夏座敷…風
いよいよ本格的な夏に突入である。東海や関西地方以南は、連日の猛暑だとか。
そんな中、こと小生に付いては、扇風機という文明の利器に助けられつつ、読書と居眠り三昧の日が続く。
表題の「夏座敷(なつざしき)」は、夏7月の季語であり、「襖や障子を外し、簾や風鈴などで涼しく装った座敷」の意だという。
「人間国宝四角く在(おは)す夏座敷 内田美紗」や「夏座敷布裁つときは娼婦めく 渡部陽子」、「はるかより這うて来る子や夏座敷 岸本尚毅」「夏座敷棺は怒濤を蓋ひたる 川崎展宏」「足音のひと現れず夏座敷 桂信子」などの句がネットでは散見された。
現代では、マンション住まい、あるいは一戸建てでも、床下や天井、壁などから隙間風などが通り抜けることなどありえない。可能なら窓やドアを開放することもあるのだろうが、エアコンのお世話になっていて、夏座敷という言葉本来の意味からは遠ざかった風景があるばかりか。
それでも、簾や風鈴、一輪挿しなどで涼しさを演出する心は忘れない人も多いのだろう。
かく言う小生は、風流とは無縁の生活を何十年も送っている。なのに、季語随筆などと銘打って駄文を綴ってみたりして。
以下、夏座敷という言葉の雰囲気とは大違いの駄文を今日も綴ってしまう、のだろう。
ご用心のほどを。
冒頭で、「そんな中、こと小生に付いては、扇風機という文明の利器に助けられつつ、読書と居眠り三昧の日が続く」などと書いた。
優雅といえば優雅だが、仕事柄、生活のリズムが崩れっ放し。隔日に通勤時間や準備などに要する時間を加えると24時間以上の仕事の日があり、その合間は、まさに谷間で、仕事から帰ったら、たっぷり眠れればいいのだが、ほとんど業のように、細切れの睡眠が断続的に続く。
帰宅して一時間ほどしてベッドに潜り込むが、二時間も眠ると目が覚める。
無論、その程度で徹夜仕事の疲れが抜けるはずもない。まとめて眠れるほどの体力もなくなっている。外がカーテンやブラインドなどにも関わらず明るいのを体が感じるのか。あるいは、近所の歓声や下手なピアノの練習の音が耳を神経を甚振るのか。
その前に、小生には睡眠時無呼吸症候群に10歳の頃から悩まされてきた。若い頃は体力もあって、育ち盛りということもあり、耐えられたが、大学生になった頃、18歳の頃には、とうとうこの症候群の悪影響が成長力を圧倒するようになった。
大学生の頃、当初は下宿住まいだったのだが、朝、目覚ましで起きると、第一声は「草臥れたー」である。「疲れた!」であったりする。
前日、運動や何かで疲労困憊して、一晩、寝たくらいでは疲労を癒しきれなかった、というわけではない。
年に一度か二度くらいは、何かの運動でそんなケースもあったかもしれないが、若いのだ、寝る前より朝が疲れ切っている、なんてことがあるはずがないのである。
目覚めた瞬間、体はまさに鉛のように重い。泥のように眠ったわけではないのに、起きると体は泥のように死んでいる。疲労物質が体内に蓄積している。背中に、腰に、脚に、首筋に。
頑固な疲労は、石のように塊となっている。腫瘍が首筋か何処かにできているのではないか。その塊を抉り出してしまえるなら、どんなに楽だろう…。
大学生になって数ヶ月、下宿の床は畳みだったので、友と会ったり講義がなかったりした時は、朝は、下宿生全員での朝食を終えてから部屋に戻り、下宿の畳みに大の字に寝転んで、ひたすら体の疲労物質の排出をイメージしはじめる。寝転んでダメなら、部屋の中で輾転反側する。ゴロゴロ転がり、あるいは頭を畳みに擦りつけて、首筋を折り曲げて、その痛みや窒息感で疲労感を圧倒しようとしたり。
それでも、十代から二十代の頃は、朝、畳でグロッキー状態になって横たわって、次第に眠っているうちに体に牢固として染み込んだ疲れが抜け出していく。ようやく、起き上がろうかなという気になってくる。
疲労回復は睡眠中ではなく、目覚めてからの休息の時に試みる営みだった。
部屋の戸を不意にトントンとされても、若いから気力と意地で起き上がり、なんでもないふりをして、友と付き合ったりする。体は重力によって以上に下へ床へ畳へ大地の底へと引き摺り下ろされるような感覚は覚えたままである。
まして、人とお喋りする余力など、あるはずがない。何十キロも走って体のエネルギーがゼロになっているのに、お喋りなどできるはずもない。起き上がり、畳に坐る、あるいは椅子に腰掛けると、心も体も一挙に沈降する。自分には手の届かない闇の海の底に、沈んでいく。意識は、ひたすらに下降する。
そうした趨勢に逆らって、友との語らいをにこやかに試みる。朴訥な喋り方。それ以外に、自分にはありえない。
座敷というと、夏を連想する。冬は田舎では座敷は寒々しい。奥の床の間や座敷は来客などがない限り、暖房など入れるはずもなく、通り過ぎるだけの、あるいは終日、締め切ったままの部屋に終始する。
が、夏となると、昔はエアコンもなく、扇風機も居間か茶の間に一台あるだけで、後は団扇だけが頼り。
