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2005/08/21

自然という書物

 季語随筆「田舎で読んだ本」(August 18, 2005)の末尾で、「この二冊を読み終えた後、三冊目に手をかけたが、思いの外の好著にめぐり合えた。その本のことは、後日、採り上げるかもしれない」などと、思わせぶりというか、半端な科白を吐いている。
 その本というのは、トマス・レヴェンソン著『錬金術とストラディヴァリ―歴史のなかの科学と音楽装置』(Thomas Levenson 原著、中島 伸子訳、白揚社)のことである。
 出版社側のレビューを示しておくと、「顕微鏡からコンピュータ、オルガンからシンセサイザーまで、科学と芸術はどのように補い合い、知的調和をもたらしてきたか。西洋の科学と音楽の歴史を独自の視点で見直した、ピュタゴラスから現代に至る科学的思考発展の物語」ということで、音楽史の本であり、科学史の本でもあるが、詰まるところ、哲学史というより哲学の本と思っていいだろう。
 といっても、堅苦しさは全くない。知見に富んでいて、西洋哲学を少しは齧った小生も水の哲学者タレスの「水」の意味するところ、ピタゴラスにとっても、それとも西欧における音と数の今日に至る洞察の意味合いの深さを改めて感じさせてくれた。
 最初は、表題の「錬金術とストラディヴァリ」という取り合わせに、奇矯な感じ、意表を突くだけの本だろうと図書館で本の背の題名を見たときは思ったが、パラパラ捲ってみて、しっかりした記述と内容を直感。
 長年、少しは本を齧ってきただけに、面白いかどうか、信頼できるかどうかの大雑把な判断は付く。また、一読してみて、見当に間違いがなかったことを確認した。

 この本を田舎で読み始めて、その続きを読みたくて、富山から東京への高速の道をもどかしい思いで走っていたのだった!

 ストラディヴァリ…。「ストラディヴァリとグァルネリ」なる頁を覗かなくとも、その名器ぶりは夙(つと)に知られている。
 ストラディヴァリというのは、アントニオ・ストラディヴァリという(1644-1737)──17世紀後半から18世紀前半にかけてイタリア・クレモナ地方で活躍した名弦楽器製作者の名前で、後、彼が作ったチェロやヴァイオリンのことをストラディヴァリと呼称するようになった。
日本音楽財団」という頁を覗いて、その作品の数々を見てみるのもいい。

 古来より、ストラディヴァリの音色に魅せられた演奏家は数知れない。一流のヴァイオリン演奏者がいつかはストラディヴァリを弾きたいと夢に見る。
 あるいは所有したいと願う。楽器のディーラーが扱ってみたいと懇願する。
(「文京楽器のストラディヴァリ・ディーリング - 文京楽器 - ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス・弓の専門店」の「文京楽器のストラディヴァリ・ディーリング」なる頁は、門外漢の小生も、読んでみて感じるものがあった。)

 楽器の製作者なら、ストラディヴァリの再現を考えたりもする。実際、イタリアをはじめ、世界中の楽器製作者が挑戦してきた。が、ことごとく失敗に終わったという。
 不思議なのは、ストラディヴァリが幻の楽器、伝説の楽器で、この世に既に現物がないのなら、その再現も、あるいは夢に終わっても、ないものの再現など所詮は見果てぬ夢に終わるということもあっていい。
 が、数は限られているとはいえ、現物がある(数百点!→「読み物・エッセイ イタリア 音楽の旅」など参照)。職人ストラディヴァリの生涯も、彼の師アマティのことも調べ尽くされている。現物を弾く演奏会もある。演奏を録音したCDもある。運が良ければ、ラジオで聴取することもありえる。
 また、場合によっては仔細に現物を研究することも可能である。
 職人が、科学者が、素材を製法を調べ尽くしてきたのである。
 けれど、とどのつまりは分からない。木の秘密を探られたのは言うまでもない。ついには表面の塗装(ニス)にこそ秘密があるのではと、研究もされたにも関わらず。
 余談だが、近年、「ストラディヴァリの特別なサウンドは、当時のヨーロッパの寒冷な気候にある、という」新説が世上を賑わしたことがある。「寒いとヴァイオリンの材料のトウヒにどのような影響を及ぼすのか?」というと、「年輪が狭くなり、固く密度の高い材質になるという」のである。
 まあ、必要条件としての新説は、これからも登場するのかもしれない。が、十分条件とはならない。

