蜩…夢と現実をつないで鳴く
昨日、浅草サンバカーニバルがあり、応援しているチームのスタッフということで、ちょっとだけお手伝いさせてもらった。スタッフをやって楽しいし嬉しいのは、メンバーらと一緒にコースを歩けること。
カーニバルでのパレードに付き物といっていいアレゴリア(山車)を押すというのが小生の仕事。
そうしたアレゴリアが浅草寺の境内(裏側)に集結している。ということで、浅草寺の境内の中をブラブラしてきた。昨年は、軽い食事を摂るため、植え込みを囲う柵の石縁に腰掛けた…、すると、ふと振り返った境内の中にある久保田万太郎の句碑を発見したものだった。
今年はその近くで人垣が。覗いてみると、お猿さんの芸を若い女性の調教師の方の采配で見せていた。年毎に風景が多少、変わる。これもまた楽しい。
さて、境内を歩いていると、鬱蒼と生い茂った木々の緑が目に嬉しい。台風一過の炎天が金曜日から続いていて、小生は日陰を探し求めながらの散歩。歩いていると、蝉の鳴き声が喧(かまびす)しい。
そんな事情があったからだろうか、8月の季語例表を眺めていたら、表題にある「蜩(ひぐらし)」が目を惹いた。
「俳句歳時記」の中の、「季語集・秋」によると、「日暮 かなかな 夕蜩 暁蜩」などの類義語・縁語があり、「暁にも鳴くが夕暮れにカナカナと鳴く、一種哀調の声は秋の到来」だとか。
小生が折々覗く「閑話抄」の中の、<蜩(ひぐらし)>が「蜩」についても、簡潔で且つ丁寧な説明を披露してくれる。
冒頭に、「昼の蝉と違って、夕方に鳴く「蜩」はまた違った味わいがありますね」とあるように、小生が耳にした蝉は、種類は何にしろ、「蜩」ではないのだろう(多分だが)。
さらに、「蜩は秋の季語に入ります。古の人は蜩が好きだったようで、和歌などには真夏の蝉よりもむしろ蜩を題にとった歌が多く見られます。しかし、直接蝉を見て作った 歌は少なく、どちらかというと「はかなさ」や「薄さ」の例えで用いられたものが多いようです」とか。
「蜩」に関連する和歌については折を見て別記するとして、「現代俳句データベース」の「季語が「蜩」の俳句」を覗くと、24個もの蜩の織り込まれた句が一覧できる。
ざっと見た限りは、「はかなさ」や「薄さ」の喩えとして使われていると同時に、実景をも意識しているように感じられるが、さて。
「ヒグラシ - Wikipedia」によると、「セミ科に属する昆虫の一種。朝夕に甲高い声で鳴く中型のセミである。その鳴き声から一般にはカナカナ、あるいはカナカナ蝉などと呼ばれることがある。秋の季語」とある。
また、「オスの鳴き声は「カナカナカナ…」や「ケケケケケ…」などと聞こえる。日の出前、または日の入り後の薄明時によく鳴くが、曇って薄暗くなった時や暗い森林内では日中でも鳴くことがある。夕方の日暮れ時に鳴くことから、「日を暮れさせるもの」としてヒグラシの和名がついた」といった説明は勘所として押さえておく必要があるような。
さらに続く説明がいい。「朝夕に響く声は涼感や物悲しさを感じさせ、日本では古来より美しい声で鳴くセミとして文学などの題材にも使われてきた。テレビ番組などでも「夏の夕暮れ」を表す効果音としてこの鳴き声がよく用いられる。しかし間近で聞く声はかなり大きく、遠くで聴く声の「物悲しい」印象とは異なるともいう」のだ。
(「日本国語大辞典第二版オフィシャルサイト:日国.NET 季節のことば 蝉」の頁を覗くと蜩にとどまらず、季語(季題)に絡んで、蝉一般についての知見を得ることが出来る。さすがにいい文章が綴られている。)
田舎も森や林は減りつつあるが、都会などは尚更である。けれど、やや郊外に近いとはいえ大田区の住宅街の一角などを歩いていると、不意に蝉の鳴き声が耳を聾するように聞こえて来る。日中に気づくことが多いので、「間近で聞く声はかなり大きく、遠くで聴く声の「物悲しい」印象とは異なるともいう」その蜩とは趣が違うのかもしれないが、しかし、間近で聞く喧しい鳴き声は、むしろ間近だからこそ、物悲しいのではないかと思わせられる。
「遠くで聴く声の「物悲しい」印象」に蜩の鳴き声の真骨頂があるのではなく、間近で頭上で鳴き喚く、その激しさがそのままに物悲しいのである。
