紫蘇…青梅…天道虫
土曜日だったか、ある場所へ行く前、図書館に立ち寄り、返却日となった本を返し、道すがら薬局に寄って、栄養補助食品(黄色の箱に入ったビスケット)とダイエット茶を買った。レジの前に立って、前の客の清算の終わるのを待っていたら、あいている方のレジに(店員は一人なので、複数あるレジの空いているほうに立っても意味がない)天道虫が止まった。
あれ、こんな町中に天道虫など珍しいと思っている間に小生の番となった。おカネを出し、お釣りの出るのを待っている手持ち無沙汰もあり、「天道虫さん、病気かな」なんて、戯れに言ってみた。
店員さんは、恐らく虫に慣れない人だ、虫に触るのを嫌う人間だと勘違いしたのだろう、「そんなことないですよ、触っても大丈夫、病気になんて、ならないですよ」と答える。
「いや、そうじゃなくって、(薬局のレジカウンターに止まったのだから)天道虫さん、病気でここに来たのかなと」なんて、言ってみたけれど、意味が通じなかったのか、曖昧な笑みを浮かべるだけ。
会話は成立しなかった。ま、いっか。
そんな小さな話もあったので、天道虫を本日の表題に選ぼうかなと思ったが、どうやら、天道虫は甲虫などと共に、夏の季語ではあるが、時期的には七月の季語例の一つのよう。
なので、断念。
【6月の季題(季語)一例】を眺めていても、なんとなくピンと来ない。
来ない時はどうしようもなく来ない。当たりの来ない釣りをやっているようなものだ。
まあ、ホントは今日の季語随筆にするはずの一文を既に昨夜のうちにアップさせてしまったので(「レイチェル…海の燐光」を参照のこと)、書くための精力がもう、萎えてしまっているのだ。書くためにはエネルギーが要る。散々使い果たしたので、バッテリーは上がっている。
だから、季語例の表を眺めても、目が何処にも焦点を結ぼうとしない。気力が湧かないわけだ。
けれど、レイチェルの伝記本を読んでいて、日々、勇気付けられている。小生には彼女のような生涯を貫くテーマなどないが、人脈を駆使して調査し情報を集め、家庭の事情、肉体的不調などを抱えつつも仕事を遣り通す姿勢に叱咤される思いがするのだ。
彼女のような前向きのテーマはない。けれど、書かずにはいられない切迫感、ほとんど強迫観念のようなものを覚える。何が自分にはあるのか。
それとも、ただの欠如感。不在感。存在感の希薄さ。ひたすらに存在の無を言葉で埋め尽くす不毛で徒労な営為。
そんなことはどうでもいいか。
ホームページでは、ちょっとだけ、棚田のことが話題になっている。ネットの輪の一人の方の故郷の原風景が棚田で、その様子を写した写真などがサイトに載っていたし、我がサイトの画像掲示板にも提供してくれていた(実は、そのあとの、ログハウスの話もお気に入りの話題だった)。
偶然なのだろう、これも小生が折々(と言いつつ、在宅の日は一度は必ず)お邪魔するサイトでも、ある田園風景が話題に上っていた。
ここでの話題の焦点は、知らないものが見たら棚田と思ってしまいそうだが、「谷戸」(やと 又は やつ)という地形なのだとか。
小生は初耳の地形の名称。なのでネットで調べてみたら、関連するいいサイトが見つかった:
「鎌倉中央公園を育てる市民の会」
せっかくなので、棚田か谷戸と絡むような季語を選んで表題にし、多少のことを綴ってみようかと思ってもみた。
けれど、なんとなくピンと来ないのである。相応しいような季語が「苗・代掻く・代田・田植・早乙女・植田」と、ないわけじゃないのだ。
あるいは、蛍(の類義語も含め)のほかに、「蛭・田亀・源五郎・あめんぼう・目高」など、棚田の何処かしらで見かけないこともない生き物を選んだっていい。
だけど、ピンと来ない。感性が摩耗している。
もしかしたら、「レイチェル…海の燐光」を覗かれた方は、その末尾近くに、次のような一文のあることに気づかれただろう:
この拙稿を書いたのは、「レイチェルは、一体、どんな子供向けの物語がすぐに浮かんだというのだろうか」という好奇心もあるが、誰か、これらの記事から物語を書いてくれないかと思ってのことである。
そこのあなた! 挑戦しませんか!
