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2005/06/18

行く先は何処

「○×」まで。お客はただそれだけ言う。「横浜の、ほら、▲◆で有名な」
 小生、分からない。聞いたことがあるような、ないような。大体、話がよく聞き取れない。随分とお酒が入っていらっしゃるようで、ご機嫌な様子だ。
「えっと、横浜のどの辺りでしょう」
「なんだ、知らないのか。お宅、何年、運転手、やってんの。大丈夫、オレが道、知ってるから走らせろ」
 走らせろと言われても、一体、どの方向に走ればいいのか検討が付かない。小生、必死でお客さんが言われた地名を脳裏に響かせて、横浜のどの辺りかの見当を付けようとする。皆目、見当が付かないのだけど、やるしかない。
「あの、高速を使いますか。」
「そうだよ。だから、○×だってば。」
 小生、そろりそろりと走らせ始める。とはいっても、いきなり右折か左折の選択を迫られるのだが、小生は左折を選んだ。
 薄ボンヤリだが、あの辺りかもしれないという気がしてくる。随分と頼りない話だが、お客さんがそのうち怒り出すような気がする。トラブルだけは御免だ。
 車を走らせて、交差点での信号待ちに賭ける。僅かな信号待ちの時間の間に地図を見て、お客さんが言った地名を探す。きっと、高速道路のどこかのインターの名前に決まっている。

 お客さんの心理としては、自分が利用するインターや自分の居住する町の名は少なくともタクシーの運転手には分かっていて欲しいものである。
 お客が地名を言う。「どこどこの辺りですね。高速だと、何号線を使って★◆インターで降りて宜しいでしょうか。」そのように、簡単な遣り取りで、あとは黙っていたら、まっすぐスムーズに目的地に向かってくれるのが一番なのだ。
 マイナーな(?)地名ですぐには分かってもらえないと経験上、知ってはいても、とりあえず地名を先に言う方も居る。あわよくば、地名だけわかってくれたら…、誰だって気分がいいのだ。
 その気分を損ねてはならない。たとえ、分からない地名だったとしても、だ。その受け止め方、受け流し方の呼吸が難しい。

 ああ、だけど、無情にも、こんな時に限って、信号には引っ掛からない。長距離のお客さんに遭遇するのは夜中だし、信号に引っ掛かる可能性がもともと低いのだ。それに、焦っているし、地図を慌てて見ようとするから、時間が足りなく感じてしまう。
 あああ、とうとう高速の入り口に差し掛かった。一旦、乗ったら、地図を見ることも叶わない。仕方なく、高速の入り口の一つ手前の交差点が見えたところで車を路肩に寄せ停車。地図を見る。お客さんは酩酊に近いので、目を閉じているってことは、もう寝入っているものと思われるし。
 それにしても、オレが分かってるから、車を出せってのも、無茶な話だ。何処へ向かって走らせろというのだ。横浜だって広い。東名を使うか、首都高の横羽線か、それとも第三京浜か、選択肢の幅は大きいのだ。
 分かるってのは、きっと現地に着いたら、オレが道を案内してやるってことだろう。
 でも、こちらが知りたいのは、どの高速を使い、どのインターで降りるか、なのだ。
 なのに。「オレが知ってるから大丈夫」の一点張り。
 懸命になって地図と睨めっこ。車内灯を点け、老眼鏡を使い、高速道路上のインターを虱潰しに見ていく。そのうち、お客が言ったインター名が見つかる。
 あったー! 思わず、叫びたくなる。世の中が真昼間になったように明るくなる。梅雨の晴れ間の月影など探してみようか、なんて気分になる。運がいい。少なくとも、最悪ではなかった!

 颯爽と、というか、こうなったらイケイケの気分で高速に乗る。最初に選んだ高速道路は間違いなかったのだ。お客さんを乗せた場所から右折すると東名、左折すると第三京浜か横羽線。左折で大正解だったのだ。東名沿線にはお客さんの言ったインターはないから、消去法で行くと、左折しかないのだけれど。
 それにしても、御客さまの服装のことをとやかく言っちゃ、いけないことは分かっているのだけど、よれよれ。酔っ払いだから仕方がないようなものだけど、いつかのお客のように、現地に着いたら、お金がないと開き直る、なんてのも困るし辛い。
 走るルートはハッキリしたのはいいけれど、今度は、着いたらお金を払ってもらえるのか、いや、その前に、いよいよしっかり寝入ったようだから、着いたら起きてくれるかが心配。
 運転手には心配の種は尽きないのである。
 しかし、お客さんを疑うわけには行かない。タクシードライバーは人を信用することで仕事が成り立っているのだ。お客さんに背を向けているのも、相手を信用している証拠と理解して欲しいものだ。

