« エンコントロ・ジ・アルモニア(2) | トップページ | エンコントロ(3)…サンバ写真 »

2005/06/01

東京は坂の町でもある

 日曜日にサンバのイベントに行ってきて、昨日、そして今日と疲労の度が増している。踊ったわけでもない、大して働いたわけでもないのに。予想外の快晴に、軽い熱中症か、それとも立ちっ放しという久しぶりの状況に体が参った?
 我が居住する大田区からイベントのあった横浜・八景島シーパラダイスまでは、バイクで往復でも45キロ。ただ、湾岸の高速は海辺の風が吹きっさらしで、結構、神経を使う。
 ただ、こうしたミニツーリングは楽しい! 普通の乗用車よりは座高が高い。だから、車から見る風景とは、ちと違う。
 タクシーなどで湾岸線も走ったことがあるが、仕事中ということもあって風景を愛でる余裕はないが、バイクでは、前後に車のないときなど、海辺の光景をきょろきょろして楽しんでいた。
 東京の高速は、線路や道路、他の高速道などと幾重にも交差しリンクしているので、緩やかな上り下りが続く。
 そうしているうちに、やや連想の仕方に飛躍があるものの、東京って坂の町だったよな、などと思ってしまった。
 せっかくなので(?)、ここに、一昨年の春に綴った「東京の坂道」を巡る雑文を載せておく。
 それにしても、「サンバ」って夏の季語にならないものか。
 さすがに「坂」は、季語になりようがないだろうけど。

[ 後になって気づいた。何故、曲がりくねり緩やかな上り下りの湾岸がどうしたとか、坂の町がどうしたなどという話を連想したかの理由。秘密(というほどじゃない)は、エンコントロの画像を見てもらえばいい。イベントの行われた会場のステージ、その背景を見て欲しい。そう、ジェットコースターだ。小生、休憩時間などに、ぼんやりジェットコースターの様子など、眺めていたのである。普通なら地上世界を圧倒するジェットコースターの音や観客の歓声に耳を聾されてしまうはずが、サンバの音楽や歓声、そして熱気はそんな世界をも呑み込んでいたのだった。 (05/06/02 追記)]

東京の坂道:ゼームス坂篇(03/03/08)
 東京が坂の町であると言うと、驚くだろうか。それとも、そんなことは常識じゃないか、今更、何を言うのかといぶかしむだろうか。東京を知る人は、東京はもともと、武蔵野台地の一部であり、坂や谷が多いのは当たり前じゃないか、ということになるかもしれない。
 無論、東京といっても山の手と下町とは、歴史的事情も土地柄も随分と違う。
 多くの坂の名は江戸時代に命名されたのだが、その江戸の中心江戸城は、湿地が埋め立てられた場所だし、墨田区など時代劇によく登場する下町は、わりと平坦な地なのである。
 だからこそ町民が割りと住み着きやすかったし、そのように指導しやすかったのだろう。
 山の手は森を切り拓いていく必要があったのだ。武家屋敷など広い敷地というイメージがあるが、結構、山林が含まれていたということなのだろう)。
 あまり江戸の町が、坂道を上下したり、谷を望んだり、深い森に迷ったりという光景として時代劇で描かれることはないように思う(撮影場所などの都合もあるのだろうか)。

 恥ずかしながら東京暮らしも今年で四半世紀となる小生なのだが、東京が坂の町であることを意識したのは、そんなに古い話ではない。せいぜい十年にもならないのではなかろうか。
 東京に暮らし始めた当初は新宿の落合界隈で幾度か転居し、やがて高輪に暮らし始めたのは81年である。
 落合近辺に住んでいた時はともかく(とはいっても、落合近辺だって緩やかな坂が方々にある!)、高輪に暮らしていて坂の街であることを意識しないというのは、幾らなんでもひどい。実際、その頃、籍を置かせてもらっていた会社は、山手線を挟んだ海側にあり、年の半分くらいはオートバイ通勤だったが、歩くのが好きだったもので、残りの半分くらいは歩いて通った。
[ここで、落合近辺に住んでいた時はともかく…と書いたかというと、小生が居住していたのは、落合といっても中野区に隣接する地域で、中野区には坂は、2つしかないのだ。ちなみに少ないほうでは、杉並区が1つ、荒川・板橋区が2つ、世田谷区が6つ、豊島区が8つ、台東区が11、北区・品川区・大田区がそれぞれ18個である。渋谷区が25、目黒区が31、千代田区が61、新宿区が91、港区が99! 文京区に至っては106個もある(下記を参照):
タモリ/東京の坂」]

