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2005/09/01

すすきの穂にホッ

 先月、或る日の季語随筆で「猫じゃらし…エノコロ」という表題の下、「エノコロ」をテーマにあれこれ綴ってみた。
 そのコメント欄でも書いたのだが、「エノコロとなると、連想は、「ススキの穂」へと向かいます」。
 今月の季語例の中に、まさに表題にある如く、「すすき」がある。ということで、今日は「すすき」に触れてみる。
花の句と写真」によると、「芒(すすき)は薄とも書き、花芒・尾花・鬼芒・糸芒とも呼ばれています」とあって、「すすき」の画像も見ることが出来る。
「エノコロ」は、何処か愛らしさが感じられたが、「すすき」となると、何か侘しさ、寂しさの感が漂ってくる。それは、まさか、「貧しさに負けた いえ 世間に負けた この街も追われた いっそきれいに死のうか 力の限り 生きたから 未練などないわ 花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき」と歌われる「昭和枯れすすき」(山田孝雄作詞・むつひろし作曲)といった、一昔前に流行った歌のせいばかりではないだろう。
 人によっては、ススキというと、森繁久弥の唄った「船頭小唄」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)などをつい口ずさんでしまう人もいるに違いない。独特の森繁節で「己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき) 同じお前も かれ芒 どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れ芒」と唄われると、もう、その世界から抜け出せない。(念のために断っておくが、「枯れススキ」は冬の季語である。)
 というより、抜け出す気が起こらなくなる。この世界にドップリ漬かっていて、何が悪いと開き直りたくなってしまう。
 まあ、今はそういうわけにもいかないので、そうした被虐的な世界の淵にはあまり長く佇まないで、先に進むことにする。

 ネット検索すると、「散るすすき寒くなるのが目に見ゆる」という一茶の句が上位に出てくる。但し、この句の場合、「すすき散る」が季語のようで、「秋が深まり、日に日に散っていくすすきの穂。それを見ると、日ごとに寒くなってくるのが目に見えるようだ」と評釈されている。
「おりとりてはらりとおもきすすきかな」という飯田蛇笏は、「すすき」の句というと必ず例に挙げられる句のようだ。「ススキの穂は、見た目には軽そうだが、折り取って手に持つと、思いがけない重さだ。見た目には感じない、生命の重さに感動している」などと解されている(「覚えておきたい有名な俳句・短歌」より)。
 このサイトには、「君が手もまじるなるべし花すすき」という向井去来の句も載っている。やはり、ススキではなく、「花すすき」が季語で、「白い穂が出たすすき」のことだとか。「秋の野は、一面にすすきが風にゆれている。友人が別れを惜しんで手をふっているが、その手がすすきの穂にまじって、いつまでも見送ってくれているようだ」といった評釈が加えられている。

「すすき」といっても、侘しいものばかりではない。「萩すすき紅さすための薬指」などという、黛まどかの句などがあったりする(「黛まどか「17文字の詩」99年11月の句」より)。思えば、彼女の句を引かせてもらうのも久しぶりのようだ。
「出かけてゆく時の女性の支度には華やぎがあるもの。これからどこへ、だれと会いにゆくのか、それは別れの装いなのか、新しい何かが始まる装いなのか……。ともあれ、この後のさまざまなドラマの始まりを予感させるプロローグの紅をさしている女性。紅をさそうとのぞき込んだ鏡台の中に、あるいは窓の向こうに、庭に咲いた萩の花やすすきが揺れています」以下、自身による評釈が加えられているが、若い女性ならではの観察があって、この句を詠むこちらが訳もなく妙に浮き立つようでもある。
 こうした自身による評釈を読むたび思うのだが、句を嗜まれる方は、人の句であれ自分の句に対してであれ、短文での解説の如何が非常に重要のようだ。簡潔な解説の中に凝縮された情報が篭められ、同時に独自な視点と観察に裏打ちされ、且つ、読むに味わい深くないといけないのである。
 句だけをポンと出されるのも小気味いいが、句と短文のコラボも楽しいものだ。そこに俳画のような絵などが水彩か墨でサッと描かれて添えられていたら、もう、成功は間違いない。
 成功とは何かが問題かもしれないが、とりあえずの注目は期待できる。小生にとっても課題の一つである。

 ここらで「すすき」の画像などを見て、閑話休題。
「すすきを撮る」の項を見ると、「すすきの花穂は尾花と呼ばれ秋の季語でもあり、菊と共に秋の代表的な花の一つです」とある。そういえば、昨年は「菊」の花も、幾度か写真に収め、この季語随筆にも添えた。が、「菊」に焦点を合わせてあれこれ書き綴った記憶はない。あるいは、あまりに当たり前に目にするから、もう、分かったかのような錯覚があるのだろうか。
 さて、「すすきの花は光の当たりや時間帯でみえ方が変わります。これは光の強さと光の質(色温度)の違いによるものです」とあるが、さすがに写真家の観察眼というべきか。
 思えば、ススキの野にあって終日、眺めたことがあるわけでもない。大概、その脇を行過ぎるついでに、サッと眺めるに過ぎない。気を惹くようでいて、やはり地味。それとも、地味なのに、妙に郷愁を掻き立てる奴だというべきか。
 
 ネット検索していたら、夏目漱石に「ゆけどはぎゆけどすすきのはらひろし」なる句のあることを知った(「文学研究への誘い」というサイトの「『漱石俳句かるた』解説」にて)。
「明治三二年作。「阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふ」という前書がある句。このときの体験が「地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみ」という『二百十日』の作品に生かされている。萩と薄だけが生い茂っている草原のひろがりと次々にわき起こる不安とが「行けど」のくり返しで表現されている。季語「萩・薄」=秋」といった評釈が添えられてある。
 書き忘れていたが、黛まどかの句「萩すすき紅さすための薬指」も、季語「萩・薄」(=秋)である。
 芭蕉の句に「しをらしき名や小松吹く萩すすき」があることを知る人も多いだろう。


 赤トンボススキに舞って茜空
 ススキの穂眺める我もホッとする
 実らずも頭(こうべ)の垂れるススキかな
 黄昏のススキ野行くも蚊のみ友

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