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2005/06/25

北条義時法華堂跡

 車中でラジオを聴いていたら、北条義時の法華堂なんとかという話題が飛び出してきた。
 北条義時?! 名前くらいは知っている。でも、歴史にも疎い小生のこと、うろ覚えだったり曖昧だったり。
 ここはネットの利便性を実感させてもらうことにしよう。
 北条義時とはどんな人物か。「1163~1224(長寛1~元仁1)鎌倉幕府の執権。時政の嫡子」。「1219年(承久1),源実朝暗殺によって源氏の血統が3代で滅びた後は姉政子とともに幕政を握り,京都から九条道家の子三寅(頼経)を将軍に迎えて北条氏専制の基礎を築き上げるのに成功」。「1221年,後鳥羽上皇の討幕計画をキャッチし,先手をうってこれを京都に攻め京都を占領して上皇方に打撃を与えた。後鳥羽上皇を隠岐に流し,六波羅探題を設置し,さらに朝廷方の所領を没収して新補地頭を置き,幕府権力をゆるぎないものにした」という点などを読むと、いかに重要な人物かが分かる。
 源氏が打ち立てた幕府の政権基盤は危ういものだった。それを磐石にしたのが義時だったと思っていいのだろう。朝廷を権威の座に置き、実権を武士の手中にしっかりと収めたのだ。

 鎌倉時代というのは、日本の歴史の画期を為す時代だと言っていいだろう。
 それまでは天皇やその周辺が政権の中枢を担ってきた。文化も歴史も彼らによって作られ記述されてきた。が、多くは中国(朝鮮を経由した中国)からの輸入であり、上からの変革だった。
 が、日本には縄文時代以来(あるいはそれ以前から)の<歴史>があるはずだったが、縄文時代以来の文化的土壌や風習、発想などは、地理的辺境や歴史の背景に押しやられていた。それが貴族勢力の衰退と武家勢力の勃興により、あるいみ日本の土壌的な文化やエネルギーが噴出した。
 その典型を宗教に観ることができる。鎌倉仏教の台頭で初めて日本に土着した、民衆の目線に近い日本独自の宗教が生まれたわけである。法然、親鸞、日蓮、栄西、道元などなど(独自の宗教、仏教とはいいながら、仏教とは似ても似つかぬ側面さえ持つ土俗的な信仰。この点については、拙稿である、「侘と寂と宗教と」などを参照のこと)。

 北条氏についてのもっと詳細な理解は、「歴史の自習室」の「北条氏の台頭」が面白いし分かりやすい。
「北条義時は、時政の子として1163年に生まれた。1180年、源頼朝が挙兵すると、父・時政に従い、従軍した(義時18才)。1204年、父・時政が後妻・牧の方と企てた陰謀事件を未然に防ぎ、時政を隠居させ、2代執権になった(義時43才)」という大枠を理解した上で、なんといっても有名な事件である「源実朝暗殺」について見てみる。
 つまり、「1219年、3代将軍・実朝が、二代将軍頼家の遺児・公卿に殺害されるという事件がおこった」というものだが、従来は、「この実朝暗殺事件は、北条義時の陰謀と言われていたが、最近別の説がある」という。
 かねがね、実朝暗殺事件は、北条義時の陰謀という説はまことしやかに語られてきた。が、「「北条氏に次ぐ有力御家人・三浦氏は北条氏に取って代わることを目指し、実朝を暗殺して同時に北条義時も殺そうとしたが、義時抹殺には失敗したので、口封じに実行犯の公暁を殺し、自分達の陰謀の発覚を防いだ。」というものである。この説は現在支持されている」という。

