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2005/07/01

出発は遂に訪れず…廃仏毀釈

出発は遂に訪れず…」において、「ネット検索していて、かの哲学者の梅原 猛氏も特攻隊に志願したことがあったことを知った」として、「日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【教育問題について】」なるサイトを紹介した。
 その際には、このサイトの中で示されている梅原 猛氏の考えについては、あまり触れることはなかった。読まれた方もいるだろうが、小生としても気になる点があるので、若干、補足しておきたい。

 文中において、「「勤労奉仕」で人間がよくなるとは全然信じられない。奉仕というのはボランティアでしょう。まず信仰があって奉仕するというのならわかりますが、「奉仕の義務化」とは矛盾する言葉です」とした上で、「これは私の考え方ですが、明治以降の日本の天皇制は仏教的であるよりも多分にキリスト教的だったという気がします。一神教的で、絶対的。靖国神道なんていうものは、国家主義に改造された神道で、とても伊勢神宮と一緒にできない。伊勢神宮の神道は御遷宮の儀式で明らかなように、生命の継続の崇拝を中心においているのです」という理解を示されている。
 そして、「もしそれ(明治維新、急遽作られてた日本の神道)を近代に生かすのだったら、まず日本のした戦争の犠牲になった中国や韓国の人たちのための神社をつくるべきです。それから靖国神社をつくるならわかるけれど、そういう戦争で犠牲になった敵の人を祀る神社をつくらず、自国のために死んだ人間を祀るなど、日本の神道の精神に背くというのが私の考えです」とも語っている。

 さて、ここで拘っておきたいのは、今、示した点にも無縁ではないと思うが、一部で騒がれている教育基本法の<改正>問題に関連して、「私が特に問題だと思うのは勤労奉仕の義務化」だとして、以下のように語っている点である:

吉本隆明氏も言っていましたが、とんでもないことですよ。私たち戦中派にとってはほんとうに肌寒くなるようなことです。奉仕というのは、必ず絶対者に対してのものなのです。絶対者の存在を前提とした考え方ですから、天皇制とキリスト教に合致するのです。天皇のために奉仕するというのが勤労奉仕、イエス・キリストのために奉仕するのがキリスト教の奉仕です。  仏教では奉仕ということは絶対ありえない。仏教は自分が仏であるというのですから、仏=自分に奉仕するなどということはありえないんです。ですから「勤労奉仕」は宗教的じゃないと言いますが、宗教的なんです。この事実に誰も気がつかない。これは重要な視点だと思います。一方で宗教教育をやっちゃいかんと言いながら、特定の宗教の思想が入っている。キリスト教的あるいは国家神道的な色彩が強いのです。もし仏教の視点で考えるとしたら、乞食をやることですね。

 幕末や明治維新期の先覚者が欧米の文化や一神教であるキリスト教に、やや早計だったとはいえ、圧倒される思いだったことは察せられるような気がする。で、日本の国家の根幹をなす宗教たる(国家)神道も、かのようなピュアな宗教=信仰形態であるべきだと、危機感に裏打ちされたとはいえ、強引なまでの思い込みがあったのかもしれない。
 明治維新以降の神道が、江戸時代までの神道とは性格を異にしているのは知られている。いうまでもなく、廃仏毀釈の結果である。
 ここで改めて廃仏毀釈をザットでも見ておこう。「廃仏毀釈」なるサイトを参照させてもらう。つまり、「明治維新政府は王政復古,“神武創業の始めに基づく”政治政策を遂行し,そのために祭政一致を目標とし,神社を国家統合のための機関にしようと意図していた。そこで伝統的な神仏習合の信仰形態を一掃し,国家神道としての体裁を整えるために神仏分離政策が行われた」のである。
 まず、「1868年(明治元)3月に神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の達が出され」以下、様々な政策が断行された。「神仏混淆的な神号・神体を一掃することが表明された」、「菩薩号などの仏教的神号の禁止,神主は仏教に係わらないことなど,次々に布達が出された。こうした神仏分離政策の遂行は伝統的に神仏習合によって成り立っていた宗教的世界を世俗的権力がつき崩していった」などなどである。

 上掲のサイトには、いかに廃仏毀釈の動きが凄まじい物だったかが具体例を以って示されている。たとえば、「廃寺政策を強行したのは富山藩である。その内容は一宗1カ寺とし,領内で6カ寺のみ残すというものである。当時領内に1,635余りの寺があったので,その廃寺の方針はいかにすさまじいものであったかがわかる」のである。
「論理としては日本の皇道の基本は神道であり,その神道の復興,神葬祭の普及をめざ」すものだったとされるが、その実、「窮乏した藩の財政を建てなおすために寺領を削減していこうとするものである。そして領民の負担を軽減すると説いていく」のだった。
 廃仏毀釈は、藩の抱える借財を、神道の復興をめざすという口実の下、寺の財産を奪い取ったというのが実態だったのである。
「伝統的な神仏習合の信仰形態を一掃」というキーワードに注目すべきだろう。六世紀の半ば頃に仏教が導入され、やがて鎌倉仏教の勃興などを通じて、日本は、伝統的な神仏習合の信仰形態と共に成り立ってきたのである。
 その心性は、このような明治維新政府などの蛮行にも関わらず今日まで脈々と続いてきた。クリスマスやバレンタインデーなどのキリスト教的風習も、中身を換骨奪胎して受容し、享受している始末である。
 食べるものについても、タブーとなる食材がないというのも、融通無碍な宗教風土と無縁であるはずがない。

 日本は神社とお寺との習合の中で、信仰を醸成してきた。それを無理矢理、仏教的要素を剥がしとってしまった無理な形態が明治以降の国家神道なのである。供養や葬儀、死んでから向かう場所(あの世)も、仏教的思想と森羅万象に命が宿るという発想との混交という特徴を忘れる訳にはいかない(小生如きが語る必要もないだろう)。
 もともとは死んだら魂は山や森や木々や、それこそ庭の石ころや、ありとあらゆる場所・事物に還るという発想があった。そこに仏教が導入されて、仏像という形象に祈る信仰の形式の影響で、神像などが作られるようになった。神殿という構造物も仏教の影響だろう。本来、神社というのは、山や森などが信仰の対象であり、その入り口などに社(やしろ)を設けるのが、原形だったようだ。
 が、神像ではあるが、仏像のようでもあり、理屈の上では別儀であっても、民衆の信仰の上では、まさに「神仏」に祈るものだったのである。
 死者についての考えは、仏教の透徹した論理と知恵、古来よりの神信仰の持つ知恵もあろうが、日本においては神仏の習合の中で、神とか仏とが分かち難い形で知恵が息衝いてきたのである。両者が相俟ってこその信仰であり、死者の弔い方や死者の向かう先も、土俗的ではあっても、神仏習合の形で想像され理解されてきたのではなかったか。
 その知恵の少なくとも半分を殺ぎ落としてしまった。その功罪…負の側面はあまりに大きかったような気がする。そもそも純粋な神道など、近世の虚構だったのではないか。かなり無理があったのではないか。仏教の知恵もあっての神道だったのではないか。
 神仏習合という長い長い千数百年の歴史の重みを改めて思うのである。

 参考のため、神仏習合の事例を「芦峅寺の十王信仰と姥尊信仰  富山県[立山博物館]学芸員 福江 充」に見ておきたい。「いずれの姥尊像も片膝を立てて坐す怪異な老婆像で、一見すると地獄の三途ノ川の奪衣婆のようにも見える。山の神は醜い女性とされるが、それを表現したものか、あるいは立山開山慈興上人の母親の姿か、はたまた土偶のように縄文人の造形感覚を伝えたものとする説もあるが、未だに正体は不明である」というが、日本の信仰の正体というのは、案外と不明のものが多いのではないか。でも、それはそれで有り難いのである。

 日本の仏教は葬式仏教などと言われる。これも、まるで江戸時代からずっとそうであったかのような印象を抱く人が多いが(小生も実はそうだった)、これもやはり廃仏毀釈の結果の側面が大きいのである。
異見異論/宗教問題を問う[仏教寺院と僧侶のリストラ「廃仏毀釈」]」を参照させてもらう。
 その冒頭に、以下の一文がある:

「葬式仏教」という言葉は近代日本の仏教のあり方をいいあてた言葉ですが、このごろは仏教寺院や僧侶を批判するあるいは侮蔑する言葉になっています。社会の問題ともかかわらず、社会の矛盾にも発言せず(できず)、知識階級でもなく求道者でもなく救済者でもなく、はたまた世の中の人々から尊敬もされず、ただお経をおがんでは高いお布施をもらい、まるで特権階級のように振舞う僧侶(もちろん例外もありますが)への不信感の表明でもありましょう。

 まさに、そういった印象を仏教について抱かれているのではないか。
 だが、「明治以前、江戸時代までお寺は「役所(住民登録)」であり「学校(寺子屋)」であり「医療施設(薬草園・診療園)」であり「福祉施設(かけこみ寺)」であり、僧侶は仏の教えの奥義を極める行学二道の「求道者」であり、社会の尊敬を集める「知識人」であり、困窮した人達を救済する「救済者」でありました。幕府の行う国家プロジェクトの一翼をにない、生きた仏教が行われていました。葬式の仕事はそのほんの一部でした」のである。

 それが、「明治政府は、文明開化・富国強兵・殖産産業の政策を推し進め、外国列強に侵略されない近代国家建設を急ぎました。天皇親政の強力な中央集権の国家体制を組むとともに、神道を国教化して「国家神道」とし国民の精神統合を計る一方、仏教寺院の資産(土地)を召し上げ僧侶を還俗させ仏像の首をはね経文を焼いて仏教を徹底的に弾圧し」、その結果、「明治政府の行った「廃仏毀釈」は、仏教寺院と僧侶を国家プロジェクトからリストラし、社会の表舞台からから放逐してしまったのです。庇護者を失い、土地や田畑の多くを失ったお寺は、やむなく封建制の遺物である「檀家制度」や「信者組織」に道を見出し、一般庶民の生活レベルに目線を合わせ、「死者儀礼・祖先供養」と「現世利益・ご祈祷」を商品化して「おがんでなんぼ」の生き残り作戦に出たの」だという。

 やや、仏教に引き寄せ気味のような気がする。例えば、「廃仏毀釈運動とは」なるサイトを覗くと、「江戸時代に檀家制度により威勢をふるっていた仏教に対する反感は強く、低い地位においやられていた神官や僧侶から収奪されつづけていた民衆は、徹底的な廃仏毀釈運動を展開しました」とある。
 つまり、江戸時代は、幕府の政策もあってか、仏教やお寺への反発も強かったという、そんな負の面も見ておくべきだろう。だからこそ、「破壊活動のあまりの激しさと仏教教団からの反対運動のため、明治政府はこの運動の行き過ぎを禁止する通達を出さねばならないほどでした」というようなエネルギーが民衆から沸き起こったのではなかったか。
 そうした点の反省も必要なのかもしれない。
 それでも、江戸時代などのお寺の役割を見直してみるのも大切なことのような気がする。
 

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コメント

やいっちさん、「廃仏毀釈」というのは思ったより過激だったのだという印象です。1868年のドイツを見ますとプロイセンの力の政治が功を奏して来た時で、その後の明治政府の政体の手本となって来る訳です。

その年のマックスウエルの電場やノーベルのダイナマイト、ジーメンスのダイナモなどと並びヴァーグナーの「マイスタージンガー」初演とトルストイの「戦争と平和」と並べてくると当時の様子が見えてくるようです。タバスコソースの発明なども面白いですね。

「脱亜入欧」批判も興味あるのですが、「勤労奉仕」はヴォランティアーの訳にしてはあまりに古臭くて吃驚です。このような言葉が生きていたとは。かたや「ドイツマイスター魂」などは幻想の彼方に消えてしまっているのに。

投稿: pfaelzerwein | 2005/07/11 00:41

pfaelzerwein さん、コメントをありがとうございます。覗いては見ても、話題にコミットできないで、すごすご帰っています。

幕末から明治維新当時の先覚者たちは、ヨーロッパのいろいろな国の制度に学んでいる。医学や政体はプロシャ。直感的に、これこそが日本の真似すべき理想だと思ったのでしょうか。千年以上に渡る神仏混在の日本の伝統を一気に神道に収斂させようとした。なんとも今から思えば野蛮な。でも、帝国主義の嵐が世界を席捲する中、仕方がなかったのでしょうか。
勤労奉仕。愛国心の称揚といい、旧弊な発想にはつらいものがあります。問題のすり替えのような気がするのです。バブル経済は日本人の発想を根底から変えてしまったのではないか、なんて思ってしまう。グローバリズムという巨大潮流に畏怖している、だからこそのありもしない過去の理想にしがみ付こうとするのでしょう。気持ちは分かるのですが。

投稿: やいっち | 2005/07/11 01:39

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