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2005/08/22

ディアスポラ…書くことが生きる場所

 徐 京植著の『ディアスポラ紀行   ―― 追放された者のまなざし ―― 』(岩波新書)を読了した。
 図書館の新刊書のコーナーに展示されていて、まず、大方の方の目に止まることはないだろうと察せられる本。日本の生煮えな状況にあっては、想像を絶する世界が、世界各地に、どころかこの日本国内にも厳然たる現実としてあったし、あるということを教えてくれる著者であり本なのである。
 出版社側のレビューによると、「生まれ育った土地から追い立てられ,離散を余儀なくされた人々とその末裔たち,ディアスポラ.自らもその一人である在日朝鮮人の著者が,韓国やヨーロッパへの旅の中で出会った出来事や芸術作品に,暴力と離散の痕跡を読み取ってゆく.ディアスポラを生み出した20世紀とは何であったのかを深く思索する紀行エッセイ.」とか。

「ディアスポラ」という表記を見た瞬間、小生はキリスト教かユダヤ教の歴史紀行の本かと思った。レビューにもあるように、「ディアスポラ」とは、字義的には、「本来は,分散・離散を意味するギリシア語で,捕囚の後にイェルサレムに帰らない離散したユダヤ人をとくにさす」と理解するのが常識だと思っていたし。
 本書の中では著者は『世界大百科事典』(平凡社)での説明として、「大文字のディアスポラという語は本来、「<離散>を意味するギリシャ語」であり、「パレスチナを去って世界各地に居住する<離散ユダヤ人>とそのコミュニティを指す」を示している。
 が、直ちに以下の断りが付せられている:

「ディアスポラ」という言葉は今日では、ユダヤ人だけでなく、より一般的にアルメニア人、パレスチナ人など、さまざまな「離散の民」を言いあらわす小文字の普通名詞として用いることが多くなっている。

 小文字のディアスポラが普通名詞として用いられることが多くなっているのかどうか、小生には確かめようがない。

 ネット検索していたら、興味深いサイトを見つけた。
「エグザイルとディアスポラ」というサイトで、表題は「「エグザイル」と「ディアスポラ」 ――英語圏カリブ海出身の知識人たち」となっている。
 まず、「「エグザイル」とは追放された者・亡命者・流浪の身を意味する言葉であるが,パレスチナ出身の批評家エドワード・サイードは,この言葉に比喩的な意味を与えている.エグザイルの身になるとは,生まれ故郷から完全に切り離されることではない.むしろ今日の世界では,故郷は実際にはそれほど遠くにあるわけではない.かといって,いつでも戻れるわけでもなく,この不安定などっちつかずの立場をつねに感じながら生きることを余儀なくされているのが,エグザイルの身なのである.エグザイルの位置が意味するのは,こうした苛立たしい中間的状態のことである」とある。
「「もはや故郷をもたない人間には,書くことが生きる場所となる」と書いたのは,ユダヤ系ドイツ人の哲学者アドルノであった」といった苛烈な自覚を物語る文言が幾つも紹介されている。
「サイードにとって知識人のモデルそのものでもあったアドルノは,移住先の大衆文化状況の中に「住まう」ことができず,「自分の家でくつろがないことが道徳の一部なのである」とさえ書き残していた」が、「植民地でイギリス文化を教えこまれてきた若く貧しい西インド人移住者たちは,しかし本国の「文化」の中に安住できる場所を見つけることはできない.その「文化」こそが自分たちを周縁化してきたものだと知っているからである.故郷から離れ,つねに希望と不安にさいなまれながらタイプライターに向かい,必死で自分の場所をつくり出すように書きはじめる瞬間.まさにこの瞬間,この場所ならぬ場所において,「西インド作家」が誕生するのである.こうして節合された「西インド諸島」は,もはや故郷の英領植民地と同じものではないだろう.」…。

(文中、サイードなる人物が登場している。小生自身、以前、若干の紹介を試みたことがある:サイード著『遠い場所の記憶』

「エグザイルの比喩はまた,追放され離散した人々(民族)を意味する「ディアスポラ」の経験や記憶と切り離すことができない」として、「ディアスポラは離散するだけでなく,離散の記憶をもったまま別の場所で「集まる」ことにおいて,独特の「現在」を生きている.この「現在」は,マジョリティの均質化された文化の中では周縁化されているが,周縁化されることによって,それは支配的な現在に対する批判的な視野をいっそう深めてゆく.」といった理解が示される。
「カリブ海の歴史もまた,ディアスポラの経験にみちている.ヨーロッパによる征服と破壊によって先住民がほぼ絶滅してしまった地に,その未曾有の破壊を埋めあわせるかのようにアフリカやアジア,ヨーロッパから連れて来られた人々が,混在し,敵対し,影響しあって独自のクレオール文化を生み出してきたのがカリブ海の島々である」などとあって、このサイトの文章を読み味わう機会を得ることができた、提供することができただけでも、『ディアスポラ紀行』を読んだ甲斐があったというものだ。

