中には常時携帯しているデジカメで、この風景を撮っておこうという空に出会わなかった。
 それが、ああ、この瞬間だよ。この瞬間を昨年の秋口から冬の終わりまで、仕事をしつつも、追い駆け回っていたんだよな、と思い起こされてしまった。
 空の不思議な高さと透明感と、何処に由来するのか小生には判然としない懐かしさの感覚。
 慌ててデジカメを取り出し、信号が赤の間に朝に映える空の光景を撮ってしまおうと試みたのだった。

 表題の「夕月夜」というのは、「夕方だけ月のある夜」の意で、秋の季語。けれど、「花と言えば桜花を指すように、月といえば秋の夜の月をいう」わけで、「月」というと、もう、秋の夜の月の意になってしまうのである。
 小生が見た月影というのは、「有明月」ということになるのか。
 それとも、「爽やかな空、光、昨日とは全く違った秋意を感じる朝をいう」という「今朝の秋」という季語こそが相応しいのか。

 さて、以下、昨年の10月初め頃に書いた、「秋の月をめぐって」という雑文を掲げておく。月影の美しい秋の到来を無邪気に喜んでいる小生がいて、我ながら微笑ましい?!

秋の月をめぐって(04/10/02)

 いよいよ秋である。食欲の秋、読書の秋、芸術の秋、惰眠の秋、スポーツの秋、感傷の秋、収穫の秋、祭りの秋……と、秋というと、それぞれに思うテーマがあるのだろう。
 今、例示したそれぞれは、人によっては、言い換えると、天高く馬肥ゆる秋だったり、味覚の秋だったり、実りの秋だったり、繁殖の秋だったり、行楽の秋だったり、人恋しい秋、性欲の秋、運動会の秋、文化祭の秋ということになるのだろうか。
 すでに散々やってきてはいるけれど台風シーズンでもあったりする。少なくとも、これだけは、あまり来て欲しくない……と書こうとしたけれど、台風がもたらす水というのは貴重らしいので、さりげなく、被害のない程度に、通り過ぎて欲しいと祈るばかりである。

 アキつながりというと、定番なので、もらすわけにも行かず、心ならずも、あき竹城のアキとか、水沢アキだとかって、挙げておく。
 実りの秋というと、誕生月別の人口数を統計で見ると、「第2次世界大戦前は、出生月による差が大きく、平成元年以降の傾向とは異なり、1~3月に高く6月に低い傾向のまま推移していた」とか。戦後も、「昭和39年までは、戦前と同様に1~3月が高く6月が低かった」というが、「出生月による差は少なくなってきた」という。
昭和45年以降では、出生月による出生率の差は、ほとんどない状態である」と、統計上では、なっているらしい。

 昔の子作りは、八月という暑い時期に盛んではなく、冬という寒い時期に繁殖に励んでいたということが分かる。実りの秋から冬ということが、このことでも言えるのだろう(か)。

 さて、翻って我が身に引き寄せて考えると、秋というと、ただ一言、月見の秋に尽きる。
 食欲は、年がら年中だし、読書も暑い夏も扇風機やエアコンの世話になるから、夏に読書量が極端に落ちるわけでもない。スポーツや行楽、芸術は、あまり縁が無いので、小生においては、秋とは結びつかない。収穫(実り)のほうも、トンとご無沙汰である。こればっかりは相手が居ることで、実りのないこと惨憺たるものである。
 惰眠も扇風機とロッキングチェアーのお蔭で、年中、貪っているし、昔と違い、住環境(屋内)に関して、エアコンなどがあってか、地球温暖化の故なのか、季節感が乏しくなってきたことは否めないように思われる。
 そんな中、僅かに残る季節感を覚えさせるものというと、小生の場合、月ということになるのである。

 それはまた、空気の違いでもある。湿度の違いと言い換えてもいい。夏の夜だって、梅雨の時期だって、空が晴れていれば、昼間は無理としても、夜には月を拝むことができる。さすがに、新月は、科学が発達した今日にあっても、未だに愛でることは叶わないようだが。
 そう、月は一年を通して、天候にさえ恵まれれば、新月(や、その近辺)でなければ、夜空で照っている。別に照れているわけじゃないのだろうが、とにかく照っている。デレデレとじゃなく、光っている。

