« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005/09/30

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(5)

「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋」の続きである。
 注意事項その他は、これまでの稿に準じる。
 前書きのつもりで書いていた記事が長くなりすぎたため独立させたので(「読書日記」)、今回は、いきなり詩の抜粋を載せていく。


長谷川龍生「パウロウの鶴」

剛(つ)よい羽毛をうち
飛翔力をはらい
いっせいに空間の霧を
たちきり、はねかえし
櫂(かい)のつばさをそろえて
数千羽という渉禽(しょうきん)の震動が
耳の奥にひびいてくる。…

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(5)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読書日記

 このところ、本というと図書館で見つけ出したものばかり。前にも書いたけど、書店で購入するとなると、どうしても購入に慎重になる。買うとは、小生の場合蔵書になるということだし、できれば再読に耐える本であって欲しい、所有し書棚にあったとき、その書名や著者名、装丁などを楽しめるものであって欲しい…、まあ、蔵書への要求というか求めるものは、過大になりがちである。
 その点、借りるとなると、普通なら買わないような安直な本も借りれる、資料としての本もOK、拾い読みのみでも構わない、図書館のラックから抜き出したときは読みたいと感じたけど、いざ、我が家で落ち着いて読むと、当てが外れてしまうという杞憂(大袈裟)も抱かなくても済む。
 安直というのではないが、車中で読む本が小生の場合、あれこれ思惑を抱いてしまう。車内の運転手の周辺には仕事に関連する用具があるので、ドアポケットの隅っこに入るような本が望ましい。自然、新書や文庫本がメイン。
 しかも、あまり高度な内容では困る(細かすぎる活字も困るが)。対談かエッセイが、仕事の事情で断片的にしか読めないことを思うと、経験的にも一番、適当に思われる。
(実際には、忙しくなるとあまり読めない。ある程度、暇になった頃には疲れているし、夜中過ぎなので、目も活字を追うのが億劫。結局、目次や前書きしか読めない場合も結構、多い。でも、何かしら本が傍にないと心配なのである。何が心配なのか、よく分からないのだが。)
 というわけで、例えば先週までは、『井伏鱒二対談選』(講談社文芸文庫)を読んでいた。

続きを読む "読書日記"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/29

鶏頭…無常か永遠か

 テレビでだったろうか、「草紅葉」という言葉を聞いた。知る人は知っているのだろうけど、小生には初耳。聴いた途端、いい言葉だと感じた。……書いていて思い出したが、そうだテレビで「草紅葉」という言葉を聴いたのだ。
 それで、思わず画面に見入ったら、記憶が曖昧だが、尾瀬だったかの風景が目に飛び込んできた。
 ネット検索すると、「尾瀬に「草紅葉」の季節が到来 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)」という記事が現れてくる。
 詳しくはリンク先の頁を覗いて欲しいが、「群馬、福島、新潟3県にまたがる日光国立公園・尾瀬で、草や低木が美しく色づく「草紅葉(くさもみじ)」の季節が始まった」という。
「草紅葉は、例年よりやや早く10月初旬に最盛期となり、湿原を囲む2000メートル級の山々の紅葉は、1週間ほど遅れて見ごろを迎えそうだ」とか。
「草紅葉」なる言葉、いかにも歳時記か季語にありそうな言葉である。調べてみたら、案の定だった。「季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」に載っている。早速にも採り上げたいが、来月まで取っておくことにする。「10月は季題が一年の中で一番少ないよう」だというから、尚更、せっかちな性分の小生も、自制するに越したことはないのだ。
 そこで、「季題【季語】紹介 【9月の季題(季語)一例】」を眺めてみると、今日は何故か、「鶏頭」に目が合った。
 正直なところ、幾度となくこの季語には目が向いているのだが、子規の有名な句のこともあり、やや食傷気味。今更、書き足すことがあるだろうかと、手が出しにくかったのだ。
 でも、9月も終わりに近付いている。明日29日は仕事で何も出来ない。仕事が明けた30日になったら、他に何か書いてみたいこと、触れてみたい季語に出会うかもしれない。
 こうなったら、最低限のことだけでも、「鶏頭」について書き綴っておこう。

続きを読む "鶏頭…無常か永遠か"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/09/28

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(4)

 本稿は、「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(1)」や「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(2)」、「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(3)」に続くものである。
 これまでは詩の世界にも明るくない小生でも名前くらいは、詩の幾つかは知っていたり慣れ親しんだりしてきたものが多かった。詩的感受性も何もないのに、詩の世界に親しもうと背伸びしていた学生時代、小生は何故か主に金子光晴の世界に触れようとすることが多かった。
 そのことは書いたことがないはずなので、機会を設けて学生時代など若い頃にドップリと浸った世界に探針を下ろす試みの一端として描いてみたい。
 情ないことに中原中也はともかく、学生時代は未だ、宮沢賢治の詩の魅力にも感じる土壌が小生にはなかった。それほどに不毛だった? あるいはもっと他の世界に気が奪われていた? 
 ま、今は詮索は止めておこう。
 例によって、記事を書くに当たっての表記方法などについての注意事項その他は、上掲の記事に書いた留意点を参照願いたい。
 さ、嶋岡 晨著『現代詩の魅力』から、引用されている詩の断片の抜粋する作業を始めよう!

 尚、今回は、以前書いたあともう一歩で詩文になるかという小生の拙稿を末尾に載せました!

