星月夜…星の見える森
昨日の季語随筆に、「このうち、「桐一葉、星月夜」の両者は一度は玩味してみたいと思っていた季語。今回はまず、表題の如く、「桐一葉(きりひとは)」を採り上げてみる」と書いている。
というわけだから、今日は「星月夜」を俎上に。
が、調べてみて、ある意味、ガッカリした。
「藤野 勲「かけだし俳句抄」(5)」を覗いてみると、「鞄提げバス降りたてば星月夜」なる句が掲げられ、「三句目の季語は「星月夜」。「ほしづきよ」とも「ほしづくよ」ともいう。「よく晴れた秋の夜は空が澄むので、満天に輝き満ちた星で月夜のように明るく美しい。その趣を星月夜という」と、前掲の歳時記にある」と自注している。
引用文中の前掲の歳時記とは、「合本俳句歳時記・角川書店編」のこと。
ガッカリしたとは、「よく晴れた秋の夜は空が澄むので、満天に輝き満ちた星で月夜のように明るく美しい。その趣を星月夜という」という説明にある。なんだ、秋の話か。だったら、空気だって澄んでくるし、夜空も星明りが凛冽としていて、星月夜と表現したくなるのも、分かる。
分かりすぎて、つまらない。これでは当たり前すぎる。
一応、「星月夜」は初秋の季語だとは知っていたけれど、それでも夏の終わりの時期と秋口とが重なっていて、秋めいてくるとはいえ、湿気もあって、夜空の星を眺めているうちに震撼たる思いに背筋がぞくっとくるような感覚を味わうには、程遠い時期のはずである。
昨年から都内の風景などを、仕事のついでに撮ったりしてきたが、それも桜の花の散った頃からは、途絶えがちである。風景写真を撮っても、どうも透明感がなくて、今一つ納得できる写真が得られない。
というか、目で見た風景を画像に収めたいという欲求自体が湧かないのである。
それが、梅雨時を過ぎ、盛夏を過ぎ、そして今、夏の終わりの時期を迎えているが、依然として朝焼けや夕焼け、あるいは夜景、夜の東京の点景などを撮りたいという気持ちの昂ぶりが高まってこない。
大気に澄明感が未だ足りないのである。
(ただ、都内などに関しては、ディーゼルなどの排ガス規制の好影響か、浮遊塵による空気の濁りは若干、薄らいでいるような気がする。たとえば、タクシーの後部座席にはお客さん用に、白いシーツが敷かれているのだが、その汚れ方が、昨年、一昨年などと比べ歴然と違う。一日、仕事しても、汚れが目立たなく成っているのである。)
それなのに、「星月夜」。初秋の季語となるには、きっと何か、それなりの謂れがあるに違いないのだ…、そう、小生は勝手に期待してしまった。
あるいは、「星月夜」というネーミングからして、明治以降のある頃に、ゴッホか誰か印象派の絵画の洗礼を受けた誰かが、夜空の星を愛でるには時期外れの夏の終わりの時期であるにも関わらず、絵画に感銘を受けたのが夏場だったこともあって、敢えてまだ夏の匂いのプンプンする中、「星月夜」を季語として織り込んだ句を捻ってみた…、何かそんなエピソードがあるのだろうと思ってしまったのである。
それとも夏の真っ盛り、高原の何処か別荘で避暑していて、夜空の星屑の凄みに、流れ星の数の多さに、圧倒された…とか。
折々覗く、「季節のことのは・夏」でも、「星月夜 (ほしづきよ)」については、「夏の熱っぽい星を見た後の、秋の星月夜はまた格別です」とある以上は、季節はすっかり秋の様相を帯びている、そんな中での、秋の星月夜の美しさなのだと納得するしかない。
なお、このサイトにもあるように、「読み方に「ほしづきよ」と「ほしずくよ」の両方がありますが、「ほしずくよ」の方が古いかたちです」とのこと。
というわけで、期待はずれに終わったので、ここで急遽、テーマを変更。【8月の季題(季語)一例】を覗くと、「踊(盆踊り、踊の輪、他)」に目が向かってしまう。
これは、きっと、先週の土曜日に行った、浅草サンバカーニバルの余韻が残っているからだろう。よさこいやサンバカーニバルが終わると、夏も過ぎ去る。
と、思いつつも、未練がましく、「星月夜」という季語に言及しているサイトを検索していたら、「Area 星ノ井」というサイトに遭遇。
「星ノ井」とは、「鎌倉十井 のひとつ。別名、星月ノ井。昼なお暗いこのあたりでは覗くと昼間でも水面に星が見えたという伝承が名前の由来」とか。
さらに、続く説明が興味を惹いた。つまり、「星月夜は鎌倉にかかる枕詞。倉が暗(クラ)に通ずるからか。また「星夜」の意。秋の季語」という。
