走馬燈と影絵と
8月の季語例を眺めていたら、表題の「走馬燈(そうまとう)」に焦点が合った。
といって、小生に走馬燈についての格別な思い出や思い入れがあるわけではない(と思う)。
あるいは「坂川清流 灯篭まつり」へ行ってきたから、灯篭絡みの言葉に因縁を感じたのか。
子供の頃、走馬燈を作ったという幽かな記憶がある。けれど、学校の工作で作ったのか、それとも家での遊びとして作ったのか、あるいは、何かの雑誌の付録に簡単な走馬燈のキットがあって、試しに作ってみただけなのかもしれない。
ただ、作った走馬燈は、子ども心に幻想味を覚えさせてくれたという朧な印象があるのだが、しかし、脳裏を探ってみても、記憶がまるで定かではない。
今の時代、走馬燈を作るなんて酔狂なことをする家庭や学校など、あるのだろうか。
ま、その前に、走馬燈とはどんなものなのか、説明する必要があるのかもしれない。もう、縁日でさえも、そうそう簡単には目にすることはないようだし。
「夏の季語(行事・暮らし-50音順)」を覗かせてもらうと、「薄紙を貼った枠内の筒を回すと色々な影絵が見える灯籠」であり、類義語に「回り灯籠」があるとされている。
「俳句歳時記」の中の「季語集・夏」だと、「軒先や窓に吊して影絵を楽しむ玩具で涼味豊かなものがある」といった説明が付されている。
「走馬燈」なる季語は、多くのサイトでは夏の季語扱いをしているが、立秋から立冬の前日までを秋の季語を使うに相応しい時期と考えるとすると、秋の季語として捉えるのが的確なのかもしれない。
「走馬燈」は、灯篭流しという風物詩の中にあるわけではないのだろうし、お盆の頃に流される灯篭とはまた趣の異なるものなのだとは思われるが、しかし、時期的には、お盆と重なっているような印象もある。
心象風景の中の走馬燈は、あの世とこの世を結んでいるかのような幻想味に満ちているかのようだ。
藤城清治に「走馬燈」と題された影絵作品があったような記憶がある。画像はネットでは見つけることができなかったが、「藤城清治 「走馬燈」」というサイトがあった(最後尾に注を付しました)。
「藤城清治展 ギャラリー:影絵の森美術館」というサイト内を丹念に探せば、「走馬燈」と名付けられた作品を目にすることができるのかもしれない。
「藤城清治 「走馬燈」」の中の説明は、「この作品では灯篭でなくメリーゴーラウンドになっている」というし、「木馬の夢(1998年)」という作品についての説明のようにも思える。
丁寧な感想を付した後、「最初に見た時は、そのすらりとした緊張感や静寂さの方が印象的だった。けれど、じっと見ているうちに、木に守られながら悠々と回り続ける馬や子供がなんだか不気味な存在に思えてきてしまった」と続く。
造作は簡単な回り灯篭。なのに、じっと眺めていると、眺めている自分が限りなく小さな点に収斂していき、逆に「悠々と回り続ける馬や子供がなんだか不気味な存在に思えてきてしまった」りする。淡々と回り続ける影絵のほうが存在感を帯び始めてくるのである。
「走馬燈」」や「影絵」というのは、お盆の時期とか、夏の終わりの時期のものであろう。暑かった日々が、過ぎ去ってみたら呆気なく記憶の海の彼方に沈み行き、秋という命の収穫の時期、熱い思いが刈り込まれてしまって、ひたすらに沈思するしかないかのような時期の到来を前に戸惑っている、中途半端で、まさに宙ぶらりんな心境を象徴しているようでもある。
「思い出が走馬燈のように駆け巡る」といった人口に膾炙したような表現に使われたりする。
確かに死を予感させるような事故に遭遇した際は、時間がとてつもなくスローモーションとなり、脳裏をあれこれの思いが駆け巡ったりする。時計で測る時間的にはコンマ数秒であっても、意識の上では人生を幾つも送っていたりするような感覚。