 そう、最後の、光っているは間違いである。太陽や月が地球の周り、あるいは我々の周りを巡っているわけじゃなく、太陽の周りを地球が周り、さらにその地球の周りを月が回っている。その月に太陽の放射光のほんの一部が当たっている。もち、地球にも当たっているのだが。
 ついでに言うと、地球の光が、月に当たる、「地球照」なんていう現象もある。
 つまりは、月は光っているわけではなく、反射しているのだ。だから、照っているというのも、ちょっと表現としてはおかしい。照り返しているに他ならないのだし。

 が、やはり、慣行的な表現として、照っていると言いたいのである。月が照っている間は、太陽のことは忘れたいのである。月の光具合で、ああ、太陽があの角度・位置にあるのだろうな、なんて野暮なことは思いたくないのである。我が侭勝手と言われようが、月を眺めあげている間だけは、せめて、天動説を採りたいのだ。地動説なんて、野暮の極みなのだ。

 いや、天動説どころか、月が我が空を移動していると思いたいのである。月が、小生が歩く先を何処までも追い駆けてくれる、誰にも相手にされない、しがない中年になろうとも、お月さんだけは、天にある限りは、照っていて、小生に影を与えてくれる。この存在感のまるでない存在である小生も、ちゃんとこの世に生きてあるのである、そう、だって、この影を見て御覧よ。ちゃんと、影があるだろう。
 ああ、昔、先哲は、この人を見よ、などとのたまわれた。小生なら、言うだろう、この影を見よ、と。

 人影。月影。影。影があるから人生があるのだ。月影があり、真夜中過ぎの場末の公園の脇に車を止めて、夜空に月を探す。そう、真っ先に月影を追い求める。空が晴れ渡っている限りは、我が身にも影が長く、あるいは短く、延びている。その方向からでも、月の位置が察せられる。

 最近、あるサイトの掲示板で、「長島がホームラン打つのは満月だったらしいですよ」なんて、書き込みを読んだ。えっ、ホントなのと、例によってネット検索して調べてみたが、根拠(データ)が見つからない。
 僅かに、加瀬清志氏(放送作家、出版プロデューサー)という方に、『プロ野球満月伝説』(東京書籍、絶版)があって、「満月の日は思いもよらぬ出来事が起こるとの視点から、プロ野球界で満月の日に活躍した選手の物語を、豊富なデーターとともに紹介した本」らしいけど、その本にでも書いてあるのだろうか、なんて憶測を逞しくしてみたけれど、甲斐がない。
 ただ、長島茂雄氏は、生涯に444本のホームランを打っている。プロ野球はナイターが多い。昔は、ドーム球場も少なく、青空(曇り空もあるが、この場合の<青空>は、屋根が無いという意味合いだろう)の下で野球をやっていた。
 野球をやったうちの三分の一は曇りか、少々の雨が降っていたとして、残りの三分の二は、晴れだったろう(多少の雲があったとしても)。つまり、300本は、月が出ていた可能性がある。満月は、月齢のこともあるし、29分の1ということになるが、まあ、前後の日も照り具合では満月という印象を受けるので、単純に10分の1は満月(か、それに近い)ということになる。
 ということは、単純計算で、30本のホームランは満月(近辺)でのものになる。満月の下でのホームランというのが印象に鮮やかなのは、なんといっても、ホームランが生まれた時は、誰しもグラウンドじゃなく、夜空を仰ぐわけで、理の当然のような気がするのだが…、さて。

 ま、理屈である。
 話が例によって逸れてしまった。話を戻すと、月の光が一番、冴え冴えとしてくるのは、春宵花影と言うところの朧なる春でなければ、梅雨の時期でもなく、夏の湿気の多い頃合いでもない。やはり、湿気が薄まってくる、秋以降ということになるのだ。
 夜の星も、秋が深まっていくに連れ、凄みを増してくる。星に就いて、我々は古代の人々よりも知識を豊富に持っていると思っていいのだろう。
 が、夜の底深くを徘徊してみると分かるのだが、真夜中過ぎの、深深とした刻限に、冷気を体に感じながら、夜空に輝く星を見上げていると、魂が震撼する瞬間というものを覚えるのだ。