 当時はまだ独特のドブ臭さの漂っていた運河沿いの岸壁にある会社から山手線を越えるまでは、埋め立て地ということもあり、ただダラダラと歩くだけである。但し、ルートはいろいろあって、札の辻という長い坂道を越える場合もあれば、品川駅の長い地下道を抜ける場合もある。
 が、さらに別のルートがあって、それは田町駅と品川駅の中間辺りにある。
 恐らくは当初はJR(国鉄)の工事関係車両や人員が通り抜けるために使われたのだろうが、やがて一般に開放されたと思われる天井の低い暗い一方通行路で、車だと乗用車でないと通れないし、しかも通路は途中で更に低くなっていて、出口付近を抜ける際には、運転手ならば通り過ぎる度につい首を引っ込めたくなるような気分にさせられる。
 歩行者も、その天井の低い部分は、首を斜めにしないと頭を擦るような感覚を覚えたりする。その代わり、このルートを使うと、小生の住処へは最短の道ということになる。山手線を挟んで、会社と自宅とが対蹠点の位置関係にあったのだ。
 さて、山手線を越えると、一気に丘になる。その丘は、実際には古代の海岸線で、その丘の上を通って旧(古代の)東海道が走っているのである。遠い昔、縄文の遺跡なども丘の上には残っている。というか、海水面の高かた縄文の遺跡が残りうるのは高い場所であるしかないのだ。
[余談だが、三田台にある古墳や遺跡を検索しようと「港区三田 遺跡 公園」をキーワードに検索したら、下記のようなサイトをヒットした:
東京都港区の古墳
 驚いたのは(小生が無知なだけかもしれないが、港区芝公園に前方後円墳があるということ。しかも、公園なので古墳の上に上り放題なのだという。そういえば、あの近くを車で通り過ぎるとき、なにか気になる看板があると思っていたのだった。]