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(4)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/27

曼珠沙華…天界の花

 今日、採り上げる季語は表題にあるように、「曼珠沙華」である。
 小生、この季語を俎上に載せるのは、やや気が重い。
 というのも、これまで曼珠沙華については散々書いてきたので、今更何を付け足すことがあろうかという憂鬱というのではないけれど、やや億劫だなという思いが先に立ってしまうのである。
 そこで、自分でも確認する意味もあり、一体、これまでどんなことを曼珠沙華について書き散らしてきたか、リストアップしてみた。
 その結果は本稿の末尾で示す。
 リストアップされた文章群を眺め渡して言えることは、季語としての「曼珠沙華」を採り上げたことがないということ。
 なので、改めて、季語としての「曼珠沙華」について、簡単に説明を施しておこう。

「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は秋9月の季語であり、関連語・類語に「彼岸花、死人花、幽霊花、狐花」などがある。
 余計なお世話かもしれないが、「曼珠沙華」という季語は、俳句では、5・7・5の5文字に換算される(何も、5の位置に置かなければいけないという意味ではない)。

追記(05/09/28):彼岸花の画像などを:
心の万華鏡
So-net blog風の詩彼岸花・・・そして飛鳥の思い出・・・

続きを読む "曼珠沙華…天界の花"

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2005/09/26

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(3)

 本稿は、「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(1) 」や「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(2)」に続くものである。
 記事を書くに当たっての表記方法などについての注意事項は、上掲の記事に書いた留意点を参照願いたい。
 前回は、小生の大好きな宮沢賢治の、取り分けて好きな詩「永訣の朝」で終わっている。
 本書・嶋岡 晨著『現代詩の魅力』の中で著者も書いておられるが、明治以降、数知れない詩人が輩出したが、依然として宮沢賢治や彼の詩の人気は絶大なものがある。詩にも疎い小生も、彼の詩には早くから魅せられてきた。小生の鈍い感性をも震わせ染み入らせるものが彼の詩の世界には、ある。
 今後、どれほどの詩人が新たに現れ我々を魅してくれることと思うけれど、そんな中にあって、まだ半世紀は彼の詩の人気は衰えるとは思えない。
 小生如きが彼の詩の魅力の由縁を書くのもおこがましい。急いで、嶋岡 晨著『現代詩の魅力』から、引用されている詩の断片の抜粋作業を始めよう!

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(3)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

露草…陽炎(かぎろい)の青

 9月の季語(季題)例を眺めるのも、あと僅か。
 採り上げたい季語はまだまだあるが、今日は「露草」を。
 と思ってネット検索していたら、「エッセー・夏「露草」 : 和の学校から : 文化 伝統 関西発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)」といった素敵なエッセイの頁を見つけてしまい、これ以上、何を書くことがあろう、屋上屋を架すことすらできそうもないと、一気に書く気が萎えてしまった。
「花は夜明けとともに開き、昼にはしぼんでしまうので、その短命さが朝露にたとえられて、この名前があるのでしょう」とか、「露草」のほかに、「蛍草(ほたるぐさ)、月草(つきくさ)、鴨跖草(つきくさ)、青花(あおばな)、うつし花、帽子花(ぼうしばな)など、多くの名前を持っています」とか、「いにしえより、この花の汁は摺り染めに使われていましたが水で洗えばすぐに流れてしまうことから」、「古くから青花(あおばな)の名前で、友禅染の下絵用に改良品種が栽培されてきました」など、本日の季語随筆は、これにてお終い! としたいものだ。

 が! さにあらず。蛇足と余談と雑談の好きな小生なのだ、続きが延々と!

続きを読む "露草…陽炎(かぎろい)の青"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/09/25

駄句アップ

 無精庵方丈記でまたアップ!
 今度も駄句の嵐だぞ!
 玉石混交を恥じないのが我が流儀。


 詠まれずもデジタル句宙舞っている!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(2)

s-DSCF0218
 表題から明らかなように、「嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(1)」に続く記事である。
 意図や表記などの注意事項などは、上掲の頁に準じる。

←昨夜半過ぎの都内某所。路面が濡れている。

 付記すべきことは一点。リンク先のHP(URL)を略していること。覗いた頁からすぐに飛べるとは思うけれど。ただ、リンク先には、詩の全文が載っているはず、表記は若干違う場合が多いのだが。

 前回は、吉本隆明も敬愛していたという高村光太郎の、ある意味典型でもある「牛」までを部分転記したところで終えていた。
 では、続きを早速! まずは萩原朔太郎から。

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(2)"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/09/24

夜長…深き淵見る

 さすがに今の時期、残暑という言葉は誰も使わない。先週などは使っていた向きもあったような気がするが、喉もと過ぎればなのか、そんな酷暑の夏があったことも、遠い夢のようだ。
 仕事柄、外を走り回っているので、時間の経過と共に渋滞する道路状況はもとより、空の様子、明るさ、暗くなっていく変化の様子をじっくり体験することが出来る。
s-DSCF0210

 ←夜明け。9月上旬、都内某所にて。

 午後の4時とは言わないが、5時を回ると、対抗する車のヘッドライトが眩しくなってくる。ウインカーも、先週などは日中の明るさに押され気味だったのが、まさに光がウインクしている。点滅している。明滅する光が宵闇に際立つのを目に鮮やかに感じてしまう。

 秋の到来を、それとも夏の過ぎ去ってしまったことを実感するのは、小生などの場合、多くはこんな時なのである。
 外にあっては街灯やネオン、室内にあっては蛍光灯、あるいはビルやマンションの窓から漏れ出す白々しいような光り。あるいは、休憩している最中に都心のビル街で宵闇に浮かぶ高層ビルの窓明かりを見ると、ああ、みんな未だ働いているんだな、頼もしいな、励まされるな、などと殊勝なことを思ったりもする。
 非番の日、夕方など買い物に出かけ、住宅街を歩いていると、窓明かりは目に、心に眩しすぎる。終日、一人で過ごす日々。一言も言葉を誰とも交わさない日が続く。そんな身には、あの二階の明るい部屋には生活があるんだろうなと、訳もなく、意味もなく胸がつぶれるようでもあったり。

続きを読む "夜長…深き淵見る"

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2005/09/23

ちょっと更新…今朝は集会

無精庵風土記 - キムタクといえば」をアップしました。やや駄文に近いのですが、楽しみつつ書いた雑文です。このたび、ホームページの掲示板に情報を戴いたので、追記したものです。

