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2005/06/28

白夜…夢想家

 例によって夜半となると、さて、今日の表題は何にするか、テーマをどうするかで悩み始める。
 悩むというのは、ちょっと大袈裟だが、迷って迷って、二進も三進もいかなくなることはしばしばである。ま、好きでやっているのだから、それはそれで仕方がない、自業自得というものなのだろう。
 で、6月の季語例を眺めていて、そろそろ6月も終わりに近付いている今日になって、「白夜」という季語があることに気づいた。何を今更、であるが、この迂闊さが小生なのである。
 いつもお世話になっているサイトで「白夜」を見てみる。
「白夜(びゃくや)」(はくや)は、「夏の日没後も明るさが残り、薄明のまま朝になる現象」だという。それはま、その通りなのだろう。
 分からないのは、日本には白夜を体験できる場所があっただろうか、ということ。
 カナダ、アラスカなどの北米大陸のさらに北部地域、スウェーデンやノルウェー、フィンランドなどの北欧、ロシア(シベリア)…。まあ、北極などは、別格にさせてもらうとして、こういった地域へ旅したというのなら、経験することもありえる。
翼灯集1412」なるサイトを覗くと、「カナダ詠十六句は氷河八、白夜二、お花畑二、夏炉一、万年雪一、秋の湖一、ポピー一で構成される。氷河・白夜ともに日本では見られない景であるが、それを詠むという敢然とした精神で貫かれている」などと書いてある。

 俳句をたしなむ人が、北欧などへ旅し、異郷の地で敢えて句作に挑む。
 そのような形で句が生まれ、いつしか、季語の仲間入りを果たしたのだろうか。
「夜も明るい、夜も太陽が沈まないという伝聞は、白夜の国を神秘の国、おとぎの国のようにイメージさせる。白夜という言葉は美しい。ハクヤと読んでもビャクヤと読んでも響きがよい。響きもよいが漢字の表記もすばらしい。黒でイメージされる夜を白との組み合わせで第二の闇として表す。この文字の発明が白夜を詩の言葉にした要因だろう。日本人には「夜長」「短日」「明け易し」などの季語を育んできた民族としての経験や感性がある。その延長線上に白夜が想像されるのではないか。昼夜の長短や時刻の微妙な差異を敏感に感じる民族的特質が、他国の季節を表す白夜を季語として受け入れる素地を培っていると考えられる」という点、とりあえずは素直に受け止めておくべきなのか…。
 海外詠ならではの新鮮な句境? 小生には判断が付かない。まあ、そういう経緯で季語に入ってきたというのなら、それはそれで構わないのだが、しかし、何故に6月の季語なのだろう、などなどの疑問は残る。
 あるいは、恐らくは想像を絶するほどに厳しい環境であるはずの砂漠を、 「月の砂漠をはるばると 旅のラクダは 行きました 金と銀との 鞍置いて 二つ並んで 行きました♪」(「月の砂漠」作詞:加藤まさを/作曲:佐々木すぐる)などとロマンチックに表現して澄ましている日本的想像力の人の良さというか(敢えて乏しさとは言うまい)、呑気さというか、世間(世界)知らずな特性(歌の舞台は、外房御宿海岸なのだから、仕方ないのだけど)、ちょうどそのように、「知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ 思い出しておくれ 俺たちのことを 飲んで騒いで 丘にのぼれば 遥(はる)か国後(くなしり)に 白夜(びゃくや)は明ける♪」(「知床旅情」森繁久弥作詞・作曲)といった歌に歌われるように、「白夜(びゃくや)は明ける」という歌詞がすんなり受け入れられるのだから、「白夜(びゃくや)」といっても、「夏の日没後も明るさが残り、薄明のまま朝になる現象」などと杓子定規に考える必要はないのかもしれない。
 夏の日の、いつまでも暮れない宵、それとも、宵越しに遊んだり語り合っているうちに、気が付くと、夜が白々と明けてくる、その青春の日の懐かしさなどをしみじみ感じたり思い出していたりすればいいのかもしれない。

「白夜」というと、人によっては白夜書房を思い出される方もいるのだろうが、小生は、やはりなんといってもドストエフスキーの小品の「白夜」となる。学生時代から社会人にかけて、十回ほどは読んだのではなかろうか。まあ、ドストエフスキーの小説は、全作品をそれぞれ最低3回は読んでいるわけだから、短篇だと文庫本でその二倍、三倍と読んでいても不思議はないのだけれど。
Amazon.co.jp: 本 白夜」の読者レビューを読むと、「白夜の古都を舞台に、夢想家の青年と美しい少女が織り成す恋物語。前編が幻想的な雰囲気で彩られていて、二人のまるで一夜の夢のような邂逅が語られる。美しく切ない短編。おすすめです」とか、「主人公はドストエフスキーがお家芸として好んで描く夢想家であり、俗世からあまりにもかけ離れた幻想の世界にどっぷり浸かっているので、いざ現実世界で恋が訪れてくるとまごついてしまう。だが空想の世界で培われた一種の純真さをもって相手の女性をひたむきに恋い慕う姿が微笑ましく、ついつい応援したくなる」、あるいは、「話は、夢想家の青年がナースチェンカという女性と出会い、一途に愛するその成り行きを描いて行きます」などとあって、いずれも、判で押したように、「夢想家」というキーワードが出てくる(あとは、「幻想」だろうか)。
 訳書を見れば分かるが、副題に、「感傷的な物語」とか、「夢想家の思い出より」などとあるのだから、ある意味、(日本語訳の)読者は、「白夜」と「夢想(感傷)」とが、最初から印象に刷り込まれているのだとも言えなくもない。サブリミナル効果という言葉(心理学的手法)があるが、これほどあからさまなのだから、「夢想家」という言葉を読書感想文においては使わざるを得ないわけである。

