田舎で読んだ本
一週間ほど田舎で過ごしてきた。学生時代はともかく、三日以上を郷里で過ごしたのは久しぶりである。
何故、一週間も過ごすことになったのか、その事情は私的なもの(他人様に関わるという意味)なので書けない。が、家事などに勤しんでいたとは言える。それでも、日中や夜中などに暇な時に恵まれたりする。読めるかどうか分からなかったけれど、図書館で借りた本を四冊も持参して行った。
田舎にはネット環境になく、季語随筆も綴れない。このこともあって、読みきれるはずもないのに四冊も抱えて帰帰郷した次第なのだった。
案の定、読めたのは二冊だけ。
一冊は、高橋治著の『風の盆恋歌』(新潮社刊。新潮文庫に入っているようだ)。
出版社のレビューによると、「死んでもいい。不倫という名の本当の愛を知った今は―。ぼんぼりに灯がともり、胡弓の音が流れるとき、風の盆の夜がふける。越中おわらの祭の夜に、死の予感にふるえつつ忍び逢う一組の男女。互いに心を通わせながら、離ればなれに20年の歳月を生きた男と女がたどる、あやうい恋の旅路を、金沢、パリ、八尾、白峰を舞台に美しく描き出す、直木賞受賞作家の長編恋愛小説。」とのこと。
察せられるように、小生は富山出身の人間。なのに、富山は八尾が舞台である風の盆を見たことがない。時期的に八月末から九月上旬は帰省が難しい。
せめて、風の盆という祭りの独特の雰囲気や八尾が舞台の有名な小説くらいは読みたいと前々から思っていたのである。
ドラマ化されたし、石川 さゆりが同名のタイトル(作詞:なかにし 礼、作曲:三木 たかし)の曲を歌いヒットしたこともあって、「風の盆恋歌」を知る人も少なからず居るのではなかろうか。曲の歌いだしには、「蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉 若い日の 美しい 私を抱いて ほしかった しのび逢う恋 風の盆」とあるが、実際、小説では、蚊帳の中の二人の暑い夜の描写が印象的だった。
また、歌詞には酔芙蓉という花が折に触れて登場してくる。小説でも、この花が重要な役割を果たすのだ。
ま、本書『風の盆恋歌』は、一言でいって、大人の不倫物語…と断じてしまうと身も蓋もないが、その後、不倫ものの小説やドラマが流行ったのも事実。小説の時代背景というより、小説を書いた時代背景にバブルへ向かう日本社会の熱気があって、その熱気に乗って弾ける一方、其処から一歩降りるというか身を引く姿にも惹かれる面が書き手にも読み手にもあったということか。
しかし、不倫を否定的に描かないことに、社会の成熟というより時代の異常があったということを理解すべきかもしれない。通常の恋愛や状況設定では読者(あるいは映画やドラマの観客)の嗜好を満足させることはできなかったのだ。
実際、小説の主人公の男性は社会的に成功者でありながら、何故か破滅志向があったりする。何ゆえ、そうした破滅志向に駆られているかが、しっかり描かれていないので、やや異常な(ある意味、ありがちな)設定ばかりが目に付いてしまう。
風の盆という祭りの幻想性が(幻想味と受け取っていいのか疑問が残るが)小説の設定や物語を許容しているかのようでもある。風の盆を旅行者として観るからこそ成り立つ思い入れなのだろう。
風の盆については、以前、若干のことを書いたことがある→「「おわら風の盆」余聞」
読了したもう一冊の本とは、竹田篤司著の『フランス的人間 モンテーニュ・デカルト・パスカル』(論創社刊)である。論文集。
目次を一部、転記させてもらうと、