 今朝は会社で集会があった。毎月ではないものの、前日午前からの仕事が今朝、7時前に終わって、休憩所で仮眠を取り、8時半過ぎから開始ということで、夜勤明けの小生にはとても堪えるもの。
 車載カメラで撮った事故の映像を幾つか見させてもらった。いずれも、自社の車での事故。こちら側に責任のある事故のみの映写なので、見ていて、ドキッとする映像。この数ヶ月の間の事故なので、生々しくもある。
 町中を走ると、事故現場を通り過ぎることが日に何度か。仕事柄、救急車やパトカーの赤色灯の点滅を見る機会も、大方の人よりは多いはず。
 壊れた車やオートバイ、自転車などを見ると、明日は我が身と思う。それも、自分が犠牲者になる可能性というのではなく、自分が加害者の立場になる恐れを思うのである。
 まして、事故の様子を車載カメラの映像で、我が社のドライバーの事故の形で見ると、生々しいどころではない。

続きを読む "ちょっと更新…今朝は集会"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/22

読書三昧?

音楽三昧?」(September 06, 2005)で、マルティン・シュタットフェルト(Martin Stadtfeld)というピアニストの演奏のこと、千住真理子さんのヴァイオリン演奏を聴いたこと、ガムランという言葉の意味合いについてなど、あれこれ書き散らした。
 また紙面が尽きて(タイムアップで)書くことは出来なかったが、同じ営業日にパブロ・カザルスのチェロ演奏を聴いたのだった。久しぶりということもあってか、それとも、その日は音楽の当たり日だったからなのか、その演奏に感激したのだった。
 演奏に…、それともチェロの音になのか。何か際立つものを感じた。
 後日、図書館でパブロ・カザルスのチェロ演奏のCDを探したけど、見つからなかった。何か後ろ髪の引かれる思いがあったので、音楽関連図書のコーナーをうろついていたら、パブロ・カザルス著『鳥の歌』 (ジュリアン・ロイド ウェッバー編集、池田 香代子訳、ちくま文庫)を偶然、見つけた。
 パブロ・カザルス著というより、「カタロニアが生んだ不世出のチェリスト、カザルス!彼自身の言葉と同時代の人々の証言から、音楽性はもとより、人格の高潔さによっても世界のファンを魅了した「魂の音楽家」の素顔がよみがえる―バッハ、若かりし頃、直感と解釈、母など全18項目にわたる興味尽きない言葉の数々」ということで、まあ、語録・証言集・エピソード集のような本だ。

 若かりし頃の天才ぶりの発揮などは勿論だが、むしろ彼の失敗談など人間味溢れる逸話が楽しい。一方、頑固なほどの音への拘り。誰よりも練習する人。が、練習が辛いと正直に語りもする。或る時、ある事故で左手を怪我する。周囲の人は、カザルスの演奏が聴けなくなる!などと心配したというが、本人は、「ああ、これで練習しなくて済む」と思ったとか。練習嫌いなのではなく、そこまで演奏に徹底する人だということだ。
 同じ日に聴いた千住真理子さんのヴァイオリン談議などでは、彼女のストラディヴァリへの偏愛ぶりを伺ったが、カザルスはストラディヴァリを決して使わないという。何故か…。その理由が面白いが、それは本書を当たって欲しい。
 気軽に楽しく読めすぎて、本書、車中で一気に読み終えてしまった。勿体無い。今度、本書を入手し、いつか彼の演奏を聴きつつ、自宅でゆっくり玩味したいものだ。

続きを読む "読書三昧?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/21

嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(1)

 「詩人の数々…峠三吉や森鴎外」の中で参照させてもらった嶋岡 晨著『日本文学の百年 現代詩の魅力』(東京新聞出版局)を読みつづけている。
 嬉しいことに大概は断片の形だが、詩人の紹介のみならず、多くの詩が引用されていること。
 ここでは、主に自分自身の覚書の意味も篭めて、幾つか、転記させてもらう。
 あるいはネット検索すれば、詩の全容や、詩人についての詳細を知るサイトにめぐり合えるかと思われるが、とりあえず、名前と上掲書に引用されている詩(の断片)をメモしておいて、追々、ネットで、あるいは本(雑誌、冊子)などで詳細を見ていきたい。
 とりあえず、詩の全文が読めるサイトがあれば、リンクさせておいた。先々のサイトには感謝のみである。先人の有難味をつくづくと感じるのもネット検索の醍醐味だ。
 表記は原則、上掲書に依るが、あくまでできる限り、である。例えば、のっけの島崎藤村「小諸なる古城のほとり」中、「緑なすはこべは萌えず」というくだりがあるが、本書では「はこべ」は漢字表記されているが、ネットでは違う漢字表記しか見つからなかった。
 また、ルビは()内に示すしかない!

続きを読む "嶋岡 晨著『現代詩の魅力』抜粋(1)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/20

草の花…子規忌

 秋9月の季語に表題に掲げた「草の花」がある。「千草の花」という類義語もあるようだ。
 山上憶良の歌、「萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花」(万葉集 巻八)で有名な、秋の七草があって、ハギ、キキョウ、クズ、ナデシコ、オバナ(ススキのこと)、オミナエシ、フジバカマなどである。
 ちなみに、山上憶良の歌に出てくる「朝顔」とは、キキョウ(桔梗)であると言われているようだ。

「草の花」というのは、こうした地味な草花の中にも列挙されないような秋の草花を一括して指すらしい。それとも、七草も含めてイメージしてもいいものなのか、小生には分からないでいる。

 ところで、「草の花」というと、秋9月の季語と決まっているというのも、どことなく釈然としない。辞書などによると、「昔から木の花は春で、草花(くさばな)は秋とされている」というし、決まりごとだから仕方ないのだろうが。 