 星については、現代においても、あれは照り返しなどではなく、自らが光を放っているという理解がされている。逆に、昔の人は、星は瞬いているとか、煌いているとか、さまざまに表現されてきたとして、星が自らの力で輝きを放っていると理解されていたのだろうか。もしかしたら謎のままに、その光芒を浴びていたのではなかろうか。
 秋の星の光は、誰もいない街灯も少ないような場所に立って、星と二人だけで相対峙すると、まさに魂の底の底にまで光の矢が突き刺さってくるようである。誤魔化しが効かないような気がする。天蓋が我々の空にあって、天を覆ってくれているのだけれど、その天幕が星の輝き故に、破れてしまって、天の底の彼方から、まるで得体の知れないものが我が身に、我が魂に或る日突然、襲来するのではないかと思われてくる。

 さて、月はというと、月をジッと眺めあげていると、誰しも、月の面に淡い文様を見出す。煌々と照る月、未だに自ら光るとしか直感的には思えない月、その月は、その表面の文様を見分けることを許すほどには、優しい。
 優しいのだけれど、秋の空の満月は、やはり、凄まじい。空にあんな巨大なものが浮かんでいるなんて、信じられなくなる。ポッカリ、浮いて、どうして落ちてこないのか、不思議でならなくなる。
 でも、落ちては来ない。夜空の天頂から次第に地平線のほうに落ちていくようだが、その落ちる先というのは、我々がどんなに死力を尽くして落ちていっただろう先へ追い駆けていっても、決して追い着けない。
 虹でさえ、時に懸命に追い駆けたら、いつかは、そのブリッジの袂に行き着けるという幻想を抱かせるのに。
 追い着けない彼方に落ちたものは、実は落ちたとは言わない。彼方に姿を消したのである。我々の眼差しの限界を超してしまったのである。地の山々の彼方に、水平線の先に消え去ったのである。

 月に吼えるという誰かの文言があった。
 さすがに小生は吼えたりはしないものの(その衝動に駆られることはある。人影のない場末の公園とはいえ、世間体を気にする小心者の小生、心の中で密やかに、オオーンとやってみるだけである)、魂が掻き毟られるような思いを持て余すのは確かである。
 夜の果ての天の光というのは、我が心を剥き出しにする。自分にさえ隠しおおしたり、誤魔化し通していたりしていても、天の光が魂の中にズカズカと侵犯して、魂の部屋の中を光で溢れさせ、影などの余地を奪い去ってしまう。丸裸に剥かれてしまう。赤裸の自分、卵に還った自分、原初の心、そんな何物かの不即不離の境が生じる。

 さてさて、月を巡っての、感興は尽きない。それに、赤裸の自分が何を語りだすか、怖くもある。そろそろ健全なる常識の世界に戻るべき頃合いだろう。

  ===== 蛇 ===== 足 ===== だ ===== ぞ ======


 秋の月待ち焦がれての月見かな

 這い回る車の先に月一つ

 有明の月の影追う孤影かも

 今朝の月寝入る前でも今朝の月

 月々の支払い溜めて息詰まる

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コメント

やいっちさん

月よ月 照らさないでよ 恥かしい

若かりし頃、夜遊びしたあと、振り向くたびに大きな月がついて来る。寂しさと疾しさで逃げたい気持ちだった事を思い出します。(*^ ^ *)

投稿: さくらえび | 2005/09/09 15:10

さくらえびさん、こんにちは。

若かりし頃の心疼く思い出ですね。あの頃は、どうしてあんなことができたんだろう…、分別盛りの今からは想像も付かない…。
そうはいっても、そんなパワーがあった昔が懐かしくもある。

> 月よ月 照らさないでよ 恥かしい  (さ)

 お月さん赤面なのは誰のせい?
 月だって照れるんだよね見ぬふりさ
 月よ月恋の思いの届かざる
 秋になり心の透き間風の吹く
 月の絵は心の影を映せるか

投稿: やいっち | 2005/09/10 08:10

「無月」についての一考察

やいっちさま、ふたたび興味深いコメントを有難うございました。それにしても奇縁ですね‥、わたし、次回の更新で、まさにそのことに関わる記事を書こうとしていたのですから。まぁ、このご縁は、仲秋の名月が近いということも関係しているのでしょうけれども。少々長くなりますが、僭越ながら「雨月」について、わたしなりの考えを述べさせていただきます。

わたしの意見は、雨月とは、月影を偲んでいるとも、雲間からほの見える月の姿の光景とも、どちらの意でもかまわない。ただ、この言葉が生まれた意味‥、日本人の月への想いのようなものを考えることのほうに興味があるんです。