1 デッサン(モンテーニュの旅立ち/デカルト『方法叙説』 ほか)/2 問題(ポルノ・漱石・モンテーニュ/人間デカルト「私」の構造―討論「デカルトと現代」から ほか)/3 展開(「自伝性」の問題―デカルト・モンテーニュ・パスカル/ディテールへの愛―十七・十八世紀フランスの歴史的思考へのグリンプス)/4 比較(『エセー』と『ドン・キホーテ』/「黄金世紀」と「偉大な世紀」―時代区分の成立をめぐって)/5 雑纂(関根秀雄『モンテーニュとその時代』/「力」の時流に抗して―モンテーニュを読む ほか)
となる。
モンテーニュこそ、大学生になってから読んだのだが(河出書房新社刊『世界の大思想』版で)、パスカルや特にデカルトには高校時代から惹かれてきた。
というより、デカルトの『方法叙説』や『省察』、『世界論(宇宙論)』(中央公論社版『世界の名著 デカルト』所収)などの虜になったというべきか。
普通なら、若い頃は、パスカルの『パンセ』にこそ魅了されてしかるべきなのに、実際、凄い本であり文章であると感じたけれど、何処かしら違和感が覚えられて、耽溺するほどに魅入られることはなかった。
その理由が、遅まきながら本書『フランス的人間』を読んで、やっと分かった次第だった。
パスカルやデカルトなどフランス哲学に通暁されている方には常識なのだろうけれど、要はパスカルの『パンセ』は方法的であり虚構性に満ちているのであって、実は、デカルトの『方法序説』のほうこそが私的ドラマに満ちており、また、優れて私的、もっというと、表現者・思索者としてギリギリ限界に迫るほどに私的な書物なのである。
『パンセ』こそが、パスカルの肉声に満ちている。そのつもりで読んでいたし、実際、そういった文章、断片に随所で出会う。アフォリズムの極地を行く表現世界。
が、パスカルには信仰者として信仰の世界に読み手を引き摺り込むという明確な意図があった。『パンセ』は、信仰への誘惑の書であり、パスカルは繊細の精神、幾何学の精神の両極を渡りながら、想像力と表現力の力を駆使して読者を信仰の世界へ誘い込もうとしているのである。
だからこそ、パスカルの『パンセ』こそ、自覚的に方法的であり虚構性に満ちているわけである。
その点、デカルトは、ひたすらに省察する。方法的でもある。が、方法的でありながら、これ以上はないというほどに精神が研ぎ澄まされていて、精神の骨の髄が透けて見えるようなのだ。中世の闇夜の世界から絶対的な真実という光を追い求めての孤独な精神の戦いが繰り広げられているということが、ひしひしと感じられる。
若い頃は、我が身の無能を省みず、精神や信仰や宗教、哲学の世界に真正面から飛び込んで行ってしまう。何一つ信じられないという火の海の世界から、何か確固たる世界を求めようとして、これだという世界に踏み込んでみたら、何のことはない、一層、にっちもさっちも行かない世界に迷い込んでいる自分、しかも、後戻りしようにも、どっちがやってきた方向なのかも分からず、真っ白な闇の世界を彷徨っている自分を見出すのみなのである。
平凡な人間である自分であっても、人生のある時期、ほんの一瞬は精神的探究の孤独で苛烈な世界を垣間見ることがあって、背筋が凍り付くどころか、このまま行くと早晩、気が狂ってしまいそうだという孤絶感、孤独感に苛まれてしまう、その感覚がデカルトの、特に初期の書には満ち満ちている。
哲学者とは、凡俗な自分なら一瞬、その凍て付く焔の世界に指先が触れただけで、恐れ戦いてしまう世界を一生、歩き通してしまう存在。その厳しさを圧倒する緊張感に満ちた文章で、そう書いてある内容よりも、文章のリアリティで、お前、引き返すなら今のうちだよと教え諭されてしまった、もっと正直に書くと、『方法序説』や『省察』は、小生をびびらせてくれた書であり文章なのだった。
本書『フランス的人間』では、上記した題名の副題にもあるように、「モンテーニュ・デカルト・パスカル」と併記されている。
モンテーニュの「エセー」の世界にも魅入られてしまった。大学生になっていたはずである。デカルトやパスカルに撥ね付けられてしまった小生は、モンテーニュの随想録の世界に慰めを得ていたような。