 この辺で待つ約束や草の花   今井つる女
 もう用のなき車椅子草の花   稲畑汀子

 などの句がある。

続きを読む "草の花…子規忌"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/09/19

詩人の数々…峠三吉や森鴎外

 川路柳虹に惹かれた…。だからといって、別に詩や文学の世界での彼の位置付けなどを勉強しようと思い立ったわけではない。
 が、昨日、図書館へ立ち寄って、当てもなく次に読む本を物色していたら、詩や俳句などのコーナーで、嶋岡 晨著『日本文学の百年 現代詩の魅力』(東京新聞出版局)なる本に目が止まった。
 詩はたまに読んでも詩についての本は読まない。まして、この魅力のないタイトル。詩人らしくない、飾り気はともかく、ひねりも特色(つまり、本のタイトルで通り過ぎる浮気な読者の目を、心を惹く訴え)もない題名。手に取るはずもなかった。
 でも、著者が嶋岡 晨(しまおか しん)氏とあれば、手に取って捲ってみるだけの値打ちはあるかも…。
 そんな安直な気持ちで手にした本だったが、借り出して正解だった。

 何がって、何も川路柳虹(かわじりゅうこう)に関する記述が数箇所もある、その中には、既に紹介した詩(「塵溜」のちに「塵塚」と改題)も載っている、ただそれだけの理由だけではない。

続きを読む "詩人の数々…峠三吉や森鴎外"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/18

田舎で読んでいた本など

 事情があって7月8月9月と、連続してそれぞれ一週間ほど帰省していた。まあ、その事情などは季語随筆や作った句などで察してもらうとして、ここでは夜中や往復の電車の中で読んでいた本のことなど、少々。
 日中はともかく、父母の就寝の時間が早いので夜は、それなりの時間ができる。
s-DSCF0213
 となると、やることの特にない小生、読書となる。

 ←上京する日、富山駅のホームにて撮影。

(但し、今まではネットに繋がる手段がなかったが、今回、ようやくにしてそのルートを確保。自分のサイトの更新は基本的に出来なかったが、それでも携帯電話での投稿の形で細々とやっていた。それ以上に嬉しかったのは、田舎でも日々、勝手に追いかけているサイトの更新ぶりや掲示板を覗くことができたこと。このことは、また別の機会に触れるだろう。)

 さて、一週間も田舎で過ごすとなると、持っていく本が問題になる。8月の時のことは、「田舎で読んだ本」の中で大凡のことは書いている。バッグに忍ばせた本は、高橋治著の『風の盆恋歌』(新潮社刊)や竹田篤司著の『フランス的人間  モンテーニュ・デカルト・パスカル』(論創社刊)など。

 今回は図書館で物色していて、散々迷った挙げ句、ふと、勝海舟の本にしようかなと思い立った。多分、坪内 祐三著の『慶応三年生れ七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・子規・紅葉・緑雨とその時代」』(マガジンハウス刊)を読んだりして、明治、それも明治の前半の世相に思いをめぐらしていたこともあったのだろう。
 それと、なんとなく、親の一喝を欲していた心理が働いていたような気がする。帰省するのは親の世話という名目もあったし。

続きを読む "田舎で読んでいた本など"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

川路柳虹再び

 川路柳虹著の『詩学』(耕進社刊)をパラパラと捲っている。熟読に値すると思いつつ、旅の疲れもあり、拾い読みしている。小生のあまりに生半可な知識では批評どころか感想文も書けそうにない。
 ただ、小生の感覚のドツボに嵌ってしまったのである。
 本名・川路 誠(1888-1959・明治21年-昭和34年)の彼は清新な詩境を示してくれていて、つい先ごろ発見したばかりの小生には嬉しい存在となっている。

 既に彼については、「川路柳虹のことを少々」の中で若干、触れている。
 その時にも「かへる靈」や「蒼蠅の歌」と共に紹介させてもらったが、ここに再度、「文学者掃苔録」(このサイトには随分、お世話になっている。ちなみに、「掃苔(そうたい)」は「墓参」や「墓洗ふ」などの類縁語を持つ秋の季語である)の「川路柳虹」の頁から彼の詩の一節を、掲げておこう(「塵溜」より):

塵溜の中には動く稲の蟲、浮蛾の卵、 また土を食む蚯蚓らが頭を擡げ、 徳利壜の虧片や紙の切れはしが腐れ蒸されて 小さい蚊は喚きながらに飛んでゆく。

 一読して、読み手の好悪がはっきり分かれるものと思われる(改行の具合は、表記の都合で狂ってます)。

続きを読む "川路柳虹再び"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

さらにお知らせ

 無精庵方丈記でまたアップ!
 今度は駄句の嵐だぞ!
 詠まなきゃ、損だぞ。
…でも、詠めば、もっと損かも。


 詠まれたい詠まれたくない…じゃ見せない!

 じゃ、見ないって?! そんなー。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/17

お知らせ

 無精庵方丈記にて掌編をアップしました。
 タイトルは、「相合傘
 でも、艶っぽくはありません。
 例によって、「ボク」ものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/16

ちょっと更新

無精庵明月記にて更新しました!
いずれも季語随筆(の下書き)です:

秋扇
秋の蝶
雨月


| | コメント (0) | トラックバック (0)

誤変換とダジャレと

昨日、テレビで誤変換の話が話題に。例の一つが「規制中で渋滞」と「寄生虫で重体」。このような事例は携帯やパソコンを使うと頻繁に経験する。誤変換とダジャレとの異同は如何。それは誤変換が機械任せなのに対し、ダジャレが多少は意図的な点。さらに誤変換が杓子定規(入力したカナ通り)だが、ダジャレは音韻でも語感的にも融通無碍なこと。話の脈絡に絡むことがダジャレの場合望ましい。「安部さー、元気」と「雨さ、天気」とを話の流れの中でうまく案配させる能力がダジャレ人には必要なのだ!少し大袈裟だけどね。大らかさも大切だし