 それにしても、最近にしては珍しいロング(長距離)。花の金曜日だと、昔はよくあったけど、最近はめったにないなー、なんて愚痴ってみたり。

 はてさて、走るルートは花の金曜日にしては空いている道だった。一切、渋滞に懸かることなく順調に走った。走り出してから三十分ほどでインターを降りる。
 振り返ると、案の定、お客さんは、グッスリ寝ている。心配。いつだったかのように、起きてもらうのに三十分も要するのではとドキドキ。最悪の場合は、警察のお世話になることもありえる。
 高速道路の出口で右折か左折のどちらかを選ぶしかない。
「お客さん、着きましたよ。○×ですよ。」
 起きる気配がないので、仕方なく、膝の辺りなど揺すってみる。
「んんん」
 うん、脈はある。死んじゃいない。起きてくれそう。
「お客さん、起きてください。○×ですよ。」
 小生、この期に及んでも心配なのだ。酔漢がちゃんと地名を言ったのかどうかも怪しいし、小生が聞き取れたかどうかも覚束ない。万が一、全く、見当違いの場所だったら、どうするか。もう、開き直るしかない。こんな商売を選んでしまったのだ、どんな事態も覚悟しないといけない。
「お? あれ? 相方はどうした? 何処で降りた?」
「いえ、お客さんは最初からお一人でしたよ。」
「……」
 お客は目を閉じて、一旦は起こした体がまた崩れていく。
「すいません。起きてください。あとはお願いします。」
(注:念のために断っておくが、正しくは「すみません」である。この言葉の周辺については、拙稿「「すみません、海まで」のこと」を参照のこと。)
「ん? 奴は何処行った? 何処で降りたっけ?」
「いえ、お客さんは、最初からお一人でしたよ。」
「ん? そうか。で、ここはどこだ。」
 お客さんの目は、トロンとしたまま。まだ、しっかり目覚めていない。小生も緊張している。ここで正解だという確信が持てないからだ。なのに、「ここはどこだ」と言われ、キョトンとされていたんじゃ、身の置き所がない。
 そのうち、お客さんが、
「左だ、左、曲がってくれ」
 小生、素直に曲がる。曲がるしかない。「左ですね。左、曲がります。」
 あまり丁寧に返事したり、確認したりすると、煩いと怒り出すお客さんも居る。このお客さんは、その点は大丈夫そうだが…。
「ゆっくり…。おお、そこだ、そこ、曲がってくれ」
 見ると、道というより、路肩の空き地のような場所。車が入れるような余裕もない。でも、言われる以上は、進入を試みる。
「あ、変だな。違った。」
「えっ。どうしましょう。」
「バックだ。戻ってくれ。」
 後ろからは車がビュンビュン走ってくる。そんな中へ車をバックさせて、元の道路へ。緊張が走る。慎重に。自分が第一原因での事故は、ガードレールとの接触も含め、何年もないのだ。こんなところでつまらない事故やトラブルに巻き込まれたくない。
 そろそろとバックして、
「あとは、どうしましょう。」
「うん、分かってきた。」
 ってことは、今まで分かっとらんかったのか!
「そこだ、その路地、入ってくれ。」
 さっきの脇の空き地と似たり寄ったりの路地だ。鋭角に左折し路地に車を滑らせていく。真っ暗闇の道。いきなりレンガの壁。トンネル。
「そこ、そこを右。で、すぐに左。」
 複雑にハンドル操作。でも、気が確かだということが分かって、安心ではある。とにかく、目的地近くに来ていた。小生の割り出した地名でよかったのだ。でも、まだ、お客さんを最終目的地にお届けし、清算を済ませたわけじゃない。まだ油断はできない。安堵の胸を撫で下ろすのは、先の話だ。
「その坂道を道なりにずっと登ってって。」
 真っ暗闇。街灯の明かりも、車のライトが眩しいよ、負けちゃうよ、とばかりに、足元の辺りを申し訳なさそうに照らし出している。これじゃ、自動販売機の蛍光のほうが明るい。
「そこ、そこの横断歩道の手前で止まって」
 ああ、よかった。とにかく目的地にたどり着いたんだ。
 お金の清算。この頃は、機械も複雑で、高速道路の通行料などがあると、操作が面倒。でも、現金払いのようだから、まだ、ましだが。
 ん? 現金払い? 大丈夫かな。まだまだ気が抜けない。
「※∬円です。」
「そっか。じゃ、お釣り、幾らだけ、呉れ」という。計算すると、チップがなかなかの額になる。確かめるべきか。でも、念を押すのは、反ってトラブルのタネになりそうで、薮蛇に思われる。とにかく、トラブル回避が一番、大切なのだ。安全・的確・迅速(できれば、加えて快適)が運転手のお客へ提供するサービスだし、お客さんも無事で余計なことをしない、丁寧な応対で対応されるなら、それで十分なのだと思う。
 お釣りと領収書を渡す。「ありがとうございました。お忘れ物のございませんように。」
 バタム! 客用のドアの閉まった音。
 終わった。一件落着だ。運転手がホッと安堵の息をつく束の間の時。
 それどころか、この方、「その道を左へ行けば、なんだ、あの、○×の交差点だから」なんて、親切に道まで教えてくれて。これなら、最初から教えてくれればいいのに。
 でも、目が覚めるのは、一眠りしてからだから、仕方ないのだよね。
 足元の覚束ないままに立ち去っていくお客さんの影を後ろに、車をさっさと走らせる。下ろした地名などを日報に書く必要があるが、お客さんから遠ざかってからの仕事である。お客さんがどの家に入ったかなど、プライバシーを追わないためだ。そして、できれば、次の仕事にありつくため、一刻も早く東京へ帰るのだ。
 それにしても、心臓に悪い仕事だと思う。分からない地名でも分からないといけない。最後の最後、清算を済ませるまで気を抜けない。しかも、カードやチケットのお客さんだと、会社が相手先に請求して、ちゃんと正式な清算が成らないと、運転手の責任になる(と、会社から言い渡されている)。
 営業中で運転手が、ホンの少しでも気が抜けるのは、帰路の道を東京へ急いでいる間だけではなかろうか。