(転記終わり)
実は(容易に想像が付くように)、小生、密かに自分で挑戦しようかと思わなかったわけではなかったのだ。けれど、果たせないまま夜中になってしまって、とうとう着手に及べなかった。その無力感が気力減退の背景にある(ようなのである)。
さて、表題には「紫蘇(しそ)」を選んだ(他に、「ちそ」という読みもある)。これも、ホームページの掲示板その他で、ちょっと話題になったもの。といっても、「辣韮(らっきょう)」や「梅干」のこと。
「辣韮(らっきょう)」は立派な6月の季語だし、梅干はともかく、「青梅」も、そう。
でも、なんとなく、焦点を外したい気分で、梅干を作るにも不可欠な、「紫蘇(しそ)」を表題に選んだという経緯がある。
どうにも、入り組んだ、七面倒な選択の結果である。人間性の曲がり具合が伺えそうな曲折振りだ。
ということで、ようやく本題に入る。
まずは、画像からということで、しばしばお世話になっている「北信州の道草図鑑」の中の、「シソ」の頁を覗かせてもらおう。
「広辞苑」からということで、「しそ【紫蘇】:シソ科の一年草。茎は高さ約60センチメートルに達し、断面は四角。葉は卵円形で互生、鋸歯が目立つ。中国原産。葉と果実とは香りがよく食用・香味料・薬用とし、また梅干漬の色素となる。縮緬(チリメン)紫蘇・青紫蘇などの変種がある」という説明も付されている。
「紫蘇」は夏の季語だが、「紫蘇の実」となると、秋の季語だという。
「梅干漬の色素となる」し、「シソの葉には殺菌、防腐、解熱、解毒作用があ」るとか。
さらに「花は刺身のツマに飾ります」というが、そんな高級な刺身には、小生、トンとお目にかかっていない。
上で、梅干が話題になったと書いたが、小生の書き込みは、「田舎の我が家では、お袋が庭で採れた梅で梅干を作ってきました。で、インスタントコーヒーの空き瓶などに詰めて離れた東京にいる小生に送ってきてくれました。
そう、それも過去の話。今はお袋は体の自由が利かず、何もできないと嘆いています。自分の部屋に未だ残る梅干。一粒食べるたびに、当然、残りが少なくなる…。食べるべきか、ずっと残しておくか、迷うところです」というもので、とても寂しい内容。
だから、尚更、梅干の話題には取り組めなかったのだ。そのうち、酸っぱい思いを堪えながら、書いてみよう。
「紫蘇」の類義語には、「青紫蘇 赤紫蘇」があり、「他に葉の縮む縮緬紫蘇がある」という。
ネットでは、「紫蘇の香や朝の泪のあともなし <藤田 湘子>(ふじた・しょうし)」とか)、「夕風に揺れる私と紫蘇の実と」(連宏子)などが目に付く。
ネット検索していたら、サルビアもシソ科の植物で夏の季語とあって、ちょっとびっくり。でも、6月の季語例からは外れる。
「紫蘇」という季語の織り込まれた句ではないが、「村の名が消ゆ三日三晩の梅を干し 小堀 葵」なる句があった。句意は当該のサイトを覗いて欲しい。
紫蘇の葉を使った梅干しの作り方なども書いてあって楽しい。
「紫蘇」や「梅干し」に主眼があるわけではないが、「探梅しませんか」という頁は、「梅」の語源も含め、梅のあれこれが書いてあって、なかなか楽しませてくれる頁である。本来なら春の予感のある冬の終わり頃に紹介すればいいのだろうが、その頃に、このサイトにめぐり合えるか分からないので、今のうちに紹介しておく。
「香を探る梅に蔵見る軒端かな (芭蕉)」という句を今、(梅干しの代わりに?)味わっておいてもいいし。
語源というと、ネット検索していたら、「紫蘇(しそ)の蘇も一字で(しそ)を意味します。意外ですが、蘇は蘇聨(それん)でソビエト連邦の意味もあります」という一文を見つけた。別に失礼ながら、その説を疑う訳ではないが、典拠など、確認できないので、引用だけしておく。
尚、以下は、小生の旧作である:
花の房虎の尾よりも紫蘇らしく
紫や葉っぱの海に輝きて
さて、最後ということで、「紫蘇」がそれなりの役目を果たしている童話に島崎藤村の「草摘みに」があるらしい(童話集『ふるさと』?)。「筍の皮に紫蘇の葉漬けを入れて吸った父の思い出」らしいが、小生は未読。
小生の好物に「しその香」といういフリカケとか、「しそかつおにんにく」が長年の友として欠かさない、なんてのは、ただの余談である。
それにしても、表題の「紫蘇…青梅…天道虫」は、順序が転倒しているのではと思われた方もいることだろう。小生もそう思う。けど、放置しておく。この違和感がいいのだ?!
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