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/09/14

帰省中

画像は投句の部屋を見てね。  花は造花だけど花立ては手作り。不自由な手で、みんなに手伝ってもらいながら作ったとか。竹のように見えて実はチラシ。クルクル丸めたんだとか。   手作りのもどかしさも活けし花    手の皺も織り込まれての花立てか    料理すると経験のなさが露呈する。それでも少しはメニューを工夫。食卓を賑やかにする。今日の富山は雨混じりの曇天。風もやや強い。過ごしやすいのが助かる。    定番にひと品添えて愛込めて    傘差して自転車乗るまた楽し

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/13

帰省中

事情があり帰省中。今回は電車を利用。楽だ。居眠りできるし、本も読めるし、景色だってゆっくり眺めていられる。我が輩向きだ。    山々の緑の海の目に眩し    秋めくも夏の名残も居座れり    

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/09/12

花野にて…言葉という頚木

季題【季語】紹介 【9月の季題(季語)一例】」を眺めている。漫然と。どの季語・季題にも俳句に関わってきた人の重みや思い入れがあるのだろう。
 ただ、そのことが本来は詠むだけではなく自作を試みるのも誰にも手出しが容易なはずが、下手に口出しや感想めいたことを書くのをためらわせてもいる。個々の季語に歴史的な背景があり、有名な句があって、知らないでは公の場では恥を掻く。
 もっと気軽に俳句の世界に馴染み親しんでいっていいじゃないか。知識などなくたっていいじゃないか。口を突いて出てきた5・7・5の短詩をその表現のままに楽しんでいいじゃないか。その言葉が俳句に造詣の深い人なら、季語だよ、しかも、季節外れな使い方になってしまっているよ、あるいは複数の季語が重なって使われていて、詠むだに不自然極まりないよ…。
 その意味で、「ひとりごとの夕べ.句日記」なるサイトの句の数々は、小生、好きである。俳句の専門家はどう思われ評価されるのか分からないけれど、「日常的風景から」「五・七・五のリズムでホロ。。と出てきた言葉」だという句の数々は、詠んで実に楽しい。

 伝統があることが俳句の世界に飛び込むのをためらわせる。窮屈にさせてしまう。誰もが知っているべきことを自分は知らないのじゃないか。こうした表現の仕方は、間違っているんじゃないか…。
 小生など、季語随筆と銘打って、こうして季語や俳句の周辺を勉強しているけれど、遅々たる歩みなのは最初から覚悟の上だけれど、もっと自由に奔放に表現したいという衝動に常に駆られてしまう。
 変に知識ばかりが増えると、規律と規格と因習に雁字搦めになってしまって、そこそこに素養を貯えた頃には、もう自作を試みるなんて気力が萎えてしまっているかもしれない。
 で、間違っても、他人様の目に触れる形では、句作を試みようなどとは思わなくなってしまうかもしれない。
 その点、造詣があって、且つ、新鮮で独自な句作活動を展開できる方というのは、素朴に凄いと感じる。
 まあ、自分がどのような境に至るかは、全く不明だ。適度に真面目に、適度に気楽に、俳句の道を、それこそ道草しつつ、時に迷子になりつつ、歩くこと自体を楽しみつつ歩いていければいいのだと思っている。
 また、俳句や川柳について自作を試みようと思い始めて一年余りに過ぎないのだ。先は長い。無精庵を自称する小生らしく、のんびり行こう。

続きを読む "花野にて…言葉という頚木"

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2005/09/11

蚯蚓(ミミズ)鳴く…はずないけど

季題【季語】紹介 【9月の季題(季語)一例】」を覗くと、「くつわむし、蚯蚓鳴く、螻蛄鳴く、地虫鳴く、蓑虫、芋虫」といった季語が並んでいることに気付く。啓蟄でもないのに、どうして9月の今頃、虫に関連する季語が多いのか。
「蚯蚓鳴く(みみずなく)」は、不思議な季語だ。ミミズが鳴かないのは誰だって知っている。あるいは高周波とかで人間の耳には聞えない音が鳴らされているのかもしれないが、聞えないことに変わりはない。
インターネット俳句大賞・八木健選・9月の結果」を覗くと、「地に這ひて蚯蚓の声に耳澄ます    峯松實」なる句に寄せて、「「蚯蚓」は夏の季語 「蚯蚓鳴く」は秋の季語である。この句は、秋になりかけている頃だろう。季節の境界は厳密なものではない境目だってあるのだ。そろそろ秋だ。蚯蚓が鳴きはじめる。ということだろうが現実には蚯蚓は鳴かぬ。想像の世界である。それを承知の上の洒落た作品である」といった鑑賞が載っている。
 蚯蚓は鳴かないと分かっている…想像の世界と分かってもいる…「でも、それを承知の上の洒落た作品」を生み為す。それが俳句の醍醐味の一つなのか。

 上掲の虫に関する季語例で、「蚯蚓鳴く」に続き、「螻蛄鳴く」が掲げられている。どうやら、この季語に秘密があるような。
「螻蛄鳴く」は「(けら)なく」と読む。こちらは正真正銘、鳴く。最近は耳にしているのかどうか分からないが(耳にしていても、それが「ケラ」だとは気付いていないかもしれない)、結構、大きな鳴き声。
 昔は、この螻蛄(けら)の鳴き声を蚯蚓(みみず)の鳴き声だと思われていたらしい。
 が、一旦、「蚯蚓鳴く」が季語として自立すると、そこに想像力が作用し、上掲の「地に這ひて蚯蚓の声に耳澄ます」のような遊び心タップリの句が生まれてくるわけだ。
 子規は写生を唱えた。それも一つの方図なのだろうけど、想像の余地、遊び心がなくて、何の俳句かとも小生は思う。芭蕉だって、「荒海や佐渡に横たう天の川」などのように、かなり大胆に想像の翼を羽ばたかせていたじゃないか…。
 それでも、個々の事象や日々の生活から離れてなど、俳句が成立しないのも事実。最後の最後に句が句として認められ感じられ、何かの折につい口を突いて出てくるような人口に膾炙する作品となるかどうかの決め手は、事実の観察であれ想像の翼があってこそ届きえる月の裏側の世界であれ、表現する句に何かしらの(生活実感か、好奇心の賜物か、己を圧倒する自然の驚異の念か、人間の業に左右されてしまう己の愚かしさの自覚と、それでも我が身・我が心を睥睨し、あるいは哄笑する余裕の感じ)リアルなものが示されているかに掛かっているような気がする。
 尚、「蚯蚓出(きゅういんいず)」だと、「蚯蚓(みみず)が地上に這い出しはじめる季節」ということで、夏の季語(初夏)のようだ。