 さて、錬金術が表題に現れている。小生も学生時代、ニュートンが錬金術研究に生涯を捧げていたという事実を知ったこともあり、多少は本を読み齧ってみたことがある。
 錬金術については、「錬金術 - Wikipedia」で予備知識を得て欲しい。字義どおり、「錬金術(れんきんじゅつ、Alchemy)とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと」であり、「広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指」し、「錬金術の発達の過程で、現在の化学薬品の発見が多くなされ、その成果は現在の化学 (Chemistry)にも引き継がれている」という。
 錬金術と関係するキーワードというと、「賢者の石」に尽きる。「一般によく知られた錬金術とは、物質をより完全な存在に変える賢者の石を創る技術のことをいう。この賢者の石を用いれば、卑金属を金などの貴金属に変える事ができるという」のである。
「賢者の石」という呼称はともかく、宇宙、世界、自然、生命、人間の秘密を知り尽くしたいという渇望の念は、古来より抱かれて来た。それは神への挑戦でもあった。全てを知悉しえるのは、本来は神以外にありえるはずもないのだから。
 にもかかわらず、知りたい、原理を理解したいという知的欲求は人間の本能のようで、太陽に向かって知的武装をして舞い上がり飛び掛っていった、数多の無謀者がいたし、いるし、これからもいるのだろう。
 最後の錬金術師と呼ばれたりするニュートンもその一人だったわけだ。
 万有引力の法則を発見した。が、そこに大いなる謎があることをニュートンは認識しなかったわけじゃない。彼の見出した法則が正しいのだとすると、重力が万物の間に瞬時にして作用することになる。
 地球と月どころか、地球と太陽、あるいは更に遠い天体とも瞬時に作用しあっている…?!
 万有引力の法則。そもそも何が原因で万物が作用しあうのか、その根源の理由は何か。デカルトの言う「渦動仮説」なのか。神の存在なのか。
 が、ニュートンは、科学者として法則を提示するに留め、法則の背後の謎に(公式上は)言及することはなかった。これが彼が科学者と呼ばれる所以であり、法則の背後には目を瞑る、形而上の憶測は語らない、という仮説は作らないというニュートンに事寄せて言及される科学者たる姿勢の範が示される。
 ニュートンは、まさに最後の錬金術師として、頭の中は思弁的な仮説に満ち満ちていたわけである。賢者の石を追い求めていたわけだ。
 背景とか根源とか不可視の法則に目を瞑ること、そこから科学者の作業は始まる。目で観察でき、他人の手によって事実の追認・実験の再現が可能であること。宇宙の根源を差配する神の思惑への憶測など、科学者は(現役の間は)おくびにも出してはいけない。
 我々が知りたいと思う全てのことを知ることの断念。そこから科学は始まるという悲劇なのか喜劇なのか分からない人間の認識の歴史。知ることだけ、知りえることだけを知ろうとする、それが科学。知りえないことについては語らないし、ないことにする。
 知りえることは豊富にあるように一見すると思える。が、それは地球上の海のようなもので、人間の目には海の水は無尽蔵なほどに地球表面に湛えられているように見える。が、地球の体積に比べたら海の水の量は、1%にも及ばない。
 しかも、地球上の水のうち、人間が利用可能な水はその更に数パーセント。
 科学が教えてくれたこと、これから教えてくれるだろうこと、それは小生のような素養のない人間には、その表紙や目次を眺めるのさえ、できっこないと諦めさせるほどのものがある。
 が、仮に科学がこれからドンドン研究が進められ知識が貯えられていったとしても、現実(地球)の体積に比べたら、そにゼロ・コンマ何パーセントを決して超えることはないのだろう。
 科学の発達の一方で、科学が断念した地下(天上でもいい)の世界の豊穣さとは人はドンドン、離れて行く。何もかもが分かりえる、今は分からなくてもそのうち理解できる、という幻想。
 が、科学の発端からして、原理的に知りえることに限定しているのだから、地球表面の薄皮をもなぞりえるか疑問なのである。
(それでも、小生は科学に興味を持つ。啓蒙書も読んでいくが。)

 ニュートンが科学者としての第一歩を踏み出した、その万有引力の法則の持つ、重力が万物の間で無時間的に作用し合うかのような形式の持つが、ある意味、科学と錬金術、というより科学と哲学の分岐点でもあった。
 法則という例外を認めないかのような形式。が、現実とは何か。自然とは何か。生命とは何か。何であるかを忖度するのは困難を極めるが、ただ一つ、命も現実も自然も、徹底して一回性という特徴を持つことだけは言える。命は自分の命も人の命も、動物や植物の命だって、さらには、手で作られる陶器や家具や織り込まれていく布地にしても、ただ一つの物、そこにあるそれだけという、有限性・唯一性によってこそ、掛け替えのないものとしての価値を持つ。値段の付けようのない値打ち。
 本書『錬金術とストラディヴァリ』において、ストラディヴァリは、有限性・唯一性として作品という意味合いを持たせられているのである。
 さらに、本書では、現代科学が、特に素粒子論と宇宙論の統合を目指す場面において、もはや実験や分析が不可能ではないかと思われるような究極の理論が登場していることを俎上に載せている。そうした理論というのは、アインシュタインではないが、理論の正しさは、理論の美しさ、美や調和感が保証するしかないという。これほど美しい理論が間違いのはずはない…。
 
