出発は遂に訪れず…
島尾敏雄著『死の棘』、ついで、『出発は遂に訪れず』を読んだ。既に本は図書館に返却してしまったので、手元に本を置きながら感想を綴るというわけにはいかない(『死の棘』については、ちょっと感想を書ききれないので、後日、その気になったら試みる、かも)。
ここでは、『出発は遂に訪れず』だけを念頭に。
なぜなら、奇しくも、天皇、皇后両陛下が27日、慰霊を目的にサイパン島(米自治領)を訪問されたのだから。
ここは、『出発は遂に訪れず』について、今福龍太氏の「浦巡りの旅へ」を参照させていただく。
氏は、「浦」について、「今年九月で没後百周年を迎えるラフカディオ・ハーンは、山陰は加賀(かか)の潜戸(くけど)を小舟で訪ねた名エッセイ「子供たちの死霊の岩屋で」の冒頭で、通りがかった御津浦(みつうら)という小邑の様子を「山を背にして高い断崖に取り囲まれた、小さな入り江の奥にある村である。崖の下に幅狭い浜がわずかに開けていて、そのおかげでこの村も存在しているのだ」と書いたが、浦という地形の景観学的な定義として簡潔でつけ加えることがない」と書いている。
「奄美、加計呂麻島の呑ノ浦(ぬんみゅら、と島人は発音する)は、浦浦が果てしなくつづく大島海峡沿岸のなかでもとりわけ奥深く、内に折れ釘のように曲がった細長い入り江で」、「戦時中にここに震洋特攻隊基地が置かれていた」。「のちの作家島尾敏雄が若き隊長としてここに赴任した」のである。
「「出発は遂に訪れず」は島尾敏雄がのちに呑ノ浦での経験をもとに書いたいくつかの作品のうちの一つである。原爆が投下されたことを知りつつ、出撃命令を受けたまま敗戦の朝を迎えるまでの極限状況が、この直截な表題に示されている」。
参考に「震洋艇」を:
「奄美写真館 - 鹿児島奄美大島-加計呂麻島の離島風景を紹介」というサイトで、「加計呂麻島ギャラリー」、特に、「呑ノ浦震洋」の画像などを:
いよいよ出撃かというギリギリの時に、隊長である<わたし>、つまり島尾敏雄に日本の無条件降伏の通達が告げられるのだが、部下にどのように告げたらいいかで、また、惑う。聞くところによると、部下の突き上げで、敗戦が決まってからも、突撃していった隊もあったと彼は聴いているのである。自分の隊で、部下から、出撃を! と言われたら、制止し切れるか覚束なかったりするのである。
更に、「島尾敏雄による呑ノ浦での極限の敗戦体験は、妻ミホの側から「その夜」という壮絶な短編として描き直されている」という。土地の娘・トエへの想いが常に脳裏にあったわけである。が、隊長として百人以上の死を覚悟している部下に命令を伝える立場にあって、その想いを欠片も表に表すわけにはいかないし、他人に悟られるわけにもいかない。
以下、同氏による「浦巡りの旅へ」の全文を是非、読んでいただきたい。「初出:「朝日新聞」(夕刊)2004年9月6日~8日」ということで、長い文章ではないのだし。
尚、妻ミホの側の思いということで、「チャンネルK 2004/12/13 00:00 第5部「特攻隊を思う」(中) 二度とあってはならない 作家島尾ミホの思い」が参考になる。
小生は初耳なのだが、「純愛を描いて三百万部を超える大ベストセラーとなった小説「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一著)。恋人を病気で失う主人公は、島尾が特攻体験をつづった「出発は遂に訪れず」を読む。死と背中合わせの愛は今も若者を引きつけるのだろうか」だって。
小生は、以前、『昭和万葉集』(講談社刊)の戦中の巻を拾い読みしたことがある。様々な思いの数々が歌に篭められていて、強く感じるものがあった。
戦争への思いは各人毎にちがう。
例えば、吉本隆明氏のような幾分、翳りのあるというか、入り組んだ気持ちで終戦を迎えた人物もいる。「小熊英二著「<民主>と<愛国>」(新曜社)」を書評した頁があったので、メモしておく。いつか、読んでみたい本の一冊なのだ。その中に、小熊英二氏が吉本隆明氏をどのように理解しているかが、記述されている。
吉本隆明氏は、戦争中は昂揚した気分だったと語っていたような。決して、暗い一方の雰囲気ではなかったとも。多くの人は、負けるとは信じていなかったのだ。
ネット検索していて、かの哲学者の梅原 猛氏も特攻隊に志願したことがあったことを知った。「日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【教育問題について】」を読むと、以下の発言が見つかる:
それで東条英機を、戦犯を祀った。私は戦争中、どうせいずれは靖国に行かにゃならないだろうが、彼らと一緒には行きたくないと思いましたね。戦争が始まったということに関しては、いろいろ予測はあったのだからしかたないとしても、あの絶望的な戦いを継続した人は許せない。そのために何百万人がむなしく死んだのですから。特攻隊なんていうものを発明して、前途のある若い人を殺した。運動神経が鈍くて落ちましたが、私も特攻隊に志願しましたよ。私は、靖国神社に、特攻隊に私たちを行かしめた人間と一緒に祀られたくないと思った。