「鎌倉十井 のひとつ。別名、星月ノ井。昼なお暗いこのあたりでは覗くと昼間でも水面に星が見えたという伝承が名前の由来」という説明を読んでいて、ふと、過日、読了した本の記述を思い出した。
その本とは、ヘルムート・トリブッチ著『動物たちの生きる知恵』(渡辺 正訳、工作舎刊)で、「ロータリーエンジンの考案者バクテリア、ハキリバチが作るモルタルの育児室、白蟻の空調システムつきの砦など、生き物たちの暮らしぶりが語る、環境にやさしい先端技術へのヒント」といったレビューが載っている。
著者のヘルムート・トリブッチは生物学者でありながら、「太陽エネルギーの化学的変換の分野では世界の第一人者」であり、物理学や化学にも通暁していて、さながら自然の哲学者といった趣の人。
本書『動物たちの生きる知恵』は、日本語版が出版されたのが10年前と古い本なのだが、生物学のみを専攻している学者には、ちょっと書けない記述に満ちていて、発見だった。
本書の中の「第10章 時空を制する」が関係する章で、その中でも、「方向ぎめとナビゲーション」(渡り鳥の超能力/鳥たちは何を見る?/悠久の時の流れに)なる項が肝心。
渡り鳥たちは、時に数千キロを旅することで知られている。彼らはどうやって「方向ぎめとナビゲーション」をしているのか。一体、鳥たちは何を見ているのか。
まだ、実証はされていないとしながらも、著者は、「ひょっとすると鳥たちは昼間でも星が見えるのではないか」と想像するのである。
昼間、光が輝いていて星が見えないのは実は散乱光が邪魔をしているから。その散乱光さえ、目にすることがなければ、昼間でも星が見える。たとえば、深い井戸の底から、あるいはうんと長い望遠鏡で空を眺めると、星が見える。明け方や夕方、星が見えるのも、薄暗いからというより、散乱光がカットされているからなのである。
さて、鳥の目には、どうやらそうした散乱光をカットするつくりになっているらしいと著者は書いているのである。その鳥などに特有の作りとは、櫛状体(しつじょうたい)なのだとか。
つまり、「物理学の目で見ると、この突起は、横からの光をカットし、まっすぐ前からの光だけを通す、そのためにぴったりのつくりをしている」と著者は言う。
よって昼夜関係なく星(人間で言えば星座)が見えるから、東西南北や緯度が分かり、そこに体内時計が働いて経度も分かる、よって鳥は長い距離を過つことなく旅できるのではないかというのだ。
それにしても、鎌倉の地も、一昔前は、真昼間でも水面に星が見えるような鬱蒼たる森の地だった…。歩いてみたいような怖いような。
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コメント
「星月夜」というと ゴッホがまず 浮かびますね。
こちらの方も そんな都会ではないのですが この頃夜の空が 明るくて 星も沢山は見えません。見える範囲も狭い・・。
圧倒されるほどの美しい星空は わざわざ見に出かけなければ見ることが出来なくなってしまいました。
記述の中で さすがに 現実味があって なるほどな、と思ったのが
「たとえば、タクシーの後部座席にはお客さん用に、白いシーツが敷かれているのだが、その汚れ方が、昨年、一昨年などと比べ歴然と違う。」
というところ。
大気の状態も こんなところで よく解かるんですね。
投稿: なずな | 2005/08/31 01:08
コメントありがとう。
星月夜というとゴッホですよね:
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/StarryNight.html
「君の絵には、想像力が欠けている」とゴーギャンに言われたとか。想像力よりある種の実感的風景なのかな。
北欧などは太陽(緯度が高く陽光が穏やか)より、夜の星や月のほうが鮮烈な印象を受けるようです(月に吠える狼)。
季語の「星月夜」は、月が出ていないのに、星明りだけで月夜みたいに明るいという意味合い。そんな星の夜、久しく見てないです。
それこそ、井戸でも掘って井戸の底から空を眺めたら、数知れない星が見えるかも。
タクシー車内の汚れ(シーツ)もそうだし、窓の汚れ(無論、ボディもだけど)も、違いが歴然。かなりディーゼル規制が効いているみたい。石原さんのこの政策は褒めるに値する。
投稿: やいっち | 2005/08/31 19:35