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タクシーエッセイ」カテゴリの記事

コメント

う~ん!何か、とても読み応えがありました~!
弥一さん、やっぱり文章巧いな。引き込まれて読んでました!
神経を使うけど、すごく遣り甲斐がある仕事ですね。ちょっと遣ってみたくなりました。とても出来ないけどー笑
だって、誰が乗ってくるか判らない訳でしょう?
とても怖く思う。でも、きっと、人間の幅が広がる気がする。
って、方向オンチだし、免許は一昨年取ったばかりなんです・・・笑

投稿: hironon | 2005/06/20 20:37

ナンと言っても密室の客商売。大変ですね~~酔客も多いだろうし、余計。。ですね。
昔、某受付に座ってましたが、あれは多対多の中の一対一。まだマシでした(私の性格上はきつかったですが)
とてもじゃないけど、タクシーの運転手にはなれません(^_^;)

投稿: ちゃり | 2005/06/21 10:51

hironon さん、こんにちは。
たまには、こういう文章もいいでしょ。
実話のような実話でないような。
でも、日々、こういったことが続く。最近は不況で日に30回(40人)ほどしか載せないけど、好況の時は40回(50人)以上も載せます。まさに人生模様だったりする。
正直、一番、嫌なのは急いでくれ、というお客さん。タクシーはドライブをしているわけじゃないから、言われなくても、先を急ぐ。車線変更もする。信号の変わり目だろうと、(安全を確かめて)突っ込んでいく。
間に合えばいいけど、そういう横柄なお客さんほど、間に合っても、何もお礼をいうわけじゃない(別に御礼をして欲しい訳じゃないけど、要するに礼儀知らずの人が、そういう無理な注文をする)。
とにかく、我慢を覚えます。辛抱、忍耐、自制心、慎重。これらがなくっちゃ、続けられません。小生の友人でも、タクシーは誰でもできると思っている、口ぶり。だったら、やってみろよと言いたいけど、そこはまた我慢。どんな仕事もそれぞれに大変。タクシーという仕事の大変さを書ききっている方は、小生の知る限りいない。タクシードライバーの方々自身、その大変さをうまく表現できないでいる。だから、仲間内で慰めあったり、励ましあったり。タクシーの世界については、描くには、恐らく、従来に全くない表現方法を模索しないと書けないのだと思う。
タクシーという仕事の醍醐味(の一つ)は、なんといっても流し。自分の経験と勘で、この辺りにお客さんが居るはずと狙いを定め、狙い通りに見つかったら嬉しいもの。誤解を恐れずに言えば、釣りに似ている?!
ん、免許、取り立てですって。最初の一年は危ないっていうけど、大丈夫でした?