 本書からは、やや脱線してしまった。
 同じく、ネット検索していたら、「2005年4月17日 ◇牧師室より◇」なるサイトを見つけた(ホームページへのリンクが貼ってない!)。
 冒頭に、「岩波書店の月刊誌「世界」に徐京植氏が「ディアスポラ紀行」を連載し、終った」とあるから、本書『ディアスポラ紀行』が成る前の感想文のようである。
 小生も本書を読んで感銘を受けた箇所だが、この牧師さん(?)は、「徐氏は、在日朝鮮人でハンセン病を負った金夏日氏の歌を紹介している」として、以下の歌を引用している:

指紋押す指の無ければ外国人登録証にわが指紋なし

「ハンセン病で指が失われ、指紋を押そうにも押せないからである。金氏は先に渡日していた父を訪ねて来日した。働きながら夜学に通ったが、発病して多摩全生園に隔離された。解放後、家族のうち、ある者は朝鮮に帰還し、ある者は死亡した。ディアスポラとして、全く孤独な隔離生活を送らざるを得なかった」のだった。
 日本人には生活保護費が支給されたりするが、在日朝鮮人は支給の対象外だったことも本書には書いてある。
 さらに、在日朝鮮人でハンセン病を負った金夏日氏についてのエピソードが紹介されている。
 つまり、「「点訳のわが朝鮮の民族史今日も舌先でほてるまで読みぬ」。金氏は点字読みを覚えた時のことを次のように書いている。「濡れてぬらぬらしてくる。いつものように、唾だろう、と思ってまだやっていると、晴眼者が見て、わあ、おい血が出たぞと言われてね。舌の先から血が出てるんだね」。舌を血だらけにして日本語の点字読みを身につけた。朝鮮語点字も学び、朝鮮史を点字で読み、体が火照っているという。在日で盲目のハンセン病者という二重、三重の差別とハンディーの中をどのように生きてきたのであろうか」…。

 朝鮮から強制連行し、用がなくなると捨て去って顧みない日本という国、国民性。

 上掲のサイトでは、「徐氏は連載の最後を下記の言葉で締めくくっている」として、「イラク、パレスチナ、スーダン……世界のいたるところで理不尽な破壊と暴力が続いている。朝鮮半島で戦争の不安が高まっている。日本でも戦争準備が着々と進んでいる。また新しいディアスポラ(離散者、難民)が生み出されるのか。泣きながら荒野をゆく人々の長い列が、幻視のように、私の視野に貼り付いて離れない。」なる一文が引用されている。
 本書の末尾も、ほぼ同じなのだが、「イラク、パレスチナ、チェチェン、スーダン……世界のいたるところで」云々となっている点が、やや違う。

 さて、最後に、もう一度、「もはや故郷をもたない人間には,書くことが生きる場所となる」という、ユダヤ系ドイツ人の哲学者アドルノの言葉を噛み締めよう。
 あるいは、「故郷から離れ,つねに希望と不安にさいなまれながらタイプライターに向かい,必死で自分の場所をつくり出すように書きはじめる瞬間.まさにこの瞬間,この場所ならぬ場所において,「西インド作家」が誕生するのである」という言葉を銘記してみるのもいいかもしれない。
 自分に事寄せてみると、自分がひたすらに読み書くのも、故郷喪失感に物心付いた時から苛まれてきたからだと思う。敢えて、郷里である富山のことを折々に書いてみるのも、そうやって確認しないと自分の中に見えなくなってしまうから、それとも見えなくなってしまっていることを認めたくないからなのかもしれない。
 故郷を持たないかどうかは別として、「書くことが生きる場所」であることだけは、確かだ。

 本書には在日の朝鮮系の芸術家の作品が数多く紹介されている。いずれも、美の裏面に傷ましいような、漂白された精神が透けて見えて、日本人の芸術家にはありえない作風を感じさせる。
 紹介する余裕がなくなったが、フェリックス・ヌスバウムなる難民の画家の傷ましい生涯も、金夏日氏とは違った意味で印象的だった。
 あるいはリヒャルト・シュトラウスのこと、「昨日の世界」のシュテファン・ツヴァイクのこと、ジャン・アメリーのこと。
 紹介しきれないほどの内容。本書は新書だが、中身はズシリと重い本だった。

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