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2005/07/30

環境考古学…勘違い?!

 木曜日の営業中、ラジオから環境考古学なる比較的新しい学問に携わる方の話が流れてくる。
 環境考古学? ん?! 以前、読んだことがあるぞ。
 そう、松井 章著『環境考古学への招待   ― 発掘からわかる食・トイレ・戦争 ―』(岩波新書刊)なる本をこの2月に読了し、感想文も書いていたのだった。
 が、話を聞いていると、どうも、話の内容というか着想が小生の知る(といっても、片鱗だけなのだが)松井 章氏とは違うような。
 で、話の内容より、一体、誰が話をしているのか、聴き手であるNHKのアナウンサー(アンカー?)によると、環境考古学の権威だというが…と、名前が出てくるのを待っていた。そのうち、ようやく聞けた。ヤスダさんとか。
 早速、ネット検索。安田喜憲著『環境考古学のすすめ』(丸善)が検索結果の上位に登場する。
「書籍内容」ということで、「東洋の自然観・世界観に立脚しながらユーラシア大陸の風土・歴史をグローバルな観点から論じた梅棹忠夫の「文明の生態史観序説」の生態史観に基づいて、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係を重視しながら研究する分野として、「環境考古学」を提唱した筆者が、地球環境と人類の危機の時代に、自然と人間が共存し、文明の発展を維持していくための新たな歴史像、文明像を創造するための歴史科学として「環境考古学」の重要性を熱く語る」とレビューにはある。
 本書は読んでいないのだが、まさに当夜はこういった話をされていたのだった。話のテーマは、「森の環境」である。
 当然ながら、松井 章氏の仕事やテーマとも重なる部分があるが、松井 章氏については上掲の感想文を参考願いたい。御本人の説明が載っている。

安田喜憲先生プロフィール - WEB講義 - 環境goo」を覗かせてもらうと、「1946年、三重県に生まれる。72年東北大学大学院理学研究科修士課程修了。広島大学総合科学科助手をへて、94年より国立日本文化研究センター教授に。専攻は地理学・環境考古学。環境考古学という新たな分野を、日本で最初に確立。主な著書に、「環境考古学事始」「森のこころと文明」「森林の荒廃と文明の盛衰」など多数」とある。
 松井氏も東北大学(大学院)の卒業だったようだが、安田氏も東北大学大学院を終了されている。
 ということは、どこかしらでお二人は関わりがあるのか、それとも、東北大学が杜の都・仙台にあるという土地柄が影響しているのか。

安田喜憲先生プロフィール - WEB講義 - 環境goo」を覗くと、24回に渡る環境考古学の講義の目次が載っている。ここを一通り読むだけでも相当程度に理解が進む(のか)。
 その23回が安田喜憲氏の講義。案内には、「「環境」と「考古学」、この2つの言葉をひとつにした「環境考古学」という学問が、いま、注目されている。カリキュラムにいれる大学も出はじめた。簡単にいえば、気候や地理的条件などの環境が、人間の生活や文明にどんな影響を与えたのかを考えようとする、スケールの大きな新しい学問だ。環境考古学の視点から文明を見なおすと、これまで常識と思われていた説がくつがえって、新しい文明像が浮かび上がってくる。わが国の環境考古学の提唱者である安田先生に、新しい学問の魅力を語っていただいた。」とある。

 講義の全貌を紹介するのは量的にも叶わない。ここでは講義のメニューだけ示しておく:

環境考古学とは
気象や植生と文明の関係を明らかにしたい

花粉分析から縄文は森の文化と提唱
土の中に含まれる花粉を分析し、森林の変遷をたどる

年縞の発見で、細かな年代測定が可能に
大化改新のときの気候は? 年単位で復元が可能に

黄河文明より古い長江文明を発掘
すでに6500年前に灌漑設備をもった水田や城壁があった

畑作牧畜民が森を滅ぼす
かつて深い森におおわれていたギリシャもはげ山に

森の文化を復権させよう
ユートピアを追い求め拡大しつづける文明から、円環的な桃源郷をめざせ

 さて、ようやく本題に入る。実は不遜にも小生如きが(安田喜憲氏の)環境考古学の紹介をしたのも、特に 畑作牧畜民が森を滅ぼす の項に関連する当夜の話に若干の違和感を覚えたからである。
 話は流れがあるので、途中からの紹介だと不親切の謗りを免れないかもしれないが、まずは、ここでは「畑作牧畜民の拡大・発展は、その後の世界の歴史を大きく変え、生態系にも影響を与えました。ギリシャにはかつて深い森がありました。ギリシャのコパイ湖の花粉分析によって、ここにはナラの深い森があったことが明らかになっています」という辺りから紹介しておく。
 小生も、以前、今は砂漠のようになっているギリシャ遺跡や古代ギリシャ文明の地が、昔は緑豊かな地だったと示された時、最初はショックだったが、豊かな緑の(エネルギー)資源を都会のために刈り倒し食い尽くしてしまって、森の死滅と共に古代ギリシャ文明は衰えていったという説に、納得もしていたものだった。
 が、ここでは、「畑作牧畜民の拡大・発展は、その後の世界の歴史を大きく変え、生態系にも影響を与えました」とある。小生の理解とはややというか、大分、違っている。
 牧畜の主な家畜である羊の話が当夜、語られていて印象的だったのだ。羊を飼うことで、草が食い尽くされ、緑の野が禿げて行ったという。
 よって、「ところが、ドーリア人という畑作牧畜民が侵攻してきて、畑を作り、牧草を広げ、家畜を養うために、森を伐採しつくしていったのです。そして、彼らは私たちがギリシャを旅すると目にするような、はげ山の風景をつくりだしてしまったのです」と続く。

 この辺り、ひたすら教えられるばかりである。
 さて、小生が違和感を覚えたのは、ここからである。
 森の文化を復権させよう の項を覗くと、「私は、人類には2つの文明があると考えています。ひとつは、文字、金属器、都市、城壁をもった畑作牧畜系の文明です。文字が生まれたのは税金を徴収するためであり、金属器はやがて武器として発展します。もうひとつの文明は文字や金属器を持たない、深い森に囲まれて生活していた、稲作漁撈系の文明です。日本の古代の文明も、マヤ文明も、インカ文明も、森の文明でした」とある。
 ここまでは、若干(でもないが)の留保を置いた上で、理解はできないでもない。そんな捉え方があっても、別段、敢えて異を唱える必要もない。
「2つの文明は、理想郷を描くときにも、たいへん異なっています。畑作牧畜民の理想郷は、ユートピアです。彼方にある理想の地を求めて、彼らはさまよい歩きます。それは、ヨーロッパがだめならアメリカがある、アメリカがダメなら、そして地球がだめなら宇宙があるという発想法に裏づけられています。常に拡大し、拡散しながら、ユートピアを追い求める」が、「これに対して、稲作漁撈民の理想郷は桃源郷です。漁師が川をさかのぼって、トンネルをくぐると、そこはモモの花咲く桃源郷でした。桃源郷はごく小さな空間で、時間も円環となって永遠に続くかと思われる。春に芽が出て、若葉になり、秋には木の実がなり……森とともに生き、森とともに一生を終える。森の民はアニミズムを信じ、木、草、花、自然のあらゆるものに価値を置いた、心の受容性の高い生き方をするのです。」と主張される。

 ユートピア像と桃源郷の違い。そうかもしれない。
 けれど、稲作漁撈民は、そんなに平和的だったろうか。稲作は土地を荒らさなかったろうか。土地環境を大きく変貌させなかったろうか。土地への拘りの少ない畑作牧畜民に比べ、土地に固守するがゆえに稲作漁撈民は、畑作牧畜民に負けず劣らず、土地を奪い死守するために戦争に明け暮れなかったろうか。