 というわけで、どのルートを使おうと、坂道以外に選択肢はない。急な坂を選ぶか、緩やかだがダラダラと上っていくか、せいぜい、そうした僅かな選択肢があるくらいである。
 いずれにしても、高輪に住んでいた頃は、歩いて会社に通った場合は、坂道を登ったり下ったりを繰り返したのである。
 なのに、坂道を意識したことはあまりなかった。…ということは、そもそも自分が呑気というか、ボンヤリというのか、何も考えずに歩いていたということもあるだろう。既にその頃までには島崎藤村だって今ほどではないにしろ読んでいたはずだし、夏目漱石や永井荷風だって読んでいたはずなのに、東京という土地にそうした作家や小説の登場人物が歩いていたとは、あまり意識しなかったのは、実に情ない。
 それほど小説世界と現実世界が分離していたということなのか。あるいは、作家とか小説をあまりに後生大事なものと思い込んでいたのかもしれない。
 さて、坂道を意識しなかったのは、やはり自分がまだ体力的に元気で、むしろ上ったり下っていったり曲がりくねった道をあちこちフラフラしながら歩くのも一興と思うだけだったからでもあろう。
 今だったら、少しでも楽なルートはないかと、そればかりを思ったかもしれない。
 高輪や三田や白金は近年、小生が敬愛するようになった島崎藤村縁(ゆかり)の土地なのである。なのに、そのことに気がつくのは高輪を離れて大田区の工場町の一角に流れてきてからとは、皮肉というか迂闊そのものである。ああ、高輪に住んでいた頃、もっと文学に造詣が深ければ、傾倒していれば、しみじみと日々、文豪らや、江戸時代の事績に関係する道や寺や旧跡や坂を歩いて回れたのに。今となっては、いかんともしようがない。
 せいぜい、泉岳寺をバカの一つ覚えのように幾度か訪れたのみだった。
 さて、今は、大田区に居住している。ここを選んだのも、会社からはオートバイで30分も要さずに通える位置にあるということも理由の一つだった(なのに転居して数年で首になった)。
 が、逆に言うと、歩いては到底、通えない場所であるということも意味する。
 転居した頃は35歳過ぎで、未だ若いのだが、オートバイ通勤一本槍となり、自然と歩く機会は少なくなっていった。仕事が忙しかったこともあり、日曜日など寝たきり状態になったこともある。
 歩く元気がなくなったのである。
 その大田区も小生が居住している場所は埋め立て地だが、池上通り一本を挟んだ向こう側は緩やかな丘になっている。当然の如く、様々な坂道が縦横に走っている。主だった坂道だけでも、ゼームス坂、闇(暗闇=くらやみ)坂、仙台坂、蓬莱(ほうらい)坂、臼田坂、貴船(きぶね)坂…。
 余談だが、東京は坂の街だからだろうか、同名の坂が結構、多い。仙台坂も港区にあるし、くらやみ坂も港区にある(表記が違う)。ゼームス坂を上りきった辺りにゆうれい坂があるのだが、これまた港区に幽霊坂があるのだ(千代田区にも幽霊坂はある)。
 だから、多少、東京事情に通(つう)の方は、ただ仙台坂とは言わず、麻布仙台坂、などと言うのである。このほうが恰好がいいね。
 ところで、今回は、ゼームス坂に焦点を合わせる。というのも、6日付の朝日新聞朝刊にゼームス坂のことが載っていたからである。尤も、その記事は、河原理子氏の手になるもので、「智恵子抄」に絡むもので、坂に脚光を当てたものではない。タイトルは「レモンの最期 詩と真実」と題されていて、「理解し合えぬ愛の二人」をテーマに書かれたものだった。
 小生の下手な要約では誤解されるかもしれないが、要は、一般に感傷的というか叙情的とばかりに思われている「智恵子抄」の奥底に、実は理解し合えない男女の悲劇がもっと読み取れるというのだ。
 本編の中で、その証言を使われている精神科医の町沢静夫氏によると、作家・高村光太郎(1883年生まれ)の詩群「猛獣篇」に「人間の怒りや獰猛さを感じ、ここにこそ光太郎の本質を感じた」という。また、光太郎は、「人を共感的に理解することは不得手」だったろう、とも町沢氏は語っているとか。
 高村光太郎が愛した智恵子だったが、しかし、智恵子は(少なくとも光太郎に比べると)才能の上で凡庸だった。ある意味、ごく普通の女性だったのかもしれない。油絵を描いていたが、自らの才能に限界を覚えていて、光太郎の圧倒的な才能に押し潰されてしまったのかもしれない。光太郎の芸術家としての獰猛な魂は、智恵子を狂気に追いやってしまったのかもしれない。
 尤も、小生にとってその辺りの事情については、既知の話だった。根っからの、とまではいかないが、それでも学生時代から吉本隆明を意識してきた小生である。その吉本は、思想家である前に詩人である。詩人たる吉本は、詩人として高村光太郎を尊敬していた(この間の事情は、既に書いたので略する)。
 その流れで、「智恵子抄」に絡む相互に初めから理解などし合えるはずもない男女の悲劇については知らないわけではなかったのだ。
 実は、この河原理子氏の文章を読んで改めて認識したのは、今も車などでよく通るゼームス坂の近くに智恵子の最期を書いた詩「レモン哀歌」の詩碑があることだ。
 さて、余談が過ぎた。話は坂に戻る。恥ずかしながら、小生は、ゼームス坂を全く誤解していた。というのは、大田区の山王近辺というのは、ドイツ人と関わりの深い地でもある。そして、何故なのか分からないが、ゼームスというのは、あるドイツ人技師の名前で、彼が昔、この坂の辺りに住んでいたからゼームス坂と命名された、というふうに小生の脳裏には刻まれていたのである。
 が、河原氏の記事によると、ゼームス坂というのは、「明治時代に日本海軍で働いた英国人ジェームズさんの屋敷が近くにあった」ことに由来するというのだ。そのジェームズが転訛してゼームスというドイツ風な名称に変わったらしい。
 ネットで調べると、ゼームス坂と呼ばれる前は、浅間坂と呼ばれていたらしい。それが、ジェームズにより「私財を投じて人馬が通りやすい坂に改修したことにちなんで名付けられた」というのだ。
 ただ、ネットでは英国人ゼームスとしか書いていない場合が多い:
 (その参照したサイト、二年前にはあったはずのサイトだが、削除乃至閉鎖されているのか、今、覗くと「ページを表示できません」となる……http://www3.justnet.ne.jp/~tamio-enomoto/index1/name2.html)