慰め。そう、小生は、モンテーニュの「エセー」の表現を試みる、精神の世界への探究をデカルトやパスカルのように夾雑物を排除・除去して純化し、結晶化するのではなく、むしろ、混沌なる世界をありのままに見つめ受け止め表現するせんとする意図を全く理解しないでいたのだった。
ただ、それでも、モンテーニュの「エセー」の世界というのは、文章表現としてエッセイが随想と訳されたりする前に、思索の試みであり、表現の試みであると勝手に受けとめ、後年の雑文好きな小生に可能性を与えてくれた存在なのだった。誤解・誤読だったのだとしても。
モンテーニュの「エセー」の世界は、そんな俗人たる凡俗も、そんな奴だっているものだと受け入れてくれる度量があるかのようだった。デカルトにも、パスカルにも、そんな素人の<付け入る>余地など皆無である。だからこそ、若い頃は妥協の余地のない純粋な思考者たるデカルトやパスカルに魅了される。
実は、モンテーニュだって、デカルトやパスカルに劣らず方法的であり自覚的であり、妥協を知らない精神だったりするのだけれど。
本書『フランス的人間』を読んで、興味深かったのは、あるいは意外な取り合わせで驚いたのは、『エセー』と『ドン・キホーテ』の項だった。モンテーニュとセルバンテスの同時代性(生没年や著作の上でも)も、改めて気づかされたが、そういった表層的共通項が問題なのではない。
著者は、「完結=非完結性」と、「作品構造の多元・複層性」、「読書・読者/判断力・狂気」、「行動・非行動/歴史家」などの切り口で、『エセー』と『ドン・キホーテ』の世界の共通性を示している。
とにもかくにも、本書『フランス的人間』は、郷里にあった小生の若き日を、さらに仙台で過ごした日々の鬱屈した思いをしみじみと思い出せてくれた、小生には嬉しい本だった。
この二冊を読み終えた後、三冊目に手をかけたが、思いの外の好著にめぐり合えた。その本のことは、後日、採り上げるかもしれない。
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コメント
風の盆 この言葉に何とも言えない郷愁を感じます。
何故かは解らないし、見に行ったこともないのですが・・・。
もしかしたら、N○Kのアーカイブスで、昭和40年代の映像を紹介していてそれを観たときからかもしれません。
小説は、読んでいませんが、風の盆と言うこの言葉が、とても印象的ですね。
作者は、風の盆を強く意識したのでしょうか?
弥一さん、故郷では、とても、知的な時間を過ごされたのですね。
(もちろん 東京でもですけれど )
私は弥一さんのようには、中々いきませーん(^^ゞ
投稿: 蓮華草 | 2005/08/19 00:31
蓮華草さん、コメント、ありがとう。
> N○Kのアーカイブスで、昭和40年代の映像を紹介していてそれを
小生も、恐らく同じ番組をいつだったか見たことがあります。
> 作者は、風の盆を強く意識したのでしょうか?
小説は、まさに「風の盆」を大切な小道具として物語を組み立ててました。
> 弥一さん、故郷では、とても、知的な時間を過ごされたのですね。
いえいえ、とんでもないです。日中の大部分は家事(食事の世話や買い物)と若干の草むしり(と居眠り)に時間を費やしていました。
父母は早めに寝所に引っ込むので、夜の時間が長かったのです。
> 風の盆 この言葉に何とも言えない郷愁を感じます。
この祭りや踊りは実にユニーク。幻想味があり、しかも、多くの観客が去った真夜中過ぎからが本番。誰彼のためでなく、月夜にだけ見てもらえればそれでいいという祭りなのですね。
とはいっても、小生も一度も観たことがない。
投稿: やいっち | 2005/08/19 01:47