 しかしながら、これでは堂々巡りである。どういう意味かというと、「白夜」を北欧や極地の本物の白夜ではない、飲み明かす夜、恋人と語らい明かす夜という感傷的なニュアンスで受け止めるように、「夢想」にしても、まさに感傷的な印象から一歩も食み出さないのだから、結局のところ、白夜といい、夢想といい、つまりは、ロマンチックな一夜、センチな夜明かしという印象にとどまってしまう。
 日本の中で語り合うなら、それでもいいのかもしれない。
 が、ドストエフスキーとなると。あるいは北欧や極地となると、さて。
 彼が描く主人公は並外れて感受性が強く、想像力が逞しく、現実と接していても、彼の夢想の中の現実、更に言うと、何処まで行っても妄想の中の妄想としての現実に他ならないのである。
 ドストエフスキーには癲癇の発作が持病としてあったと言われるが、その症状の渦中にある彼には、世界が我々(少なくとも凡俗たる小生)とはまるで違った相貌を見せていたに違いない。想像の限りを尽くしても及ばないような世界が<見えて>いたのに違いない。
 そう、白夜の夜に出会ったのは、可憐な女性であり、幻想的な河であり、永遠に暮れることのない空であり、万物のそれぞれが命を育んでいるかのような不可思議の世界だったのである。
 夢想家の彼が、リアリストを自認するような誰よりもリアルに見え、感じられていたに違いないのである。けれど、それは凡人には夢想の中の戯言、空想の中の絵空事に過ぎないわけである(幻視者たるランボー)。
 彼と我々(小生)との乖離は、埋め尽くしようのないものだったのだろう。

 小説「白夜」は、作者はロマンチックな小説だという。でも、そのロマンとは彼にとって、一体、何を意味していたのか、彼の実感の中では幻視がされていたのか、きっと、決して知りえないのだろう。ただただ、彼の夢想の結実である作品を読んで、微かに感じ取るのが関の山なのだろう。

 小生は、ダフネ・デュ・モーリア作の『レイチェル』(務台夏子訳/創元推理文庫)を読み始めたところだが、冒頭の数頁も読まないうちに彼の物語の世界に一気に魅入られてしまっている。どんな魔力(秘密)が彼の小説にはあるのか、小生には全く、分からない。
 この作品でも、登場する人物(の中の一人)は、夢想の人として設定されている。どこまでいっても、夢想家は夢想家なのだが、その夢想の罠に自分自身が嵌り込み、ついには回りの誰彼もまでが余儀なく、引きずり込まれていく。
 まあ、まだ、読み始めたばかりだから、先走ることはやめておこう。小説を訳者の後書きを先に読むのは、本来は拙いのかもしれないが、これほどの本格的な小説となると、そんなことはどうでもよくなる。
 たとえば、「東京創元社|レイチェル(ダフネ・デュ・モーリア)」というサイトでは、「訳者あとがき[全文]務台夏子」を読むことができる。
 その中に、「どれも、人間の身勝手さ、俗っぽさ、偽善・独善が、辛辣に、シニカルに、ときにユーモアを交えて描かれていて、実に痛快である。デュ・モーリアの観察眼は常に鋭く、その筆致は情け容赦がない。百年近くも前に生まれたデュ・モーリアの作品がいまなお古びて感じられないのは、この作家が見て取り、描いてみせたものが、時代を超えても変わらない普遍的な人間の姿だからなのだろう」とある。
 基本的に小生も同感である。だからこそ、読む。
 が、さて、このような観察眼の鋭さというのは、人間をリアルに観る人こそが有するモノなのだろうか。それとも、もしかして、夢想家の夢想の中の造形なのだろうか。夢想の所産であるにも関わらず、少しは現実に触れている(と思っている)人にも説得力を持ちうるという稀有な才能がデュ・モーリアにはあったということは考えられないのだろうか。

 人が見る、感じる、体験する、想像する、考えるとは、一体、実際のところ、何をしているのだろう。現実の世界では役立たずの夢想家には永遠に現実に触れることは叶わないのだろうか。
 不思議なことに(それとも、必ずしも不思議じゃないのか…)そんな夢想家に現実家が引き摺りまわされるという皮肉。その最たるものが、文学と呼びうる作品なのだろう。

 あれあれ、肝心なテーマは手付かずだ。「白夜」という季語の成り立ちは、全く、分からずじまい。そのうち、また、この件に立ち戻ることがある…かな。
 どなたか、お知恵、拝借、です。

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コメント

そう言えば六月中旬の北海道の朝はやけに早かったです。緯度だけでなく経度の関係もあるでしょうが、四時過ぎに夜が白んできました。白夜は言いすぎにしても、夏至近くの北海道の夜は短いことは確かです。

投稿: 健ちゃん | 2005/06/28 16:49

健ちゃんさん、コメント、ありがとう。
北海道旅行の画像の数々、何度見ても羨ましい。どれもいいけど、小樽運河が北欧的な雰囲気があって。やはり歩いてみたくなる。
もう、三十年も昔、二度ほどパック旅行したけれど、今、改めて旅して回りたい。できないとなると、尚更、その願望の思いが募ります。
ネットでも北海道の白夜感覚について書いたサイトが見つかりました。北方領土なら、もっと感じることができるのかな。

投稿: やいっち | 2005/06/29 12:13

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