 さて、以下、先月、メルマガにて配信した記事を掲げる。題材は、「ミミズ」に関することもあって、ちょうどいい機会かな、と。

続きを読む "蚯蚓(ミミズ)鳴く…はずないけど"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/10

昨日は救急の日

 昨日9月9日は、キュウキュウということで救急の日だった。分かりやすいといえば分かりやすい。
 ちなみに、9月9日を記念の日にしているイベントは多い。
今日は何の日~毎日が記念日~」の「9月9日」の頁を覗いてみる。
「奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なることから「重陽」と呼ばれる」ことから、「菊の節句,重陽の節句」だという。
「大分県九重町が制定」したという「温泉の日」があったりする。「町内に数多くの温泉が点在し、「九重九湯」と言われることから」だって。
 ほかに、「世界占いの日」、「チョロQの日」、「吹き戻しの日」、「福祉デー」などがある。
 中には、「男色の日」なども。「重陽・菊の節句であることから」というが、今一つ、理解できない。何かイベントが行われているのだろうか。
 ま、重陽と、菊から連想するしかないのだろう。

 勝手ながら、9月9日は、クク(九九)とも読めるのだから、暗算の日とか珠算の日にしたらどうかと思うが、調べてみたら、「珠算の日」は8月8日だった。パチパチの日だからだって。じゃ、やはり、暗算の日がいいかな。
 ほかに候補としては、クークーの日、ということで、ハトの日にするとか。ハトの日に設定して何を記念するか、それが問題だが、まあ、ハトは昔から平和の象徴ということになっているから、平和の日にするとか。あるいはハトの糞で汚れた公園などを清掃する日にするとか。
(余談だが、9月1日を「クノイチ」の日にして女忍者の日にしたらと、昔、考えたことがあったが、「関東大震災記念日」や「防災の日」の手前もあって、口に出せるはずもない。でも、その日は、「くいの日」とか、「キウイの日」でもあったりするんだけど。)

続きを読む "昨日は救急の日"

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2005/09/09

夕月夜…秋の月をめぐって

 9月ともなると、季語に月にちなむものが増えてくる。たとえば、「月、名月、月見、無月、雨月」であり、ここにさらに「二日月、三日月(新月)、 夕月夜」が加わる。
 湿度が8月までに比して低くなるから、空気の透明度が高まり、勢い、月影が清かになるということか。同時に秋の夜長も関係するのだろう。夕方かな、と思わせる時間も日々、早まる。或いは、明け方の時間も徐々に遅くなっていく。
 仕事柄、ほぼ終日、外にいる。午前中の11時前から仕事が始まって、昼を迎え、午後となり(この午後が夏はやたらと長い!)、6時を回って7時頃にようやく宵闇が迫り、一晩中、外を這いずり回り、4時過ぎか5時前に明け方を迎える。
 仕事が終わるのは、7時前後。すぐに帰宅して、グズグズしながら就寝の時を待ち(帰宅してもすぐには眠る気になれない。神経が昂ぶっている感じがあって、その鎮まりに一時間以上掛かってしまう)、9時前頃だろうか、ようやく寝入る体勢に入る。
 昼間から夜中にかけては仕事も忙しく、交差点での信号待ちの際に、風景を愛で、ふとした光景を興じるくらいだが、丑三つ時を過ぎる頃には、運良くお客さんに乗ってもらうことがないと、あとは、何処かで来る当てのないお客さんを待ちながら、あるいは真夜中過ぎの都心を車で徘徊しながら、しらじらと明けてくるまで、夜の空の変化に感応しつつ一晩、過ごすことになる。
 昨日の朝も、明け方、何処かの町へお客さんを送り届け、さて、次は何処へ車を向けようかと考えつつ迷いつつ何処かの交差点に差し掛かった。すると、そこは急な上り坂の途中だったこともあり、視線が否応なく、空に向かった。
 目線の先には、薄く切り過ぎたメロンのような月。そして星。茜というか、ピンク色というのか、まだ完全には明け染めていない空の美しさにびっくりしてしまった。秋!を感じた瞬間だった。夏の間にだって朝焼けくらいは見たはずだけど、どこかしら空気の分厚さを感じてしまって、車中には常時携帯しているデジカメで、この風景を撮っておこうという空に出会わなかった。
 それが、ああ、この瞬間だよ。この瞬間を昨年の秋口から冬の終わりまで、仕事をしつつも、追い駆け回っていたんだよな、と思い起こされてしまった。
 空の不思議な高さと透明感と、何処に由来するのか小生には判然としない懐かしさの感覚。
 慌ててデジカメを取り出し、信号が赤の間に朝に映える空の光景を撮ってしまおうと試みたのだった。

 表題の「夕月夜」というのは、「夕方だけ月のある夜」の意で、秋の季語。けれど、「花と言えば桜花を指すように、月といえば秋の夜の月をいう」わけで、「月」というと、もう、秋の夜の月の意になってしまうのである。
 小生が見た月影というのは、「有明月」ということになるのか。
 それとも、「爽やかな空、光、昨日とは全く違った秋意を感じる朝をいう」という「今朝の秋」という季語こそが相応しいのか。

 さて、以下、昨年の10月初め頃に書いた、「秋の月をめぐって」という雑文を掲げておく。月影の美しい秋の到来を無邪気に喜んでいる小生がいて、我ながら微笑ましい?!