 もう一つ、北条義時に関係する、乃至、関係付けられて語られる歴史は、「承久の乱(1221年)」である。
 鎌倉幕府が樹立されたとはいえ、「幕府の支配が及ぶのは東日本のみで、西日本は依然として京都の朝廷が支配していた。これに対し、朝廷の中には幕府の東日本支配を不満とする貴族たちがいた」のだった。
 そうした貴族たちの中心に後鳥羽上皇がいたわけである。「朝廷の実権を握っていた後鳥羽上皇は、北条氏を滅ぼして鎌倉幕府を崩壊させ、再び朝廷が日本全土を支配することを企てていた。後鳥羽上皇は、西面の武士を設置して、自己の戦力を増強するなど、不穏な動きを見せた」のである。

 「比叡山の座主・慈円は歴史書「愚管抄」を著し、武家の日本統治は歴史の必然と説き、後鳥羽上皇の野望を思いとどまらせようとしたが、後鳥羽は全く聞く耳を持たなかった」と、上掲のサイトにあるが、時代の趨勢を冷徹に見抜く人物というのは、いるものだと、小生は素直に感心する。

 しかし、「1221年、後鳥羽上皇は日本中の武士に執権・北条義時の追討を命令したの」だった。
 が、ことは後鳥羽上皇側の思惑とは全く違う推移を辿った。
 結果、「幕府は、19万の軍勢で京都に向かって進軍を開始した。後鳥羽上皇の命令で日本中の武士が結集すると安易に思い込んでいた後鳥羽側はあわてふためくだけであった。幕府軍は上皇軍を撃滅、圧倒的勝利をおさめた。この内乱を承久の乱と呼ぶ」。

 後鳥羽上皇は島流しとなり、「朝廷の監視と西国御家人の統制のため、京都に六波羅探題を設置」され、「鎌倉幕府は武家政権崩壊の危機を乗り越え、さらに西日本にも統治権を行使するようになったのである」。そうした重要なターニングポイントに北条義時は二代執権などとして関与したわけである。

 さて、冒頭に書いた、未明だったかに聞いたニュースというのは、「北条義時法華堂跡を確認  (鎌倉市 国指定史跡追加申請へ)」というもの(東京新聞の記事)。
 例によってニュース記事は早晩、削除されるのだろうから、勝手に引用させていただくと、「鎌倉市西御門の通称大倉山の文化財発掘調査で、鎌倉幕府の第二代執権の北条義時の法華堂(墳墓)跡が確認された。市世界遺産登録推進担当は二十四日、「吾妻鏡の記述と一致する地点から建物遺構が検出され、義時法華堂である可能性が極めて高いと判断される。周辺にある国指定史跡の追加指定を、国に申請したい」と発表した」という。
「同法華堂跡が確認されたのは、鎌倉幕府を切り開いた源頼朝法華堂(国指定史跡)の東側に当たる大江広元の墓とのちょうど中間に位置する二百七十五平方メートルの土地」だという。
「市では、源頼朝の法華堂がある山林約一ヘクタールを三年前、所有者の島津家などから寄贈を受けたのを機に、エリア内の維持管理と同時に義時法華堂の発掘調査による国史跡指定の拡大を目指していた」とか。

 関連する記事は、「asahi.com マイタウン神奈川 - 朝日新聞地域情報 北条義時の法華堂「吾妻鏡」の場所に」でも読めた。「法華堂は貴人の納骨堂のこと」という説明も付されている。
「吾妻鏡に「頼朝法華堂の東の山上をもって墳墓となす」の記述がある」というが、その位置は、義時の(歴史上はもちろんだが)幕府内での位置付けの重要さを示すわけである。まさに、その場所から義時の法華堂跡が確認されたというわけだ。

「源頼朝公墓塔周辺・大倉幕府跡関連」については、「鎌倉ひとすじ」なるサイトが詳しかった。小生は、別にこの方の支持者というわけではないのだが、あれこれ教えてくれるので、学ばせてもらう。
 いろいろあるが、失礼ながら、「平成17年6月7日」の記事に飛ばせてもらう。
「北条義時法華堂遺構調査現場」「鳥居の奥に大江広元・島津忠久の墓がある」「八幡宮境内にある白幡神社で琵琶の奉納」などの画像も興味深いが、「島津家、毛利家から無償で寄贈された源頼朝公墓一帯のなかにある、北条義時法華堂遺構がいよいよ発掘調査開始され、重要遺構が期待されている」点に注目。
「現在の源頼朝公墓は薩摩藩主・島津重豪によって、江戸後期に建立され、明治になって、周辺一帯は島津・毛利家によって買収され、鎌倉市に移管されるまで両家が所有されていた。鎌倉市に寄贈されることより、発掘調査が実現した」という。