 仮に、稲作漁撈民の世界が平和的であり、森と親和的であり、「森とともに生き、森とともに一生を終える。森の民はアニミズムを信じ、木、草、花、自然のあらゆるものに価値を置いた、心の受容性の高い生き方」だったとしたら、たとえば、そうしたイメージの先には日本の土地柄などが思い浮かべられているのだろうけれど(中国は、北方系の民族(遊牧民族など)との戦いに明け暮れたこともあったのだろう、森の木々が伐採され尽くして剥げ地になってしまったし)、山が荒廃したり川が生活排水で汚されたり、ゴミが勝手放題に捨てられたりしなかったはずである。
 掃除というと、箒で部屋を掃くのだが、今は掃除機が吸い取ってくれるが、昔は、掃いたゴミを部屋の隅から外に向かってサッサと掃き出していたのじゃなかったか(今も?)。蒲団をベランダに干したら、取り込む際、思い切り良く棒かテニスのラケットなどでパタパタと叩いて、ゴミ(ダニの死骸?)を外に、風に流していた(いる)のではないか。
 この無邪気ぶりに、日本人のゴミの始末の仕方の典型がある。拙いことがあっても、水に流すという発想法なのである。けれど、一昔前なら、それでも構わなかった、森などの自然に許容度があったから、ゴミを散らし放題にされても、風に散り、川に流れ込み、森や林や藪や裏庭にゴミが紛れ込んでいたのである。
 悲しいかな、我々の先人の大半は、かくのごとしだったのではなかったか。
 理想や夢と、実際に日常的にやっていた行為と混同しては拙いのではないか。

 小生が、勘違いしてはならないと思うのは、日本の土地柄というより、気候風土だと思われる。あるいは爆発的に人口が増加するに至る前に危機感を持ったこと、持つための猶予の時間に恵まれた、と言い換えるべきか。
 つまり、弥生人もそうだろうが、縄文人だって、森を大切にしたかどうか、分からないのである。そもそも、縄文時代、日本列島には数十万人が居住していたと推測されている。
 数十万人の列島人がそれぞれに勝手放題なことをやって森や川や谷や浜が一時的に傷んでも、快復の余地や潜在力の方が勝っていただけではないのか。
 森と親和して生きてきた、といった幻想に縋り、昔はよかった風な夢を描くのは、個人的には構わないが、もっと過去や現在をリアルに捉え尽くすことが、学問的には、先ずは大切なのではないか。
 桃源郷や花鳥風月は、あくまで夢であり、一部の文化人(支配層)などの幻想に過ぎないのではないか。

 むしろ、古代にあって、列島はまだ辺境の地であり、大陸の人々が渡って来る、流れてくるには、まだ眼中にはなかった(せいぜい、蓬莱伝説。理想郷や新天地というより、逃避の地)のではなかったか。弥生時代になって、年間、数百人か千人程度の渡来があって、次第に文化も遺跡のあり方も、住まう土地の場所も変化し、居住する面積も拡大していったのだろうが、それでも、列島に数百万人もいたかどうか。
 山の木を刈り倒し、川の魚を採り放題にし、浜の貝や魚を採ったとしても、海の恵みは膨大であり、列島には雨が降り、湿気があって、油断していたら、茶色に剥げた(人間が剥がしてしまった)土地でも、あっという間に苔生し、茸が生え、草が茫々と生い茂り、木々も育ってくる。
 冬に降り積もった雪が春から夏先には溶けて流れ出してくる。水が豊かという認識(実は幻想に過ぎないのだが)を持っていても許されたのだった。山紫水明。決して、我々の先人の努力の賜物のみで今に至るも国土の3分の1が森という土地柄が維持されたわけではないのではないか。圧倒的に土地柄と地政学的環境の賜物なのではなかったか。

 むしろ、たまたま残っている森や緑の野を一億の民の高度な生活水準を維持しつつ保つためには、「桃源郷はごく小さな空間で、時間も円環となって永遠に続くかと思われる。春に芽が出て、若葉になり、秋には木の実がなり……森とともに生き、森とともに一生を終える。森の民はアニミズムを信じ、木、草、花、自然のあらゆるものに価値を置いた、心の受容性の高い生き方」という発想(理想)というのは、まさにこれから生きていく我々こそがビジョンとして抱くべきなのだと思われる。

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コメント

この小文にコメントを戴いた。
それで久しぶりに読み返す機会を得た。

すると、編集間違いに気付いた。
慌てて訂正。
(内容や考察の甘さに付いては、(あったとしても)執筆当時の考えを示す意味で手直しはしない。気付いた点があったら、注記はするだろうけど。)

投稿: やいっち | 2009/02/14 13:44

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