続きを読む "夕月夜…秋の月をめぐって"

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/09/08

本日は番外編です

 過日、車中で、「石になる」という言葉、それともイメージが浮かんできて、その意味合いが自分でもつかめず、仕方なく、とりあえず、ナンセンスなボクものの掌編を書き下ろしておいた → 「シャボン玉の夢

 ということで、本日は、思いっきり、番外編です。
 
 尚、小生には俳句と川柳のブログサイトがありますが(「投句の細道」)、今後、俳句や川柳関連の作品のアップも、「創作の館」である「無精庵方丈記」に統合一本化します。
 よって、小生のサイトは、以下の通りに:

無精庵徒然草」……季語随筆の館(注)
無精庵方丈記」……創作(俳句・川柳)の館
無精庵万葉記」……書評エッセイの館
無精庵越中節」……富山とオートバイとタクシーとサンバと音楽エッセイの館
無精庵風土記」……駄文・駄洒落・語源探索の殿堂!を目指すサイト?!
無精庵明月記」……コラム・エッセイの館

 ほかに、本館があります。
 以後、御贔屓のほどを願います。

(注):別途、「無精庵徒然草」がある。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/09/07

海辺と水中と

 米国南部をハリケーン「カトリーナ」が襲おうかという頃、小生は二冊の本を並行して読んでいた。一冊は、レイチェル・カーソン著の『海辺―生命のふるさと』(上遠 恵子訳、平凡社ライブラリー)であり、もう一冊は井上 たかひこ著の『水中考古学への招待―海底からのメッセージ』(成山堂書店)である。
 前者も後者も、あまり新しい本とは言えない。

 カーソンの『海辺』は、出版社のレビューによると、「毎日、干満のリズムを繰り返す海。その永遠のリズムの中に生きる生物たちに、"生命の棲み処―地球"の姿をみた著者。カーソンの原点ともいうべき本書は、海辺のさまざまな環境と生物たちの生態をあますところなく紹介し、伝えてくれる」というもので、カーソンの海辺に生きるさまざまな生物たちへの愛情がしみじみと感じられる。
 カーソンについてはあれこれ綴ってきたので、今は繰り返さないが、ガンという病に冒されつつも、使命感で環境破壊への悲憤でもってパセティックにこれでもかと書いている、一部の企業再度には耳に煩い内容の『沈黙の春』とは打って変わって、作家志望だった彼女が、本当ならこんな本をこそ書きたかったのだろう、彼女の思いが伝わってくるような本である。
 彼女には物語を綴る才能はなかったのかもしれないが(あるいは、あったのかもしれない)、丹念な資料収集と実地の調査とで、事実をややポエティックに叙述する能力・志向は抜群のものがあったと感じる。

続きを読む "海辺と水中と"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/06

音楽三昧?

 タクシーの営業をやっている…となると、一日、車中にいる。小生のように本を読んだり何かを書き綴ったりするのが好きな人間には退屈かというと、さにあらず、とてもとても退屈などしていられない。
 まずは車の運転ということで、交通事故に遭わないため、神経を擦り減らしているということもあるが、そもそもお客さんあっての仕事、接客業という性格があるので、対人関係という意味でも、神経を使う。
 その前に、不況ということもあって、お客さんを探すという苦労もある。この辺りにいるかな、あの交差点を右へ曲がるか直進か、それとも左折か、あのガードレールの切れ目に立って車の様子を伺っている人はタクシーを探しているのか、それとも友人・知人が迎えに来るのを待っているのか、それとも、道路を横断するために車の流れを見ているだけなのか、などを見極める。
 さらには、最近は潜在的な需要(お客さんの数)に比べタクシーの台数が増えたこともあり、お客さんはタクシー(の会社や個人かどうか)を選ぶようになってきている。
 長年の勘で空車のタクシーの来るのを待っているようだと直感したとしても、個人タクシーを狙っているのか、法人か、法人でも特定の会社か、とにかく空車だったら何でもいいのかを嗅ぎ分けようなどとしてしまう。
 それでも、お客さんの可能性がある限りは、乗ってもらおうとなんとか近付いて行って、普通ならしない割り込みなどもして、路肩へ車を寄せていく。
 ああ、でも、知らん顔だ。違った。お客さんじゃない。少なくとも小生の車のお客さんじゃない。と、思ったら後続のタクシーに乗った…、ああ、個人タクシーだ。あーあ、法人じゃダメなのね。

続きを読む "音楽三昧?"

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2005/09/05

二百十日

季題【季語】紹介」を見ると、「葉月、仲秋、八朔、二百十日、颱風、野分…」と並んでいるのに、小生は、「葉月」の次は「野分」に走ってしまった。
「野分」というと、漱石。ということで、漱石に言及するはずだったのに、一番の眼目には触れずじまい。
 まあ、たださえ長くなったので、割愛せざるをえなかったのだけれど。
 ということで、本日は、表題にある如く、「二百十日」。「野分」とも関連するし、重なる要素も多そうなので、簡単に。
 昨日も参照させてもらった、「こよみのページ」の「二百十日(No.0770)」によると、台風の到来を恐れた昔、「こうして「嵐の来る日」として暦に載るようになったのが「二百十日」です。二百十日とは立春の日から数えて210日目の日だということから名付けられたもの」だとか。さらに、「同じような名前の暦日としては「八十八夜」や「二百二十日」があります」とのこと。
「二百十日は立春の日からの日数ですので、現在の暦であれば9/1(立春が2/4の場合)頃で変化しません。ただ旧暦の時代は毎年月日が変化してしまうため暦注として記載して注意をしていたもの」だという。
「二百十日」の関連で、「野分(のわき・のわけ)」や「風の盆」が扱われている。
 ここには、「越中八尾の風の盆、あるいは「おわら風の盆」として知られる風祭。風神を踊りにあわせて送り出してしまう祭りといわれ、300年以上の歴史があるそうです」と簡単な説明に留められているが、小生は、「おわら風の盆をめぐって」や「「おわら風の盆」余聞」などで若干のことは書いたので、ここでは敢えて触れない。