が、「走馬燈のように駆け巡」っているのは、今、生きているその都度の瞬間そのものなのかもしれないとは考えられないだろうか。
それとも、年を取ると、昔のことばかりが記憶にあって、新しいことは少しも頭に入らない。つまりは、ある意味、思い出だけが、過去の亡霊だけがその人のリアリティなのではないかという疑念を抱かされることがある。
でも、疑念ではなく、本当に、過去しかその人の実体としてないのだったとしたら…。
走馬燈とは、そんな人生のあやうい、妖しい、掴み所のないフワフワ感を実感させる、否、実は理解を迫っている幻想装置なのかもしれない。
影絵もしかり。プラトンの洞窟の喩えを持ち出すまでもなく、子供の心に夢幻なる思いを抱かせてくれるのだ。
「走馬燈」の実物の画像を見つけることはできなかったが、「不思議の卵 ~夢や不思議がいっぱいの大きな卵~」というサイトを見つけた。楽しそう。
走馬燈駆け巡るのは亡霊か
走馬燈回しているのは影ならん
走馬燈映る影絵に我消ゆる
走馬燈回し回され夢の中
[ junk さんより、貴重な情報を戴きました。本文中、「藤城清治に「走馬燈」と題された影絵作品があったような記憶がある。画像はネットでは見つけることができなかったが」としているが、ネットでその画像を見ることが出来るという。題名も「走馬燈」ではなく、『走馬灯』(影絵制作年:1982年)とか: → 「藤城清治 レフグラフ」
コメントへのレスですが、本文へも注記させていただきました。 (05/12/27 追記) ]
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コメント
走馬灯は観念的な言葉で使っていました。
走馬灯色とりどりの夢まわる 蓮
夏の座敷で回る燈籠は、今は仏事で眼にするくらいですが、昔はもっと使われていたのでしょうか?
私もこれは初耳ですが、画像の編集のソフトかしら
其処のページで走馬灯の事に触れた記事がありました。
今までこんなこと考えたことも無かったから、びっくりしました。
http://www.vector.co.jp/soft/win95/amuse/se355942.html
本当かどうかはわかりません (>_<)
投稿: 蓮華草 | 2005/08/23 21:57
蓮華草さん、コメント、ありがとう。
以下の記述ですね:
「走馬灯とは、明治時代初期に官吏が乗っていた、頭に赤い電灯を載せた馬のことだそうです。人斬り等重大犯罪があると、その場に凄い勢いで走馬灯を駆って官吏が現れたので、壮絶な勢いで記憶が流れていくことをこのように表現するようです。」
ネット検索したところ、全く同じ記述が複数サイトで見つかりました。ということは、同じ典拠に由来するものと思われます。
が、どんな典拠なのかが全く示されていない(典拠が示されていないのも、どのサイトにも共通する特徴。記述が引用されているサイトが共に、あまり参照したくないような雰囲気が漂っている点も共通する…)。
よって、この記述については、真偽(信憑性)の点において、今のところ保留にさせてもらいますね。
でも、情報の提供、ありがとう!
> 走馬灯色とりどりの夢まわる (蓮)
走馬燈夢幻を綾織るか (や)
投稿: やいっち | 2005/08/24 12:23
藤城清治の影絵「走馬灯」がweb上でありましたのでお知らせします。
http://www.artcafe.co.jp/cart/fujisiro/fs34.html
わたしもウマが走っているようにみえる走馬灯仕掛けを作ってみたくなった。
投稿: junk | 2005/12/27 13:37
junk さん、貴重な情報をありがとう。本文中に注記させていただきました。
とても嬉しい!
「走馬灯」の絵を観て、改めて印象に残るのも当然だと思った次第です。
投稿: やいっち | 2005/12/27 18:23