 せっかくなので、手元にある『高村光太郎詩集』(岩波文庫刊)に付された奥平英雄氏の手になる「あとがき」に引用されている光太郎の詩作に当たっての姿勢というか覚悟を示す言葉を再引用させてもらう:

「詩を書くのに文語の中に逃げ込もむ事を決してしまいと思った。どんなに傷だらけでも出来るだけ今日の言葉に近い表現で書かうと思つた。文語そのものから醸成される幽玄性と美文性とは危険である。その誘惑は恐ろしい。言葉は必ず洗はう。言葉の肌の附着物を浄め去らう。」

 光太郎にとって女は、智恵子は、あるいは幽玄それとも美文そのものだったのかもしれない。女の中に美文でないものを探し尽くして、そして智恵子は溜め息を、嘆きを、魂を剥ぎ取られ、逆に光太郎は事の本質である真実=幻想を何処までも追いかけたのだろう、か。
 智恵子は、40代で精神の均衡に破綻をきたし、ゼームス坂の途中にあったゼームス病院に48歳で入院し、52歳で結核で亡くなった。智恵子にとってはあまりに凄まじい天賦の持ち主に出会ったことが不幸だったのか、どうか、小生には分からない。でも、悲劇であったことは確かなのだろう。

 下記サイトによると、ゼームス病院は既に跡形もないという。せめて同頁にて、『レモン哀歌』をせめて一読してみよう:
 「東京・お江戸文学散歩

|

« エンコントロ・ジ・アルモニア(2) | トップページ | エンコントロ(3)…サンバ写真 »

季語随筆」カテゴリの記事

文学散歩」カテゴリの記事

コメント

東京は坂の多い町、そうですね。
私は東京の冬、雪が降り、坂道が多いので車が立ち往生するということを聞いて、そう認識していました。

高層ビルが立ち並び、上ばかり見がちですが
起伏に富んでいるのですねぇ。

智恵子と光太郎、この話は私にとっていつも新鮮な思いがあります。
智恵子は、光太郎の才能に憧れ、身を焼き尽くしてしまったのですね。
破綻した智恵子は、それ故に、光太郎にとって永遠になったのでしょうか

投稿: 蓮華草 | 2005/06/01 23:58

蓮華草さん、コメント、ありがとう。
そう、東京の町、歩いてみると坂の町だと実感するし、雪に降られた坂道をノーマルタイヤの車で走ると、緩やかで普通なら坂道とも気づかない道でも坂になっているのだと痛感させられる。実際、小生、数年前、目黒通りの開始点近辺(白金辺り)でタクシーが立ち往生したことがったのです。
智恵子と光太郎。光太郎にとって智恵子は永遠になったかもしれないけれど、でも、智恵子にとっては光太郎や文学の世界は魔の世界そのものだったのかも。彼女の胸中はどのようだったのでしょう。


投稿: 弥一 | 2005/06/02 01:01

東京には坂があるんですね!
ってこんなとぼけた感想もないと思いますが
東京都内をあちこち歩いたことがないもので・・・
東京で坂らしい坂を上ったと言えば娘のキャンパスがあった八王子。
多摩動物園の入り口を見ながら上っていく坂は結構長かった~
都内24区には坂がないものだとずっと思っていた無知な私です。

吉本隆明の本は今も何冊か手元にあります。
改めて読み直してみようかな?