 上で、「同法華堂跡が確認されたのは、鎌倉幕府を切り開いた源頼朝法華堂(国指定史跡)の東側に当たる大江広元の墓とのちょうど中間に位置する二百七十五平方メートルの土地」といった記事を転記しているが、島津家、毛利家からの無償寄付が(2年前)行われた、その広さというのは、「国史跡である源頼朝公の顕彰墓のある山林約1万平米」だというから、凄い。

 念のためというか、好奇心から、発掘調査されていた神奈川県鎌倉市西御門2丁目を地図で観てみたい。うまく地図にリンクさせられないので、「Mapion」サイトの住所入力欄に「鎌倉市西御門2丁目」を入力して確認してもらいたい。
 建長寺と鶴岡八幡宮と鎌倉宮などに囲まれた一角の真ん中に位置していることが分かるはず。
 そういえば、昨年の秋、この辺りを散策したのだっけ(その当日に中越地震があった!)。そんなこともあって、尚のこと、小生には興味深かったのかもしれない。


[ 源頼朝と北条義時の関係を見ておきたい。今、NHKテレビ(総合)では、大河ドラマ「義経」を放映しているようである(小生は全く、観ていない)。「北条義時 - Wikipedia」を参照させてもらう。特に、源頼朝の死以前は、あまり本文で触れていないこともあり、メモだけしておきたいのである。
「初代執権・北条時政の次男で、源頼朝の妻となった北条政子の弟に当たる。江間小四郎と称した。頼朝の挙兵である石橋山の戦いで兄の北条宗時が戦死したため、嫡男となり、北条氏を継承する権利を与えられた。
父や兄と同様に、早くから源頼朝の挙兵に参加して有力御家人の地位を与えられた。その後も平氏討伐や奥州藤原氏の討伐など、頼朝の主要な合戦の大半に参加したが、義時は武勇で名を挙げるよりも、戦後の軍政などを得意とする人物であり、行政面において多数の功績を挙げているのである。いわば義時は、官僚タイプの鎌倉武士であったと言えるであろう」という。
 頼朝死後の重要人物は多々いるが、なんといっても、北条政子に尽きる。
「北条政子(1157~1225)は、源頼朝の妻。伊豆の韮山で勢力を誇っていた北条時政の娘。伊豆に流されていた源頼朝と恋仲となり結婚。治承四年(1180)、頼朝は平家追討の挙兵を行うが最初の石橋山の戦いで敗北するが、立ち直った頼朝は、源氏ゆかりの地、鎌倉に入り政子を迎える。そして念願叶って平家を滅ぼす。政子も征夷大将軍の夫人となる。夫・頼朝の亡き後、「尼将軍」と呼ばれ、鎌倉幕府に君臨。御家人達による合議制を幕府の基本方針とし、これに反対する者は、身内であろうと、功労者であろうと、容赦なく追い払った。承久三年(1221)に起こった承久の乱では、朝廷に立ち向かうことを恐れた御家人を統率して、上京させた。恐らく政子は日本の数少ない女性政治家の中で、最も知名度の高い人物であろう」という。
 が、名高いだけではなく、彼女こそが北条一族の、というよりも武家政権の影の立役者・戦略家なのではないか。 小生などは、彼女をこそ主人公にドラマ化したほうが面白いと思う。武より知略で時代を動かした歴史の醍醐味が彼女の生き様を通じて味わえること、間違いないと思う。(05/06/27 追記)]

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