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2005/06/30

出発は遂に訪れず…

 島尾敏雄著『死の棘』、ついで、『出発は遂に訪れず』を読んだ。既に本は図書館に返却してしまったので、手元に本を置きながら感想を綴るというわけにはいかない(『死の棘』については、ちょっと感想を書ききれないので、後日、その気になったら試みる、かも)。
 ここでは、『出発は遂に訪れず』だけを念頭に。
 なぜなら、奇しくも、天皇、皇后両陛下が27日、慰霊を目的にサイパン島(米自治領)を訪問されたのだから。

 ここは、『出発は遂に訪れず』について、今福龍太氏の「浦巡りの旅へ」を参照させていただく。
 氏は、「浦」について、「今年九月で没後百周年を迎えるラフカディオ・ハーンは、山陰は加賀(かか)の潜戸(くけど)を小舟で訪ねた名エッセイ「子供たちの死霊の岩屋で」の冒頭で、通りがかった御津浦(みつうら)という小邑の様子を「山を背にして高い断崖に取り囲まれた、小さな入り江の奥にある村である。崖の下に幅狭い浜がわずかに開けていて、そのおかげでこの村も存在しているのだ」と書いたが、浦という地形の景観学的な定義として簡潔でつけ加えることがない」と書いている。
「奄美、加計呂麻島の呑ノ浦(ぬんみゅら、と島人は発音する)は、浦浦が果てしなくつづく大島海峡沿岸のなかでもとりわけ奥深く、内に折れ釘のように曲がった細長い入り江で」、「戦時中にここに震洋特攻隊基地が置かれていた」。「のちの作家島尾敏雄が若き隊長としてここに赴任した」のである。
「「出発は遂に訪れず」は島尾敏雄がのちに呑ノ浦での経験をもとに書いたいくつかの作品のうちの一つである。原爆が投下されたことを知りつつ、出撃命令を受けたまま敗戦の朝を迎えるまでの極限状況が、この直截な表題に示されている」。

 参考に「震洋艇」を:
奄美写真館 - 鹿児島奄美大島-加計呂麻島の離島風景を紹介」というサイトで、「加計呂麻島ギャラリー」、特に、「呑ノ浦震洋」の画像などを:

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2005/06/29

読書雑録

 ほかでも書いたが、結構、充実した読書体験を重ねている。昨年の四月から書籍の購入を控え、その代わり、昨年末から図書館通いを再開。
 自分で買うとなると、新聞などの書評や広告を頼りに、多くは書店での立ち読み、時には本を見た最初の印象だけで買ったりする。が、無制限に買える筈もなく、どうしても、自分の好みの分野、それも、従来の読書経験でそれなりの好感触のあった分野や著者の本を買うことになりがちである。
 が、図書館となると、懐具合を気にせずに済むので、手にする本の分野を大幅に広げることができる。たとえば、リンダ・リア (Linda Lear)著『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』(上遠 恵子訳、2002/08東京書籍刊)などは、関心はあるから書店で目にしたら手に取ることはあるかもしれないが、しかし、大部の本ということもあり、また、伝記という性格もあって、購入は躊躇っただろう。
 というか、まず、買わなかったに違いない。
 が、図書館からの借り出しなので、とりあえず持ち帰り、読んでみて、つまらなかったら返却すればいい。最後まで意地を張って読み通す必要もない。結構、気楽である。

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2005/06/28

白夜…夢想家

 例によって夜半となると、さて、今日の表題は何にするか、テーマをどうするかで悩み始める。
 悩むというのは、ちょっと大袈裟だが、迷って迷って、二進も三進もいかなくなることはしばしばである。ま、好きでやっているのだから、それはそれで仕方がない、自業自得というものなのだろう。
 で、6月の季語例を眺めていて、そろそろ6月も終わりに近付いている今日になって、「白夜」という季語があることに気づいた。何を今更、であるが、この迂闊さが小生なのである。
 いつもお世話になっているサイトで「白夜」を見てみる。
「白夜(びゃくや)」(はくや)は、「夏の日没後も明るさが残り、薄明のまま朝になる現象」だという。それはま、その通りなのだろう。
 分からないのは、日本には白夜を体験できる場所があっただろうか、ということ。
 カナダ、アラスカなどの北米大陸のさらに北部地域、スウェーデンやノルウェー、フィンランドなどの北欧、ロシア(シベリア)…。まあ、北極などは、別格にさせてもらうとして、こういった地域へ旅したというのなら、経験することもありえる。
翼灯集1412」なるサイトを覗くと、「カナダ詠十六句は氷河八、白夜二、お花畑二、夏炉一、万年雪一、秋の湖一、ポピー一で構成される。氷河・白夜ともに日本では見られない景であるが、それを詠むという敢然とした精神で貫かれている」などと書いてある。

