読書三昧?
「音楽三昧?」(September 06, 2005)で、マルティン・シュタットフェルト(Martin Stadtfeld)というピアニストの演奏のこと、千住真理子さんのヴァイオリン演奏を聴いたこと、ガムランという言葉の意味合いについてなど、あれこれ書き散らした。
また紙面が尽きて(タイムアップで)書くことは出来なかったが、同じ営業日にパブロ・カザルスのチェロ演奏を聴いたのだった。久しぶりということもあってか、それとも、その日は音楽の当たり日だったからなのか、その演奏に感激したのだった。
演奏に…、それともチェロの音になのか。何か際立つものを感じた。
後日、図書館でパブロ・カザルスのチェロ演奏のCDを探したけど、見つからなかった。何か後ろ髪の引かれる思いがあったので、音楽関連図書のコーナーをうろついていたら、パブロ・カザルス著『鳥の歌』 (ジュリアン・ロイド ウェッバー編集、池田 香代子訳、ちくま文庫)を偶然、見つけた。
パブロ・カザルス著というより、「カタロニアが生んだ不世出のチェリスト、カザルス!彼自身の言葉と同時代の人々の証言から、音楽性はもとより、人格の高潔さによっても世界のファンを魅了した「魂の音楽家」の素顔がよみがえる―バッハ、若かりし頃、直感と解釈、母など全18項目にわたる興味尽きない言葉の数々」ということで、まあ、語録・証言集・エピソード集のような本だ。
若かりし頃の天才ぶりの発揮などは勿論だが、むしろ彼の失敗談など人間味溢れる逸話が楽しい。一方、頑固なほどの音への拘り。誰よりも練習する人。が、練習が辛いと正直に語りもする。或る時、ある事故で左手を怪我する。周囲の人は、カザルスの演奏が聴けなくなる!などと心配したというが、本人は、「ああ、これで練習しなくて済む」と思ったとか。練習嫌いなのではなく、そこまで演奏に徹底する人だということだ。
同じ日に聴いた千住真理子さんのヴァイオリン談議などでは、彼女のストラディヴァリへの偏愛ぶりを伺ったが、カザルスはストラディヴァリを決して使わないという。何故か…。その理由が面白いが、それは本書を当たって欲しい。
気軽に楽しく読めすぎて、本書、車中で一気に読み終えてしまった。勿体無い。今度、本書を入手し、いつか彼の演奏を聴きつつ、自宅でゆっくり玩味したいものだ。
嶋岡 晨著『日本文学の百年 現代詩の魅力』(東京新聞出版局)は自宅で読んでいた。数多くの詩人や詩が登場するので、これもゆっくり読みたかったが、どの詩や詩人の仕事も興味深く、仕事を挟んでの両日でこれまた一気に読み終えてしまった。
個々の詩人の仕事にもう少し、留意したいので、「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(1) 」でやっているように、本書に引用されている詩(多くは断片)を出来る限り転記しておきたい。自分のためだし、今後、その小生には目新しい名前も含め、追々、情報を得ていきたいのだ。
小生は詩は書けないし、多分、試みることもないと思うのだが(しないと断定はしない!)、言語表現への拘りということで、この季語随筆では、散文も詩も俳句も川柳の世界にも触れていくつもりだ。
ところで、詩人は詩を、俳人は俳句を書くものなのだろうが、さて、両者がクロスすることはないのだろうか。
ある人は、俳句は世界一短い詩だと喝破(?)していたが、詩と俳句はまるで違うものだという考え方もある。俳句は挨拶、滑稽、即興だという考え方もある。俳句に下手な詩情など和歌的叙情など必要ないという考え方だ。
自分自身の考え方は未熟すぎて、披露する以前の段階に止まっている。よく言えば融通無碍、率直に言うとハチャメチャなのが小生の世界。どっちにしても、句に底知れない魅力と可能性を感じていることだけは確かだ。
ちなみに、小生は未読だが、嶋岡 晨氏には『詩のある俳句』(飯塚書店)なる著書がある由。レビューでは、「詩人と呼ばれる俳人の作品に、詩があるのは当然であるが、広い意味での現代の詩を自由に大胆に創造して欲しいと、現代詩人が、著名な俳人の作品と新人の作品のなかにある「詩」を発見して説明」とあるが、興味津々である。
まさに牛歩というか、図書館で適当な本が借りられなかった時という非常用に(!)、山本健吉著の『俳句とは何か』(角川ソフィア文庫)を読んでいる。さすがに三度目なので、ドンドン、読んでいくというより、この本が脇にあるだけで安心のような気がする。
どういう意味で安心かというと、自分はあれこれ書き散らしているだけじゃなく、本格的な俳句論の本も読んでいるんだぞ、というもの。
山本健吉氏は俳人ではなく、また、実作もされないようだで、評論家と自称されている。今時、山本健吉氏の本を読む人はどれほどいるのか知れないが、無知の小生にはありがたいのだ。「俳句は挨拶、滑稽、即興だという考え方」も、山本氏の受け売りなのである。
さて、水曜日、図書館へ行ったら、不要品のコーナーにリサイクル資料ということで、「俳句朝日 2004/10月号」があったので、貰ってきた。特集は、「「晩年の円熟と俳業」 日野草城」である。
彼の句碑には、以下の句と共に、「俳句は東洋の真珠である」という彼の言葉が刻まれている:
春暁やひとこそ知らね木々の雨
松風に誘はれて鳴く蝉一つ
秋の道日かげに入りて日に出でて
荒草の今は枯れつつ安らかに
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く
ほかに、「春の灯や女は持たぬのどぼとけ」や「春の夜やレモンに触るゝ鼻の先」などの句を「日野草城の俳句 秀句とその鑑賞
」にて詠める。
日野草城についても、追々、触れることがあるだろう。
今日からは佐久間象山や横井小楠の本を読んでいく。幕末から明治維新の政治家・思想家(・文学者)などの仕事を見直したいという思いからである。彼らの思想や提言は、当時にあっては時に危険極まるものだった。だからだろうか、彼らは共に暗殺されている。レトリックで殺されても遣り遂げるという人はいるが、本当に幕末などはそうだったのだ。
他にも楽しみな本を見つけてきた。これまた、追々、触れることがあるに違いない。
さて、今日の表題は「読書三昧?」である。決して、「読書三昧」ではない。というのも、春眠暁を覚えずではないのに、秋眠で暁も宵闇も何も覚えずで、本を数頁読むと眠気がスーと襲ってくるから、気恥ずかしくて読書三昧とは言えないのだ。
ま、睡眠障害は小生の業病というか宿命みたいなものなので、読書が睡眠導入剤になるのも、無理からぬものがあるのだ。
ということで、今夜もこれから、本を枕元に、寝入るとしよう!
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