端居…仮住まい
【7月の季題(季語)一例】を眺めていたら、小生には初見の言葉が目を引いた。表題にある「端居」である。
端っこに居る…。文字通りの意味なのか。
しばしばお世話になっている「俳句歳時記」の「季語集・夏」によると、「端居(はしい/はしゐ)」は、 「室内の暑さを避けて、夕食もそこそこに縁先に出て涼を求める」の意で、「夕端居」という類義語があるらしい。
知らないのは小生ばかりで、「端居」なる季語の織り込まれた佳句はネットでも結構、見つかる。アトランダムに列挙してみる:
端居より端居が見えて琉球村
団欒にときをり応ふ端居より 能村登四郎
娘を呼べば猫が来りし端居かな 五十嵐播水
端居して小さき嵩の母なりし opさま
曾てなき端居語りの夜を得たり
悪女にも聖女にもなれず夕端居 青木凛
ガーゼ切るしづかな音や夕端居
くらがりの合歓を知りゐる端居かな 石田波郷(出典:風切)
端居してただ居る父の恐ろしき 高野素十 (出典:雪片)
端居して濁世なかなかおもしろや 阿波野青畝(出典:春の鳶)
端居して遠きところに心置く 後藤夜半(出典:底紅)
翅あらば今たたみ頃夕端居 中村路子(出典:?)
[ これらの中の、「端居してただ居る父の恐ろしき 高野素十」について、ネットで句評を見ることができた:
「花 稲畑 汀子」
この中で、以下のように稲畑 汀子氏は書いている。しかも、その様子を描いたらしい絵も添えられている:
若い頃の俳句と考えられますので、おそらく東大医学部を卒業して間もなくの頃の作でしょう。(05/07/26 追記)]
「端居」という季題は夏、室内の暑さから逃れるために縁先へ出て外気に触れ、庭の風景を楽しんだりすることを言いますが、帰省して生家に帰った作者には、寡黙にただ縁先に座っている父親がとても恐ろしい存在に感じられたというのです。何も言わないで座っている父の巨きさ、その前では、学業を修め、都会の生活に洗練された素十もかなわないのです。この一句には、かつて日本の父親が家庭の中で占めていた存在感が見事に描かれています。
類義語ではないだろうが、似た印象を持たせる季語に「夜濯(よすすぎ)」がある(この言葉の類義語には「夜干」)。意味は、「昼間の暑さを避けて、夜に洗い物をすること」である。夏場は洗濯物が多く出るが、夜などに暑さ凌ぎの意味も篭めて、コマメに洗っていれば、その都度の洗濯物は少なくて済む。
家族の目の届かないところで(別に隠れてというわけでもないが)、テレビのCMの間に、ちょこっと洗う。
そういえば、今朝までの田舎の日々で、夜、汗だくになったポロシャツを脱いで洗面器で石鹸(洗剤)なども使わずに洗っていたっけ。田舎では洗濯というと、老いた父がすることになるので、洗濯物は一切、出さないように工夫していたのだった。夜昼、問わずで、思いついたら洗う。昼間だと洗い物をしている最中は、暑さを忘れるし、水に触れていられるし、好都合だった…のかもしれない。
段々、「端居」からは離れるようだが、夏なればこその暮らしのある風景を表現する言葉に「三尺寝」がある。予想されるように、「そこいらでごろりと横になる短い昼寝」のことである。小生は、夏でなくても、田舎でなくても、椅子があれば、横になる空間があれば、すぐに三尺寝する。
帰京の途中、高速道路のパーキングエリアの隅っこで二度ほど、三尺寝しちゃったし。
その意味では、「外寝」も「暑いときに戸外で寝ること」という意味のようだから、夏の暑さ凌ぎの違うパターンということかもしれない。
「端居」に戻ろう。最初に説明を示したように、「室内の暑さを避けて、夕食もそこそこに縁先に出て涼を求める」の意だという。
単純に夏の日の夕方になっても冷め遣らぬ残暑に堪(たま)りかねて、あるいは、昔のこととて、扇風機もあったかどうか、団扇で扇ぐのがせいぜいの時代、縁側か何処かに出て夕涼みの図を思い浮かべてもいいのだろう。
が、親子の喧嘩があって、気まずくなり、食事が終わったからということで一人、席を立ち、夕風に火照った体と頭を冷やしているのかもしれない。
それとも、失恋をした痛手を食事の最中は、なんとか堪えていて、食事など喉を通りそうもないのを無理して飲み込み、茶碗などを片付けて、「ご馳走さま」の一言も発することができたかどうか、大急ぎで一人になりに外の風に当りに来た、感傷に耽るために…。
この「端居」なる語は、単純な言葉だけに、この言葉を目にした時のその人の感情や気分、その他を好き勝手に思い入れし、使いこなせるような気になるのかもしれない。
おくれ毛や言葉少なの夕端居
端居して目を細めたる子猫かな 南 なぎさ
端居せる君の長脛見しことも
雨音の走りはじめし端居かな 亜矢子
一生を悔いてせんなき端居かな
門跡に我も端居や大文字 碧梧桐?
夫と言ふ不思議な他人夕端居 渡辺 ヨシエ
夫の背の静かに怒る端居かな 地球
端居(はしい)してつげ義春の闇となる
父とわれありしごとくに子と端居 大橋櫻坡子
(このサイトで、「俳句は極楽の文学だ、と唱えたのは高浜虚子である。打算的な社会から距離をとり、花や鳥を中心に句を詠んでいれば救われることが多いという考えだ」という一文を発見。小生には、虚子がそんなことを言っていたのか…と感懐を誘う)
胎の子と一つ呼吸に端居せる
猫に貸す膝より昏るる端居かな 境野 典子
端居の座少しずらして一人入れ
夏の夜は暑い。蒸し暑い。冬の感傷や春の鬱勃たる憂愁、秋の透明すぎる憂愁とはまるで違う世界がある。若ければ、恋の情熱がムンムンということかもしれないが、年齢を経てくると、暑さに頭がボーとして、自分の中に情の念が篭っていることすら忘れがちになったりする。
けれど、夕方になり、食事も終える頃になると、ふと、我に帰る。一人の時を持ちたくなる。一人のときを持つ誰彼が床しく思えたりする。
夏の日は昼であろうと夜であろうと、ずっと感傷の時に浸ることは出来がたいのだが、その代わり、ある瞬間にふと目にした光景の印象が強かったりする。夏の陽光の残像。そんな刹那の光景を表現したり呼び起こしたりするには、「端居」は絶妙の言葉なのかもしれない。
人は、この世にあって、所詮は仮住まいしているだけなのかもしれないし。「端居」は、生きてある一瞬の相貌を端的に示してくれているのかもしれないとも思う。
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