最後の、「私は、靖国神社に、特攻隊に私たちを行かしめた人間と一緒に祀られたくないと思った」というのは、実感ではないかと小生は思う。
よく、「靖国で会おう」とか、「靖国に祀られる」から、という思いで死んでいったのだ、だから、なんとしても靖国神社参拝は至上の営みとして行われるべきだといった主張を聞くことがある。
仮に小生が戦時下にあって、「靖国で会おう」と口にしても、それが本音のはずはないと思う。特攻隊という愚考を発案した連中、負け戦を続けた連中はともかく、戦時中にあっては、一兵卒など聖戦以外のどんな発想を口にしえるだろうか。日の丸や君が代が絶対なのである。御真影の前にあっては直立不動しかありえなかったのだ。
小生は、「靖国で会おう」とは、つまりは、故郷(ふるさと)で会おう、生まれ育った地で会おう、生まれ育った家で家族と会おう、友と会おう、恋人や両親、家族、子ども等、恩師らと会おうという意味だと思う。
つまり、「靖国」というのは、本音においては、郷里の鎮守の森であり、地元の神社であり、お寺であり、家の茶の間であり、裏の庭であり、田圃であり、森や谷であり、峠であり、池や川、浜辺などを意味するのだと思う。
さて、「出発は遂に訪れず」は、出撃命令を受けたままに突然、無条件降伏の通達を受ける。それはそれで、あまりに悲惨である。死を覚悟していたのに、その悲壮な覚悟は、その情念は、憤懣は何処にぶつけたらいいのか。あるいは、顔は厳粛なままであっても、内心はホッとしていたのか。思いは様々なのだろう。
が、中には、出発が既に訪れてしまった人々も数知れずいる。
つい先日、「天皇、皇后両陛下が27日、慰霊を目的にサイパン島(米自治領)を訪問された」。
「サイパンといえば、グアムと並ぶ太平洋上のリゾート地となって久しいが、太平洋戦争では「玉砕の島」だった。1944年6月15日、米軍が上陸、激戦の末7月7日、日本軍守備隊は玉砕した。沖縄戦と同様、民間人を巻き込んだ惨劇が各地で起き、日本軍・軍属4万3000人、民間人1万2000人、米軍3500人、現地の住民930人が命を落とした」のである。
「かつてサイパンはドイツ領だったが、第一次世界大戦後、日本の委任統治領となった。沖縄などから入植し、サトウキビの製糖業やカツオなどの漁業が盛んだった。そういう平和な島が戦場になった。島の北部に追い詰められた日本軍は、未明に「天皇陛下バンザイ」と叫びながら最後の総攻撃を行った。「バンザイ突撃」として知られているが、民間人も兵士の後に続いた。夜が明けると4300人の遺体が残ったという。」
さらに、「島の北端の岬に有名な「バンザイ・クリフ」と呼ばれる険しい断がいがある。米軍に追い詰められた多くの日本兵や民間人がやはり「天皇陛下バンザイ」などと叫んでこのがけから海に飛び降りて亡くなった。そういう島だからこそ、ぜひ慰霊したいと、天皇陛下が強く希望されたに違いない。両陛下は同じく多数の兵士・民間人が飛び降りて亡くなった「スーサイド(自決)・クリフ」も訪ねる。」
尚、サイパン訪問時に韓国人犠牲者慰霊の「韓国平和記念塔」をも訪れられたようである。
一方、28日(29日早朝だったかもしれない)だったか、ラジオで戦没者の遺骨収拾についての、ちょっと悲しいニュースが流されていた。
過日、小泉純一郎首相らが硫黄島(東京都小笠原村)で19日、政府主催で行われた戦没者追悼式に参列したが、その硫黄島での激戦では日本側だけでも2万人以上の戦死だったのだが、日本政府はこれまで収集した遺骨は約8500柱に止まっている。数多くの遺骨が現地に眠っているわけである。
その海外の遺骨の収集に関し、尾辻秀久厚生労働相は、戦後60年を経過して遺骨の傷みも激しく、触れると砂のようになってしまう。近く、大規模な収拾をして、政府としての遺骨収拾の事業に区切りを付ける、というのである(但し、シベリアなどの遺骨の保存状態のよい地域は別儀だとか)。
なんだか、空しい話である。考えようによっては怒りの気持ちも湧く。戦争に駆り出し、遺骨さえ放置したままで切り上げる。小泉純一郎首相が靖国神社に参拝に行くというのなら、海外などの遺骨を全て収集してからにしてみればと言いたくなる。
出発の遂に訪れてしまった人々…出発を無理強いした人々。
さて、一体、何処へと旅立ってしまったのだろうか。
靖国を胸中に思い描いた人も居るかもしれない。が、多くはそれぞれに違う場所を思っていたのではなかったか。まして殺された人々は。
今となっては、本心を聞くことも叶わない。
せめて、日本にも、国内の犠牲者だけではなく、海外の犠牲者も慰霊する追悼・平和祈念施設を一日も早く建設し、国内外の人たちが、宗教・国籍・民族に関係なく共に平和を祈ることのできるよう、小生も願っている。
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