螢籠
例によって「6月の季題(季語)」を眺めて、今日の表題は何がいいかと物色している。
でも、物色しているというのは、ちょっと前向きすぎる表現かもしれない。むしろ、表を眺めているうちに何かいいアイデアが浮かんでこないかと、淡い期待を抱いて、立ち尽くしているといったほうがいいのかもしれない。
いや、立ち尽くしているというのも、きつすぎる。
毎日の献立に頭を悩ます主婦のよう…などと書き始めようとして、さて、小生は主婦の経験は勿論、ないし(一応は男の端くれだし)、安易過ぎる喩えかなと思ったりする。でも、八百屋さんやスーパーに向かうとき、今日はこの料理がいいという目当てや目論見があって、というより、店先に並ぶ野菜や魚、総菜などを眺めながら、なんとなく目に付いたもの、目玉商品だと店で宣伝しているものをついつい買ってしまうという経験が主婦されている方には多いのではと思ったりする。
主婦と書いたが、日々、スーパーへ買い物に行くと、いい男の方が店内をうろうろされているのを結構、目にするようになった。主夫する男性が増えているということか。主夫ではなく、出張などで一人暮らしされているのか、あるいは事情があって独り者になってしまったのか…。
まあ、余計なお世話だが、自分を思うと、身に抓まされてしまう。
さて、店先に…じゃなく、季語例の表を眺めていて、その例の多さに圧倒されてしまう。少ないのも困るが多すぎるのも逆に困る。目移りどころじゃない。気後れに近い。
つい、何故か、「蛍」じゃなく、「蛍籠」に目が向く。
[ 以下、一部、敬称を略している場合があります。高名な方(橋本多佳子や石田波郷、久保田万太郎、八木健、野口 雨情など)ということで、「氏」や「さん」を使うのも相応しいようには思えず、このような形を採っています。決して、呼び捨てしているわけじゃないことを御理解願います。 (05/06/10 追記)]
そう、生きている蛍ではなく、蛍を入れる籠、それとも、蛍のいなくなった籠。あるいは、空っぽの部屋。
今日は、日本代表チームが北朝鮮に勝って、ドイツワールドカップ出場を決めたという喜びの炸裂が嘘のように、自分に何か萎えたようなものを感じてしまうので、生き物としての蛍に焦点を合わせる気になれない。
大体、蛍にしたって、淡い光の明滅が宵闇に幻想的で、どこか非現実の雰囲気が濃厚だったりする。なのに、その蛍の淡き光にさえ、目が眩むような心の状態なのだ。
いつか、蛍を眼目に据えて、しっかり何かしらを描いてみたい。が、今日は、「蛍籠」。
若干の不安を抱えつつ、「蛍籠 季語」でネット検索すると、検索結果は約55件となった。案の定だ。
それでも、「ikkubak」で、「螢籠昏ければ揺り炎えたたす」という橋本多佳子の句が見つかる。この句、「昏ければ揺り炎えたたす螢籠」という表現も同じ作者自身、試みたことがあるらしい。
「罌粟」を扱った際には見つけられなかったが、「罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき」なる句が橋本多佳子にはあるようだ。
「螢籠昏ければ揺り炎えたゝす」については、「至遊さんの俳句をどうぞ 橋本多佳子論 (三)」の中の評釈など参照。
「至遊さんの俳句をどうぞ 石田波郷の俳句 三」においては、「喪の妻に螢籠はやかすかなり」なる石田波郷の句が鑑賞されている。
俳句ではないが、「赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行つちやつた」の野口 雨情には、「螢のゐない螢籠」という詩がある:
螢のゐない 螢籠
螢は
飛んで 逃げました
今朝目がさめて 見たときに
螢は
飛んで 逃げました
青い ダリヤの葉の上を
急いで
飛んで 逃げました
高い お庭の木の上を
急いで
飛んで 逃げました
螢のゐない 螢籠
さびしい
籠に なりました
また、句に戻る。
「谺俳句会 谺(2005・06)」の「小林康治『虚実』の世界T……山本一歩」にて、「老いたるは罪かまたたく螢籠」という句を見つけた。
この句の鑑賞を玩味したい。つまり、「蛍を捕まえて「螢籠」に入れる。捕まえられた蛍はそこで懸命に空しい命の火を点すのである。命とは何なのか、生きるとは、老とは。死ぬまでは懸命に火を点し続ける蛍にはもちろんそんな意識はない。人間だけがあれこれ考える。それも晩年間近になった人間だけが……。」とあるのだ。