生きること、その真っ只中にあって、人の情や執念や未練や嫉妬や、そんな情念の渦巻く世界。人里を離れ山の奥へ分け入ったのだから、そんなドロドロした怨念めいた情念など無縁であってほしい、侘しく閑寂な佇まいをこそ追い求めてきたのに、今、耳にするのは生き物の命の儚さを思い知らせるような、あるいは、だからこそ、懸命に刹那の時に恋心を誰憚ることなく訴えかけている虫の、つまりは己の心の正直な、人目には隠してきたし、自分でもともすれば忘れがちだった心の奥襞に織り込まれた情念の噴出だったりする。
「遠くで聴く声の「物悲しい」印象」というのは、蝉(蜩)から遠いということではなく、人里から、人の世から遠くで聴いて、なのに逆に一層、思いが募る…、だかこそ物悲しいという印象を抱かされてしまうということではないのだろうか。
蝉の鳴き叫ぶ木々が随所にある浅草寺の境内の脇ではパレードが始まっている。サンバという命を燃やすような、命の賛歌ともいうべき祭り。
蜩なのか、あるいは他の種類の蝉なのか、無粋な小生には分からない。でも、頭上の蝉と本堂の向うのパレードでの演奏などが、妙にシンクロして、祭りの近くにいる、ほんのしばらく後にはパレードの真っ只中にあるはずなのに、その全てが現実であり夢であるかのような、不思議な、悲しい感覚に囚われていたのだった。
この季語随筆も、今日で一周年。これからも孤独な長い道が続いているような気がする。何もなくてもいい。時にセミなど、鳴いてくれたら。
かなかなとものかなしげに鳴くのかな
かなかなと誰はばからず鳴くがいい
かなかなと命の限りを尽くしてる
ヒグラシの鳴くに紛らせ我も泣く
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コメント
こんにちは。良い汗を流された様子ですね。今回は、パレード中からの写真は御座いませんか?何れにせよ、沿道からの視線は如何だったのでしょう?
視線の定まらない白昼夢のわりには、「誰はばからず鳴くがいい」と言い捨てて切れが良いですね。
私の所の常連さんの「こころ模様」で、偶々キプロスの油蝉を語っていらっしゃいます。
久保田万太郎の句碑とサンバ、合わないようで、合うかも?
失礼しました。
投稿: pfaelzerwein | 2005/08/29 04:29
pfaelzerweinさん、コメント、ありがとう。
浅草では小生は今回、スタッフだったので、パレード中からの写真はありません。若干だけ、この記事の冒頭付近でリンクさせておきましたが。
> 私の所の常連さんの「こころ模様」で、偶々キプロスの油蝉を語っていらっしゃいます
ありがとうございます。
「キプロス大学の空」でしょうか。蝉の鳴き声は聞えないけど、空の青さが凄そう。
浅草寺境内にあった万太郎の句碑の句は:
竹馬やいろはにほへとちりぢりに 久保田万太郎
小生は境内の隅っこに腰掛け、たこ焼きを食べようとして、上掲の句碑を発見したのでした!
投稿: やいっち | 2005/08/29 12:29
蜩が秋というのは気に入りません.季語は文化だと言ってしまえばそれまでですが,小生の住む那須の標高600mでは6月末から鳴き始めるのですから,あまりにも主観的に過ぎます.
俳句の世界しか通じない季語などを小生は「俳句部落語」と皮肉っていますが,これも「部落語」ですね.
投稿: 鐵 | 2007/07/22 17:19
鐵さん、来訪、コメント、ありがとう。
季語はいろいろ問題があると思っています。どうしても、関西か関東(の平野部)を中心に決まってきている。
梅雨だって、北海道には無縁だし。
それに地球温暖化なのかどうか、江戸時代や明治・大正、あるいは昭和の半ば頃までの気象条件とは、東京など本土に限っても変化してきている。海そして渚や浜の風景も変われば、棲む魚などの生物も違う。
丘に限っても、昆虫類や動物の生態は変わってきつつある。
俳句が主観的だとするなら、まずは徹底して実感を大切にすべきなのでしょう。
芭蕉が凄かったのも、和歌の伝統は踏まえつつも、当時の庶民の実感や生活感情に根差した部分があったことが大きかったと思う。
季語の文化や伝統は大切にしつつも、とにかく過去に縛られることなく、自らの主観と実感でどこまでやれるものなのか、案外といろんな人が悩んでいることも多いのでは。
投稿: やいっち | 2007/07/23 18:21