雨月、無月、葉桜などといった表現、また、次の和歌のような、

 冬ながら 空より花の散りくるは 雲のあなたは春にやあるらむ
 (『古今集』 清原深養父)

降雪を花(桜)と見立てたもの(花弁雪という言葉もありますね)‥等々を例にすれば、これらの言葉に共通することは、「見たいと思うものが、何らかの理由によって(明確に)見えない」ということですね。でも、さらに深めてゆくと、やいっちさんのおっしゃるとおり、雨雲や雲の切れ間から時おり漏れくる月影や、薄雲のむこうに透き見える不完全な月の姿、さらには月影を偲び、観念の月をも見ようとしているのではないか‥、と思えてきます。わたしはまったくそれに同感です。見えないけれども見ようとする、あるいはそれが見えてしまうこころがある‥。

これに近いと思われることを松岡正剛氏が著書『日本流』に書かれています。氏は、“もの”に心を寄せて(これが「数寄(=好き)」の源流なのですが)、そこからあらゆる記憶や歴史等を呼び起こしたり、うつろう季節の中に思い出や次にくるべき季節を“見よう”とする感覚が、「何かが何かに見えてくる」という「見立ての手法」として発展し、日本の文化が形成されていった、と述べています。

だから、どうもわたしたち日本人は、ものを目で見るだけでなく、こころで見ているのではないかと思うのです。対象化するのでなく、こころに取り込んで見てしまう。こころで見るのですから、対象物に主観的なさまざまな思いを限りなく投影したり増幅させてしまうのでしょうね。そして、月や花が消えても、なお見ようとするこころが、雨月、無月、葉桜、花弁雪‥ という言葉を生んだのではなかろうかと。


‥これ以上お話すると、次回予定の記事がうすっぺらな内容になってしまいそうなので、このあたりで止めておきましょう(笑

長々と失礼いたしました。今宵の十三夜月は美しい限りです。

投稿: 雪月花 | 2005/09/16 20:22

雪月花さん、あまりに丁寧且つ中身のあるレスで戸惑うほど。
次回の更新で「無月」乃至「雨月」などに関連する記事を書かれるとか。このレス以上の何を書かれるのでしょう。楽しみです。

ところで、小生も15日の午前に「雨月」ということで、書きかけていました。
東京へ帰ってパソコンに向かえたら、書き込むつもりの下書き。とりあえず、その草稿を別のサイトにアップさせておきました:
 http://atky.exblog.jp/2716693/

投稿: やいっち | 2005/09/17 00:04

やいっちさん、こんばんは。トラックバックをしていただいたのですね! うれしかったです。今夜はわたしも出先からコメントを書いております。

上記草稿のサイト、拝見いたしました。当方を丁寧に紹介していただき、有難うございます。わたしも、こうした有意義で、かつ日本文化への理解を深め、勉強になるひとときをとても大切に思っております。まだまだ勉強不足で、やいっちさんの思索の世界にどれだけついてゆけるものか不安ですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

今夜は招待券をいただいてサッカー観戦に出かけておりましたが、横浜のスタジアムの上空に見事な小望月が東から西へと横切ってゆくのが見られ、絶好の、ひと足早いお月見となりました。‥そうそう、明日十五夜の記事はかなり軽〜い内容のものですので、あまり期待をされてしまうと困ります。。。 こちらこそ、やいっちさんの上記草稿の続編を心待ちにしております。

おやすみなさい。

投稿: 雪月花 | 2005/09/18 00:56

雪月花 さん、来訪、コメント、ありがとう。
昨夜、帰京しました。出かける前もゴタゴタしたりして、こちらに来ても、雑用があり、夜はグッタリ。TBだけで失礼させてもらいました。
小生は、この季語随筆を勉強のため(もち、楽しみつつ)綴っている。つまり、記事の内容は自分が知らなかったことを、へえー、そうなんだ!という驚きの念を以って書いているものなのです。
とにかく、知らないことばかり。基礎から俳句や和歌や文学を学んでいるわけではないので、常識的な知識が欠けているのではと、常に戦々恐々だったりする。
思いっきり恥を掻いているんじゃないかと心配ばかり。
でも、書くとは恥を掻くことと肝に銘じ、この緊張感の下、日々あれこれ書き散らしています。
今後も、交流をもてたらと思います。

投稿: やいっち | 2005/09/18 07:53

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