いずれの句(詩)も、寂しいものばかり。蛍の儚い命というイメージが背景にあるからなのだろうか。その蛍の命の象徴である淡き光の失われた蛍籠。目を閉じると脳裏には昨夜、それとも、さきほど見たばかりのはずの蛍の光の青白い、か細い光が、そこにあるかのように煌いている。そんな光、そして命の不在を強く印象付ける空っぽの蛍籠、ということなのか。
そんなか弱い、束の間の命しかない蛍なのだと思うなら、自分が繊細の精神の持ち主だと(内心では)思っているのなら、蛍たちをそっとしておいてやればいいものを、蛍狩りと趣味の良さと伝統に棹差す自分の姿に陶酔して、ついつい獲らずもがなの蛍たちを捕まえて籠の中に閉じ込めてしまう。
蛍籠の細い木か竹の格子の透き間から覗ける蛍たち。その蛍たちの運命を握ってしまったのは自分の意志だというのに、蛍を哀れんで風流を気取る。
せめてもの同情か、それともただの遊び心か、蛍籠から蛍を出して、おお、逃がしてやるのかと思うと、何のことはない、蚊帳の中に放して、明かりを消して、寝入る前の余興の玩具にしてしまったり。
随分と身勝手な人間。
けれど、確かに籠に閉じ込めてしまったのは、人間であり、風情を愛でる自分なのだけれど、そうした籠の鳥ならぬ蛍たちを見て、自分たち人間も、所詮は運命という籠の中に閉じ込められ、神か仏か閻魔様の手中に生殺与奪の権が握られていることを殊更に実感する。入り組んだ形での人生の儚さの象徴、それが蛍籠だということなのか。
寂しいついでに、「人のうへやがてわがうへ螢とぶ」という久保田万太郎の句、「宵よりもあかつきさみし螢籠」という成瀬櫻桃子の句なども挙げておくか(「春燈歴代主宰の句」より)。
僅かに、「螢籠まざと覗くははしたなし」という鈴木榮子の句が幾分、ユーモラスな感がないではないが、さて、どのように鑑賞されるべきか。
他にも、河東碧梧桐の「螢落ち螢とぶなり笹の風」「苗代の苗をさしこむ螢籠」などの句が目立った。
微笑ましい句なのだろう、「ikkubak」で、「蛍籠おでことおでこくつつけて」という八木健の句が光る。
その八木健によるハイクアートということで、「インターネット俳句大賞・八木健選・7月の結果」の中に幾つか蛍籠という言葉の織り込まれた句が見つかった。
鑑賞というと、「蛍籠」に蛍を入れ損ねる場面が眼目となっている、泉鏡花作の「蓑谷」など味わってみてはどうか。
ここまでネット検索を繰り返しながら書いてきたのだが、この期に及んで「蛍籠」についての記述を見つけた。「Doblog - K-SOHYA POEM BLOG -」である。幾つかの蛍や蛍籠絡みの句を掲げつつ、「「蛍籠」という季語は古いものではなく、明治38、9年頃から使われはじめたもののようである」などと書かれている。
「蓑虫の蓑」では、「或る星と息を合せて蛍籠 檜 紀代」などの句が載っていて、その鑑賞が読み応えがある。
こうしてみてくると、さすがに「蛍籠」という季語を織り込んだ句は少ないが、それでも当初、危ぶんだよりは多かったし、しかも、蛍絡みの句の多いこと。蛍がいかに古来より(日本)人の心をあれこれと掻き立てる生き物なのかが分かるというもの。
となると、ますます「蛍」を季語随筆の表題に選ぶのは躊躇われてしまう。とてもじゃないが、ザッと一覧、というわけにさえ、いかなさそうだし。小生の手に負えないだろうことは歴然。困ったことだ。
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コメント
「蛍」ではなく、「蛍籠」に目をつけるところがさすがですねー。
「蛍」も幻想的でどこか寂しい感じがして好きだなぁと思っていたけれど、
蛍のいなくなったあとの「蛍籠」の寂しさには、思いが至りませんでした。
うーん、いいな。なんだか物語が浮んできそう。
投稿: ミメイ | 2005/06/12 16:31
ミメイさん、コメント、ありがとう。
蛍籠は寂しい
蛍が居ると寂しい
蛍が居ないと寂しい
でも
蛍籠のない思い出も寂しい
生きることはそれほど寂しいのかも
投稿: 弥一 | 2005/06/12 19:52