 現代の音楽シーンでも、シンセサイザーやデジタル音楽の登場は、音楽に、さらには音の世界に革命を起こしつつある。音階の発見にも関わらず、音楽の世界は、音階を越えて作られていく。楽器が演奏できなくても、歌えなくても、楽譜が読めなくても、目が見えなくても、場合によっては耳が聞えなくとも、デジタルの音楽装置は作曲を可能にする。作り手のビジョン次第。
 コンピュータは、理論上、「どのような並びの数字も操作できる」ので、「原則としてどんな音でもつくれる。」ここでまた、ピタゴラスと再会するわけである。「純粋にデータから音楽をつくりあげるということは、結果として、われわれはどのようにしてデータの集合から――たとえそれがどんな集合であっても――意味をつくりだすべきなのかという、より広い問題を考えさせることになる。すなわち、音楽は、ちょうどピュタゴラスが物差しという土台の上に宇宙をつくりあげたときにそうであったように、再び全体としての世界の代わりを務めることになるのだ。」
 その際限のない可能性の海の中で音楽の作り手は、何を頼りに曲を作るのか。
 つまるところ、その人の審美眼、美意識以外に何もない。
 宇宙論の究極の理論の正しさという確信を支える美の観念。そして音楽シーンでも登場する主観性の極地。

 さて、本書『錬金術とストラディヴァリ』の最後にウォレス・スティーヴンスの数行が示されている。ここには転載しないが、その冒頭には、「描写は啓示だ」の一言がある。
 その含蓄は本書を読んで確かめて欲しい。「究極的な啓示は、われわれをわれわれ自身に、われわれが誰で、どこに住み、どのようにこの道にやってきたかということについての認識に導くものである。」という文言だけ示しておこう。
 本書の最後の最後になって、「自然という書物」というメタファーが出てくる。どこからきて何処へという感覚と併せ、極めてキリスト教的な発想なのだろうか。
 表題である「自然という書物」を最後に出し、このメタファーについて何も語らないのは申し訳ないが、恐らくは多くの方がその人なりの思い入れをこの言葉にされているのではなかろうか。異論も含め。
 小生なりの思いについても、機会があったら書いてみたい。

 それにしても、本書を書いたトマス・レヴェンソンは、さぞかし名のある学者かと思ったら、後書きを読むと、テレビ・プロデューサーとあって、ビックリ。ドキュメンタリーなども作っているとか。欧米の懐の深さと一般的な科学の土壌の豊かさを痛感させられてしまった。

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コメント

プロデューサーと言えば、RAIの音楽プロデューサー・ウンベルト・エコーを思い出します。雑学のジャーナリスト切り口で書くのも典型でしょうか。

双方とも哲学を学んだのでしょうが、エコーが「開かれた芸術」を説き、こちらは科学番組プロデューサーとして「音楽は、ちょうどピュタゴラスが物差しという土台の上に宇宙をつくりあげたときにそうであったように、再び全体としての世界の代わりを務める」と構造主義的な見解が出てくるのが面白いです。一体お幾つなんでしょうね。

投稿: pfaelzerwein | 2006/04/06 05:39

ウンベルト・エーコというと、『薔薇の名前』と『エーコの文学講義――小説の森散策』しか読んだことがないけど、『論文作法―調査・研究・執筆の技術と手順』とか『カントとカモノハシ(上・下)』が面白そう。彼の場合、ラジオのプロデューサーを経て大学に戻った。当然なのかもしれないけど。
プロデューサーというと、ブライアン・マギーがちょっと印象的。『哲学人 上・下』の著者。ショーペンハウエルが扱われているのが嬉しかった。
プロデューサーというと、カール・ セーガンは別格か。
トマス・レヴェンソンは、手元に本がないので分からないけど、新進のようです。

投稿: やいっち | 2006/04/07 14:11

ブライアン・マギーさんと言うのは知らなかったです。プロフィールをみると変わってますね。そしてヴァーグナー、ヴィットゲンシュタインですか。

エーコのRAIでの話は良く出るのですが、具体的な仕事は良く分からないです。失業するまでのその50年代の数年間に一流の芸術家と知り合ったりその仕事の成果で、60年代に講師として記号論を専門と出来たと良く書かれます。トリノ大学卒業時にアキンで学位論文の提出をしているようですが、70年代にボローニャで記号論の教授となって、その後初めて中世学が70年代後半に小説に活かされたようです。当時の社会情勢から敢えて学位を習得しないでいたのか、審査する適当な陣営がなかったのか?これほどの大物になればまあどちらでも良い訳ですが。

投稿: pfaelzerwein | 2006/04/07 21:05

エーコは、75年、ボローニャ大学文学部に美学部の講座が開設された際、初代の正教授に就任しています。学位は分からないけど、教授にはなっている!
それにしても、ショーン・コネリー主演の映画『薔薇の名前』は観たかった! 『ダ・ヴィンチ・コード』より余程、中身が濃いし。

投稿: やいっち | 2006/04/08 01:57

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