玄関や台所などは窓やドアを開け放っている。風の通りが悪いわけじゃない。田圃を吹き渡る風が、家の中を通り抜けていく。
それでも、日中のある時間帯、風がピタリと止まる瞬間が必ずのように、生じる。
となると、田舎家では、身の置き所がなくなる。外出するとか、家の手伝いとか、何かすればいいものを、夏場となると、田圃も畑もあまりすることがない。草むしりも植木の手入れもあるはずだったのに、全くの能天気の人間だったのだ。
父母も日中の暑い時間帯は(休日などは)寝所で休んでいる。小生も、屋根裏は、とんでもなく暑いので、家の中をうろうろし、挙げ句、一番、涼しそうに見える座敷に、ドテーと横になる。
座敷は、縁側に面していて、簾が廊下に沿って垂れ下がっている。風鈴も吊り下げられているが、風が止むと、風鈴も、ただ情なく項垂れるばかりである。
中学のとき、宿題などは座敷で、夏用の座布団を敷いて、その上に腹這いになって、汗を掻きながらやっていた。
中学2年の夏休みの課題で、岩波新書から出ている「蜂」に関する本を要約せよ、というものがあった。要領の悪い小生は、二百頁あまりの本を頁ごとに丁寧に読み、項目ごとに真面目に要約していった。
その要約は、原稿用紙に換算すると数十枚程度になったような。とても、要約などと呼べた代物ではなかった。
夏休みが終わって提出すると、小生のやたらと分厚い<要約>に比して、あるクラスの仲間は、紙切れ一枚に数行に纏めていた。何たる違い。
後年、そいつは、地元で美人の美容師さんと結婚したと仄聞する。一方、小生はというと、未だに…。
人間の出来の違いといえば簡単だが、雲泥の差に呆然とするばかりである。
一体、夏休みの貴重な時間のどれほどをあの本の読解と要約に傾注したものだったか。無為な夏。座敷の徒な時の浪費。
夏、座敷というと、寝ても覚めても抜けきらない疲労感とわけの分からない宿題に時間をあたら費やしてしまった徒労感を思い出してしまう。
徒労感というと、ガキの頃は、座敷での遊びの種類は決まっていた。おはじきや将棋の駒やタイルの幾片やを兵隊にして、東西の二軍に分けて、戦争ゴッコをするのである。シミュレーションの形で戦争ゴッコしていたわけだ。連判状や宝の奪い合い。
こんな遊びをしていたからといって、外で遊ぶのが嫌いだったわけじゃない。誘われたら、縄跳びだろうが草野球だろうが、鬼ごっこだろうが、チャンバラゴッコだろうが、お医者さんゴッコだろうが、断ったためしはないはずだ。
あくまで誰もが相手にしてくれない時の話である。
さて、雑多な駒を使っての遊びで、一番、試みたのは、自分という王様をどうやって守るか、だった。城の天守閣にあって、周りを多くの兵隊で厳重に警護させる、何処かへ攻めにいく場合も、大将(自分)が倒れては一大事なので、幾重にも兵隊や忍者らに守らせて、闘いの場に赴く。
が、どうやっても、いつかは攻められて首を奪われてしまう。
一番、困るのは空からの攻撃だった。戦国時代や江戸時代がシミュレーションの時代設定だったはずで、飛行機が飛んでくるはずがないのだが、生憎、漫画の本によると、巨大な凧に乗って忍者がこっそり攻め入ってくるなんていう戦法があるらしいと、婀娜な知識は持っている。
空からの攻撃にどうやって対処するか。それは防御するに至難の設定だった。
その駒遊びを一体、何年続けたことか。小学生の頃から始まって、中学生になっても、奥の座敷でこっそりやっていた。もしかして高校生になっても。
いずれにしても、得た教訓は苦いものだった。自分はどうやっても守れない。何処かしらに攻撃の穴が見つかる。自分は決して絶対、安泰な存在ではありえない。
自分という存在は、物心付いた時には、水面下、それとも地面の中に沈みこんでしまっていた。心は育つ前に、蕾となることすらなく、枯れ果てている、そう感じていた。
世界に怯えていた。自分の醜さに怯えていた。世界は自分には無縁なのだと思った。無縁なのだと思うことで自分を守り、傷つくことから逃げ続けることができる、かのようだった。
心は青葉を開く前に、閉じ、固まり、萎縮し、自分でも解(ほぐ)し得ない塊(かたまり)になっていた。石の心…。それを描くことが小生の後年の文学的テーマになったけれど(未だに、まるでできていない)、石になった心を溶解するには、何をどうすればいいのか、まるで分からないのだった。真っ暗闇にあって、皆目見当が付かない。暗夜行路を泥沼の底へ沈んでいくような、心許なさ。
それでも十歳の頃までは快復の余地があったはずなのに、何かに失敗して、睡眠時の障害を負って、体までが石となっていくのを、為す術もなく見守るばかり。
身も心も解きほぐすためにも、そろそろ石をテーマの小品くらいは書いてみないといけないような。
夏座敷風さえもが寝転べり
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