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2005/06/27

雨蛙…カエルコール

 あるサイトを覗いたら、カエルの話題が。近所でカエルのゲコゲコという鳴き声がすると、夏になったと実感するとか。
 小生は今は工場町の片隅に居住しているが、田舎は一昔前までは農村の雰囲気を残していた。小生が生まれた頃は、町とは言いながら、村と呼んだほうが相応しいような田舎町の風情がたっぷり。これが駅から歩いて十数分の場所だとは到底、信じられない環境。
 まあ、実際には、その頃は駅の裏手は、駅から歩いて数分なのに、木場というか運河になっていて、運河に浸かった木材特有の分厚い匂い、決して腐臭ではないのだろうが、それでも、近くを通ると濃密過ぎる匂いというか空気に耐えがたかったりした。
 そこから更に十分ほど駅から遠ざかる方向に歩くのだから、農村の名残を残していても不思議はないわけだ。
 小生が子供の頃は、農薬の散布にそれほど煩かったり神経質だったりはしなかったから、田圃にも畑にも農薬や殺虫剤や化学肥料をタップリと撒いていたように記憶する。
 富山の地は、有史以来、何本もの暴れ川の氾濫などで、痛めつけられてきたが、その代わり、土壌は栄養分にこの上なく恵まれてもきた。痛し痒しである。
 が、暴れ川の改修工事も一段落し、大雨や台風が来ても、川が溢れて、その余得(?)として土壌の地味が肥えるということもなくなった。
 幸いにも水は全国でもトップクラスの豊かさに恵まれているので、土壌も長年の農作・畑作にも関わらず、痩せ衰えることはなかったけれど。
 それでも、足りない栄養分を化学肥料に頼るしかなかったし、<害虫>をやっつけるには、殺虫剤に頼るのが何よりなのだったのである。

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2005/06/26

石ころ

 ボクは体の中の石ころにムカムカしていた。どうやっても、体内の石ころを取り出すことができない。胃の中あるわけじゃないらしいから、吐くこともできない。
 時折、首筋の辺りに石ころの奴、移動するらしくって、そうなると、大変。ノドチンコと石ころとで喉が狭まって、息が詰まる。ほとんど、喘ぐように息をする。
 まるで、そうだ、コンクリートの道路の片隅から生えてくる雑草。僅かな透き間を見つけて、辛うじて生きている。
 ま、やつ等ほど、ボクはタフじゃないんだけど。

 石ころはフクラハギに隠れたり、お腹に収まって、大人しくしていることもある。そんな時のボクは機嫌がいいみたい。近所の連中とも気軽に遊んだりもする。
 でも、石ころが頭の中とか、最悪、目玉の中に忍び込んだときは、どうしようもなくなる。
 ボクは、懸命に石ころをえぐり出そうとする。父さんに教えられた方法で。

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2005/06/25

北条義時法華堂跡

 車中でラジオを聴いていたら、北条義時の法華堂なんとかという話題が飛び出してきた。
 北条義時?! 名前くらいは知っている。でも、歴史にも疎い小生のこと、うろ覚えだったり曖昧だったり。
 ここはネットの利便性を実感させてもらうことにしよう。
 北条義時とはどんな人物か。「1163~1224(長寛1~元仁1)鎌倉幕府の執権。時政の嫡子」。「1219年(承久1),源実朝暗殺によって源氏の血統が3代で滅びた後は姉政子とともに幕政を握り,京都から九条道家の子三寅(頼経)を将軍に迎えて北条氏専制の基礎を築き上げるのに成功」。「1221年,後鳥羽上皇の討幕計画をキャッチし,先手をうってこれを京都に攻め京都を占領して上皇方に打撃を与えた。後鳥羽上皇を隠岐に流し,六波羅探題を設置し,さらに朝廷方の所領を没収して新補地頭を置き,幕府権力をゆるぎないものにした」という点などを読むと、いかに重要な人物かが分かる。
 源氏が打ち立てた幕府の政権基盤は危ういものだった。それを磐石にしたのが義時だったと思っていいのだろう。朝廷を権威の座に置き、実権を武士の手中にしっかりと収めたのだ。