投稿: マコロン | 2005/06/02 02:56

>彼女の胸中はどのようだったのでしょう。

ああ、そうですね。
光太郎側からの事ばかりが世に出て(、光太郎が書いたんだから、仕方が無いかな)

智恵子の胸の内は、誰も知らないのですね。

私も、レモン哀歌や智恵子抄を読んで、光太郎から見た智恵子像をそのまま受け止めていました。
智恵子に思いを重ねて読めば、残酷な話ですね。

智恵子は破綻したあとは、自由になれたのでしょうか。

投稿: 蓮華草 | 2005/06/02 11:32

マコロンさん、コメントありがとう。
本文にもありますが、東京といっても下町と山の手があります。勿論、八王子などは別格としてあるし。
捕物帳などの芝居の舞台は大概が下町で、お堀と柳、木場などが出てくる。
一方、山の手は江戸の頃は武家屋敷が点在していても、ほとんどが狸の出る森や林。場所によっては戦後に至るも(六本木も)屋敷がポツポツあるだけの土地だったとか。
都内23区でも、そんな風だったらしいのです。「春の小川」という童謡も、渋谷が舞台となって作られたとか。
吉本隆明は、最近の本は読みやすい。というか、編集部が書いているからなのかな。

投稿: 弥一 | 2005/06/03 16:40

蓮華草 さん、高村智恵子のことは女性の視点からもっと研究してあげるのがいいのかも。与謝野鉄幹と晶子とは事情が違うみたいだし。
高村智恵子:
 http://www.town.adachi.fukushima.jp/kankou/chieko/chieko.html
 
 小生などは、今、読んでいる島尾敏雄の「死の棘」に、光太郎と智恵子の不幸をついつい投影してしまったり。

投稿: 弥一 | 2005/06/03 16:44

あー「死の棘」 懐かしい
これ以前、買って読んだんです。
最初の書き出しがすごく印象的でした。
チョッと苦しくなる時がありましたが、読み終えて、最後、救われた気分になりました。

映画になったのを観て、松○慶子さんの事
見直したのです。
岸辺○徳さんも、いい役者さんになりましたね

この島尾氏の息子さんかな?チョッと記憶が曖昧ですが、その後の島尾御夫妻のことを書かれた本が出ていますよね
あれ、今、一番読みたい本です

「高村智恵子」のアドレス 有難うございます
ユックリ観させていただきますね(^.^)

投稿: 蓮華草 | 2005/06/03 21:52

蓮華草さん、コメント、ありがとう。
映画の「死の棘」、確か、テレビでも放映されたけど、じっくり見る気になれなかった。どうやら、小説を読みかけて挫折したという負い目が、贔屓する女優である松坂慶子さんが出ているにも関わらず、見るのを躊躇わせたのだと…。
蓮華草さんは、ちゃんと読まれたのですね。尊敬。今度こそはと思って、読んでます。

島尾敏雄の息子さんというと写真家の島尾伸三氏のことかな。「Lands&Memory 記憶の風景 東京~奄美 損なわれた時を求めて Lands&Memory」なんて本があるらしい。
彼ら夫妻のサイト:
http://www.catnet.ne.jp/usimaoda/one_more/


投稿: 弥一 | 2005/06/04 01:56

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東京は坂の町でもある:

« エンコントロ・ジ・アルモニア(2) | トップページ | エンコントロ(3)…サンバ写真 »