続きを読む "二百十日"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/09/04

野分…野分立つ

季題【季語】 【9月の季題(季語)一例】」を覗くと、その例は少ないが、採り上げてみたくなる語が目白押しである。
 今日は表題の「野分」をあれこれ調べてみたい。
さきわいみゅーじあむ」の「今月の季語 <9月1日~30日(陰暦8月4日~9月3日)>」で、簡潔だが要を得た説明を読むことが出来た。
「◆野分(のわき)」の項に、「野の草を吹き分ける、の意味。秋の初めに吹く激しい風、台風のこと。また、秋の末から冬にかけて吹く風、木枯らしのことも野分といいます。源氏物語には「野分」という段がありますが、当時の人々は台風が過ぎ去った後の、野の草や垣根等が倒れて荒れはてた様子を「あわれ(風情がある)」と感じていたようです」とある。
「野分」が台風のことを指すのなら、「秋の初めに吹く激しい風」であり、且つ、「秋の末から冬にかけて吹く風、木枯らしのことも野分」をも意味するのは分かるような気がする。
こよみのページ」の「二百十日(No.0770)」を覗くと、「「野分」は野の草を分けて吹きすさぶ風ということから名付けられたもの。台風を含む秋の頃の強風の一般的な呼び名」とあるが、引き続いて、「ただ現在は雨を伴わない強風に限って呼ぶことが増えているようです」と説明されている。
「吹き飛ばす石は浅間の野分かな   芭蕉」や「我が声の吹き戻さるる野分かな   内藤鳴雪」などが掲げられているのがありがたい。

続きを読む "野分…野分立つ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/03

葉月…長月

【9月の季題(季語)一例】を眺めると、その季語例のトップに「九月」が現れる。これはともかくとして、次は、「葉月」である。
 いくら教養も何もない小生でも、「葉月」とは8月、9月なら「長月」という理解くらいはある。
 が、ここは陰暦と陽暦に関わることであり、「葉月(はづき)」は、「陰暦の8月で、陽暦では9月上旬から10月上旬」なのである。
 ということは、長月というと陰暦の9月であり、陽暦では10月上旬から11月上旬ということになる。
 尚、「葉月」については、「別名⇒月見月(つきみづき:中秋の名月の月見をする月)、萩月(はぎづき)」なのだとか(「YS2001のホームページ」の「」の頁より)。

 よって今は現代においては9月上旬なので葉月ということになるが、ついでなので今では新暦の9月を指すこともあることだし、長月のことに触れておきたい。
「9月 - Wikipedia」によると、「日本では、旧暦9月を長月(ながづき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用いる。長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力である。他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説がある。また、「寝覚月(ねざめつき)」の別名もある」とか。

続きを読む "葉月…長月"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/02

トンボにあくがれて

 俳句の世界では季重ねに留意が必要だという。季重ねとは一つの句の中に季語が二つ(以上)詠み込まれていることで、避けるべきこととされている。よほど、自信がないと敢えてタブーに挑戦するのは無謀のようだ。
 この季語随筆も一周年を迎えてしまったことは既に書いた。となると、昨年の今頃、何をテーマに書き綴ったかに留意すべきなのかもしれない。季重ねならぬ、テーマ重ね。
 そうはいっても、一つのテーマについても掘り下げる余地は相当程度にありえるわけで、要はテーマ重ねよりも内容重複のないように注意すべきなのかもしれない。
 たとえば、9月の季語例表を見ていて、ふと、「蜻蛉」に目が止まった。トンボの周辺について何か書いてみようか…。
 でも、そういえば、昨年かどうか分からないけど、トンボについては何事か書き散らしたことがあったはず…と調べてみたら、案の定で、一度ならず二度までも書いている → 「トンボのこと」(March 21, 2005)
 日付に注意願いたい。今年の3月! 季節外れもいいところじゃないか!

続きを読む "トンボにあくがれて"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/09/01

すすきの穂にホッ

 先月、或る日の季語随筆で「猫じゃらし…エノコロ」という表題の下、「エノコロ」をテーマにあれこれ綴ってみた。
 そのコメント欄でも書いたのだが、「エノコロとなると、連想は、「ススキの穂」へと向かいます」。
 今月の季語例の中に、まさに表題にある如く、「すすき」がある。ということで、今日は「すすき」に触れてみる。
花の句と写真」によると、「芒(すすき)は薄とも書き、花芒・尾花・鬼芒・糸芒とも呼ばれています」とあって、「すすき」の画像も見ることが出来る。
「エノコロ」は、何処か愛らしさが感じられたが、「すすき」となると、何か侘しさ、寂しさの感が漂ってくる。それは、まさか、「貧しさに負けた いえ 世間に負けた この街も追われた いっそきれいに死のうか 力の限り 生きたから 未練などないわ 花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき」と歌われる「昭和枯れすすき」(山田孝雄作詞・むつひろし作曲)といった、一昔前に流行った歌のせいばかりではないだろう。
 人によっては、ススキというと、森繁久弥の唄った「船頭小唄」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)などをつい口ずさんでしまう人もいるに違いない。独特の森繁節で「己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき) 同じお前も かれ芒 どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れ芒」と唄われると、もう、その世界から抜け出せない。(念のために断っておくが、「枯れススキ」は冬の季語である。)
 というより、抜け出す気が起こらなくなる。この世界にドップリ漬かっていて、何が悪いと開き直りたくなってしまう。
 まあ、今はそういうわけにもいかないので、そうした被虐的な世界の淵にはあまり長く佇まないで、先に進むことにする。

続きを読む "すすきの穂にホッ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »