数のこと
このところ、丹羽 敏雄著『数学は世界を解明できるか―カオスと予定調和』(中公新書)を読了し、今はアーネスト・ゼブロウスキー著『円の歴史―数と自然の不思議な関係』(松浦 俊輔訳、河出書房新社)を読んでいるなど、数学の啓蒙書を読む機会が多い。
今は、昨年来の人気の本、小川洋子著『博士の愛した数式』(新潮社)を予約待ちしている。
数学の本については書評など書けるはずもなく、感想文を綴ることさえ、覚束ない。
丹羽 敏雄著『数学は世界を解明できるか』は、レビューによると、「天動説は数理モデルを構成して数学的に天体運動を説明する試みである。ガリレイは地上運動にも数理構造があることを示し、ニュートンはそれらを土台に近代的力学を創った。数学の発展がそれを可能にした。現象の基礎にある法則とその数学的表現である微分方程式が示すのは単純さと美しさをもつ予定調和的世界である。しかし、コンピュータの出現は自然の内包する複雑さを明るみに出した―。現代科学思考の到達点を平易に叙述」とのことで、まあ、車中では楽しませてもらったというところ。
アーネスト・ゼブロウスキー著『円の歴史』は、適当に読み流すつもりでいたが、案外と洞察に満ちていて発見の本だった。だから、後日、感想文を綴ってみるかもしれない。
この表題「円の歴史」は、なんだか、経済(学)の本であるかの誤解を生みやすい。日本における「円」という通貨単位の歴史やエピソードを綴ったかのような。
数学の本の書架に並んでいたので、「π(パイ)の歴史」の間違いかと思ったり。実際、第1章は「πを求めて」なのである! しかし、れっきとした数学の啓蒙書なのである。
レビューによると、「現実の世界には、真の円というものは存在しない。現実に存在するのは、人間の頭で考えられた幾何学の世界にある、理念としての円の不完全な似姿だけである。著者はこの抽象的な数や図形の世界を支配する数理と、具体的な物の世界から得られる物理の関係という問題を、身のまわりにある円に関連する道具や現象を取り上げ、両者を切り離したり重ねたりして、その関係を語っていく」とのこと。
けれど、そんなことより、ピタゴラス学派の自然の動きは本来、数学的だという発想の言わんとする意味、そして「ピタゴラス派の業績で最たるものであり、彼らがその数論の大部分を築く基礎となっているものは、整数でも分数でもないのに、物理的な意味をもつ数が存在することを証明した点である」(本書p.64)ことを教えてくれたことが嬉しい。
√(ルート)2が、分数でも整数でも表せないから、そんな数のあることは口外してはならないとか、そうした数の存在でピタゴラス派が行き詰まったのではなく、二つの辺が1の二等辺三角形を描けば、その斜辺がまさに「√(ルート)2」という分数でも整数でも表せない、けれど、物理的な意味は持つ数が現にあることを証明したこと、それが彼らの業績の最たるものだというのだ。
ピュタゴラス派が示した証明は、決して下記のような、数秘術とか魔術の類などではないのである。相当に深い洞察が示されていることを改めて気づかせてくれた。通常の哲学史の本の説明は、小生には納得できないできただけに(従前の説明では、どうしてピュタゴラス派の業績が凄いのか、さっぱり分からなかった)、本書を読んでいることは嬉しい。まだ、読んでいる最中なのだが、数学に弱い小生にも知見を与えてくれそう。
以下、数に関係するエッセイということで、「素数のこと」という昨年書いた小文を載せておく。
素数のこと(04/05/30)
朝日新聞の夕刊の科学面に「地球くらぶ」というコラムがあり、本日(29日)まで作家の小川洋子さんのエッセイが続いていた。多くが数学に関係する話題で、今日のタイトルは、「孤高の美しさ貫く「素数」」である。
厳正であることを求める数学者にとって、素数ほど悪魔的な魅力を感じさせる数はないらしい、という掴みから文章は始まり、無限に続く素数の列とか、1と素数以外のすべての自然数は、素数の掛け算で表せると続き、しかしながら、素数がどういう規則で出現するのか分からないし、次に来る素数を求めるための公式もない、などと続く。
数学者たちは、この素数の気まぐれさに、我が侭な女王様に振り回されるように、悪戦苦闘している、とも書いている。
エッセイは、このあと、日常の中に(例えば、買い物の値段とか)素数を見出していき、「分解されることを拒み、常に自分自身であり続け、美しさと引き換えに孤独を背負った者。それが素数だ」と結ばれる。
小生には楽しいエッセイである。
同時に、あくまで出来の悪いガキとして、身の程知らずにも数学に憧れてきた小生には、いずれも馴染みの話題である。
小生は未読だが、小川洋子さんの新作『博士の愛した数式』(新潮社)の評判がいいらしい。下記サイトにて、「新作で数と人の美しさを物語に “不完全”を補い合って生きる 」という表題の記事を読むことができる:
遠い昔から数学者を虜にしてきた素数。
下記サイトでは、「100,000 までのすべての素数」の表を見ることができる:
昨年末、「史上最大のメルセンヌ素数、分散コンピューティングプロジェクトで発見」というニュースに心躍ったものだった:
上記したように、素数を見出す公式がないため、最大の素数を見出すことで最新の高性能のコンピューターの能力を測るバロメーターに使われることが多いが、同時に、「最大の素数の追求は主に学術的な関心によるもの」なのだ。
また、素数は無数にあることは、古代において既に証明されている。その証明法も、中学生レベルの学力で理解可能なものだ(ユークリッドの背理法「原論」):
小生は、オートバイの免許を取って、行動を走るようになってから、何故か、ナンバープレートの数字を眺めるようになった。信号待ちの際、町の風景を眺めるもよし、周辺の歩行者や店の看板などを眺めるのもいいのだが、特に興味を惹く光景に恵まれないと、目に付く限りのナンバープレートを見る。
というより、まず、チラッとナンバープレートに目を遣ってから、周囲の状況を愛でることのほうが多いかもしれない。それほど、この遊びというか癖は習い性になっている。
見るだけじゃなく、それこそ、ありとあらゆる数字のお遊びをする。プレートの数字は、基本的に四桁で、二桁と二桁に別れている。たとえば、22・33という数字だったら、11で割ると、2対3の割合になる。10・00という数字
だったら、これを1000と読み替え、因数分解して、10の三乗。ということは、2掛ける5の三乗だとなる。
ただ、それだけのことである。
多少、厄介なのは、例えば、59・67という数字が目の前に現れた時である(双方の二桁の数字に関係性が見出せないと、次に5967と四桁の数字と見なすわけである)。
当然、偶数ではない。では、3で割れるか。無論、ダメ。
しかし、これを5967と考えると事情は違ってくる。なんとなく3で割れそうである。やってみると、1989掛ける3で、5967となる。では、1989は、どうか。663掛ける3である。663は? これは221掛ける3である。ここで221が登場する。
この辺りで、信号は点滅しかけている。まずい! 間に合わない! 焦る!
7の倍数でもない、11でも割れない。13は…。ダメだ、走り出さないといけない。クラッチを切る。スタート。ああ、気になる!!
走行しながら、そうだ、221は、17の倍数だとやっと気付く。17掛ける13だというわけだ。これで、素数への因数分解は完了。しかし、時間切れなので、苦い思いを噛み締める。
例えば、小生の誕生日が1月13日だとする(実際は、違うはず)。1・13なんて数字が表示されたナンバープレートの車(バイク)が信号待ちや走行の際、目の前にあると、今日は何かいいことがあるかも、なんて思う。ゲンを担ぐわけである。
2・26というプレートを見かけたとすると、両者を2で割れば、1・13なので、そうか、すんなりいいことはないかもしれないが、でも、何かしらちょっとだけ手間をかければいいことがあるかも、などと思う。
12・43となると、素数への分解も、小生の頭では、一気にはできない。3ダメ、7ダメ、11は? あっ、脈がありそう。で、トライすると、113掛ける11で1243であり、バッチリである。この場合は、113を素数に分解しようとは思わない。目出度い数字に突き当たったら、それで止めとくのが賢明というものである。
小生にもう少し、数学的センスがあれば、本格的にそうした遊びに打ち込むのだが、幸か不幸か、そうした才能の欠片もないので、このようにして極々単純な遊びをして、気を紛らわしたりしているわけなのだ。
昔は、数学の才能がないことを悲観したものだったが、今は、幸いだと思っている。どれほどの才能があっても、何かの数学的発見に至るのは、それこそ、僥倖に恵まれないと難しいのだし。
数学的センスがあるだけに止まればいいのだが、数字の魔力に取り憑かれでもしたなら、もう、青木が原の樹海に徒手空拳で迷い込んだようなものだろう。恐らくは一生、抜け出せないに違いない。
かのピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、「万物は数で出来ている」という教義それとも妄想に取り憑かれてしまった哲学者だ:
数字の魔術、数秘術…。
「ピタゴラス学派の徒たちは、「記憶」を重視した」という。その上で、「全宇宙の全システムを数学的原理によって解明できるのならば、その法則性を利用することによって、万物を作り出す万能の索引を作ることが出来るはずである。これは「万物照応」の考え方を生み出した」のである。
数学的瞑想に終わりなどないのだ。彼等の数学的原理が成り立つ限りは、ピタゴラス学派の人びとにとって宇宙は調和に満ち、平穏なのだった。やがて、無理数という悪魔が現れるまでは…。
ユークリッドの完璧とも思える「原論」。
が、この遺漏の余地のない瑕疵一つないはずの数学的論理の城にも、厳正さと完璧さと、何と言っても簡潔さを追い求める数学者の目には、瑕疵らしきものが映っていた。
かの有名な平行線公準(第五公準)である、「1 直線が 2 直線に交わり、同じ側の内角の和を 2 直角より小さくするならば、この 2 直線は限りなく延長されると、2 直角より小さい角のある側において交わること」の、この冗長さこそが棘であり疑念の種だったのだ。
多くの数学者が、より基本的で簡潔な定理を考案しようと試み、失敗してきた。ついには、背理法を使って、第五公準の内部に構造があることが証明されるに至った:
素数から離れてしまった。
素数には、一見すると、単純そうに見えるが、証明がされていない予想がある。所謂、ゴールドバッハの予想である。それは、「ゴールドバッハの予想:「どんな4以上の偶数でも,2つの素数の和で表わされる」 であって、問題自体は、素人の小生でも理解できる。
しかし、証明はこれまでされていない:
冒頭近くで、小川洋子さんの新作『博士の愛した数式』を紹介したが、小説というわけではないが、小説より面白いオリバー・サックス著『妻を帽子とまちがえた男』(高見幸郎・金沢泰子訳、晶文社)には、興味深い症例が幾つか扱われている。
中でも、他の知的能力は劣るが、数に対する能力には目を見はるものがある子供の症例が関心を呼ぶ:
こうした事例を知ると、脳や知能の神秘も凄いが、数字の「万物照応」する神秘が思われて、興味は尽きないのである。
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