投稿: 弥一 | 2005/06/21 13:37

ちゃりさん、こんちは。
酔客(の中)には困った人も居るけど、それより、ストレスを溜めて乗ってくる人。鬱憤を立場の弱い(サービス業ですから)運転手にぶつける。こちらが対等には応じられないのをいいことに、言いたい放題、したい放題だったりする。
密室なので、その人の人間性が実に良く分かる。煙草を吸うのでも、吸っていいですかと訊き、窓を開けて吸う人もいれば、黙って勝手に吸う人も居る。吸殻や灰を窓から捨てる人。携帯で大声で喋る人。別にいいんだけど、一言、声をかけて電話するのが常識だと思う。
窓を開けるのはいいんだけど、降りる時には締めるのも、常識だと思うけど、出来ない人が多い。
ところで、受け付けに坐っていた。その勇姿を写した画像など、見てみたいものです。
そうだ、女性のタクシードライバーが増えてますよ。日中だけ走る女性ドライバーの数が多いのは知っていたけど、最近は、夜の営業もあsれている女性が増えている。男性客に絡まれないかと心配。中には、ロング(長距離)のお客さんで、女性ドライバーを指名される方もいるとか。どうせなら、女性の運転手のほうがいいからって。分かる。オイラも、そうしたいもんね。
ともかく、タクシー稼業は人間修行の場になります。
えっ、その割りに人間が成長してない? そうなんです。タクシーを降りると、その成果も下ろしてしまうのです。地上では、ひたすらグータラ。そうしないと、神経が持たないし。グータラ亭主が日曜日など、ゴロゴロしているのを見たら、優しくしてあげてくださいね。ついでに、小生のことも?!

投稿: 弥一 | 2005/06/21 13:47

おもしろかったです。
いや、無事に終わってよかったっていう感じ。

車の中とはいえ、見知らずの相手と二人きり
後ろからナニされるかわからないし
代金払ってくれるかも アヤシイ・

ほんとに大変なお仕事ですよね。
どうなっちゃうのかとドッキドキしました。

あ、このblogに 何のつながりでもいいから
創作 トラバしてくださいね。アドレス残します(*^_^*)

投稿: なずな | 2005/06/24 18:14

世田谷から横浜までタクシーに乗ったことがあるんですよ、その運転手第三京浜使えばいいのに、六本木のほうまで行って、それから横浜向ったんです、一万以上かかった。
あとで別の運転手に聞くとそんな変な運転手は詐欺だとー。
僕みたいに気が小さいと怒れないんです、運転手は上機嫌だしー。

投稿: oki | 2005/06/25 00:40

oki さん、こんにちは。コメント、ありがとう。
確かに、性格とか気分とかその時の状況があるから、言いづらい場合もあるかもしれない。
そんな時は、東京タクシーセンターに抗議の電話(か葉書)をすればいいと思います。こちらは丁寧に対応するらしい。当該の運転手乃至会社へも、上掲のセンターが一緒に対応するので安心かも。そんな運転手をのさばらすのは、小生としても不愉快。タクシードライバーの名誉にも関わることだし。

投稿: やいっち | 2005/06/25 08:50

なずな さん、読んでくれて嬉しいです。日々、こんな状況が次から次へと。今日も…。ああ、言えない、書けない!
いろんなお客さんが居る。で、勿論、優しい方もたくさん。郊外へ行ったら、帰りの道を教えてくれたり、缶コーヒーを呉れたり。お喋りが楽しかったり。
トラバなどのことは、一眠りしてから、ゆっくりしますね。今は頭が痛い。眠い。寝ます。じゃ、寝。また、寝。

投稿: やいっち | 2005/06/25 08:54

似たような事態を描いたものに「今日も走るぞ! ここは何処?篇」があります:
 http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/2005/02/post_6.html

投稿: やいっち | 2005/06/25 18:11

やいっちさん、流石にタクシーネタは反響大きいですね。こういうのも纏まると読み甲斐ありそうですね。

また、楽しみにしています。

投稿: pfaelzerwein | 2005/06/25 20:00

pfaelzerwein さん、こんにちは。
タクシーネタは、無精庵方丈記と無精庵越中記にまとめてあります。あまり読まれてないけど。宣伝が足りないのかな。

投稿: やいっち | 2005/06/26 07:25

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