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2005/06/24

茅花流し…茅花の語源は

 気になるので、在宅の時は日に二度三度と覗くサイトがある。そんなあるサイト(夢音の木α)で、表題の「茅花流し」という言葉を知った。小生には全くの初耳の言葉。
 例によって勝手ながら転記させてもらうと、「春先に出る褐色の花穂(かすい)をツバナといって、なめると甘い味がします。江戸時代には、チガヤの花穂を、おやつとして売り歩いたそうです! 茅花が咲くころの、湿気を含んだ南風を「茅花流し」と言うそうです。季節・体感・響き・風景をふくんだ、とても感性豊かな言葉ですね。。。4文字しか無いのに。。。」とある。
 何事も長話にしてしまう小生のこと、こんな簡潔にはとても話を収められない。
 ネットなどで調べられる限りのことを書き連ねてみようと、上掲のサイトの文や素敵な画像を眺めている間に、思い立っていた。

 いつもこれまた勝手にお世話になっている、「俳句歳時記」の中の、「夏の季語(自然編-50音順)」によると、「茅花流し (つばなながし)」は、「湿気の多い雨混じりの南風が吹く」とある。
 別の「俳句歳時記」の中の、「季語集・夏」では、「初夏、茅花のわたのほぐれる頃に吹く南風で雨を伴うものをいう」と説明されている。

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2005/06/23

すいません…すみません

 以前、「「すみません、海まで」のこと」なる駄文を書いたことがある。
 詳しくは(といっても、通り一遍の拙稿なのだが)その拙文を読んでもらいたい。この「すみません、海まで」というのは、某たばこ会社のコピーの文句で、小生の朧な記憶では、その大きな看板広告には、真っ青な海と空という風景が示されていて、その脇か下にこのコピーが白い活字が添えられていた。
 この看板を見た瞬間、小生は、このたばこ会社が、「すみません、海まで」じゃなく、「すいません、海まで」というコピーを謳っていたなら、おお、たばこ会社もさばけてきたな、煙草の会社なのに、「吸いません、海まで」と謳い、広い海の只中へ、日頃吸っている煙草を指から離し、雲も煙もない空の下、爽やかな一日を過ごせたらいい…、とは言いながら、暗に心地良く吹き寄せる潮風に煙草の煙を徒(いたずら)に流して、のんびり過ごす自分の姿がいる。
 つまり、この広告に目が行くほどの奴には煙草を手放すことなど、できやしないさ、煙草のない爽やかさではなく、煙草のある爽やかさしか望めないのさ、だから、さあ、このライトな煙草をどうぞ、という魂胆がみえみえなのではある、でも、それでも、敢えて、「すいません、海まで」としたなら、そんな煙草に魅せられ中毒に成っているのだが、自分は魅力を知っているから能動的に煙草を吸う自分という生き方を選んでいるのだと、かるい諧謔の精神も篭めて(いるかのように見せて)いるようで、大人だな、成熟したな、と思えなくもなかったのだ。

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2005/06/22

釣りしのぶ

 今日の表題を何にするかで、随分と迷った。6月の季語例を眺めていて、夏の蝶にするか、夏草がいいんじゃないか、・ゲジゲジ・や油虫は嫌だ、蝿だって大嫌い、蟻を考えない訳じゃないが、気が進まない、蛆はウジウジしていてやっぱり没。翡翠は、どうか。カワセミ。風情があるし、話題に採り上げている人も多そう。でも、検索の網に引っ掛かる情報が多すぎる気がして、またの機会に譲る。
 蛇、蝮、百足虫などが季語ってのが理解できない。世の中には、これらが好きな方もいるのだろうか。風情を覚える人がいるってことなのか。
 そのうちに、我が部屋のベランダに向かう窓には網戸があることに思いが至った。そうだ、網戸にしよう。網戸だけでは心許ないから、蚊帳(かや)と組み合わせたら、鬱陶しい暑さに参っている中、風通しも良くなるし…とネット検索をしていたら、ふと、風鈴もいいなと風鈴をネット検索、すると、これは6月ではなく7月の扱い。でも、風鈴を調べていて、偶然、嬉しいことに今日の表題に選んだ「釣りしのぶ」という言葉に行き当たった。
 どうやら、「釣りしのぶ」の下に、場合によっては風鈴をぶら下げることもあるという。「吊りしのぶ」と表記する場合もあるようだ。

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2005/06/21

鏡と皮膚…思弁

 谷川 渥著『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫2001/04刊)を読了した。筆者自らが芸術を巡る思弁だと性格付けている書。雑誌などの論文などはともかく、書物の形で谷川 渥(あつし)氏(以下、敬称を略させていただきます)の論考を読むのは初めて。美学などの分野で高名な方だけに、一度は、著作に触れたいと思っていたが、ようやくその機会が巡ってきた。
 図書館で車中で読むに相応しいような内容の本をと物色していたら、このやや奇異なタイトルに目が向いた。注目してみると、著者は谷川 渥ではないか。名前だけは知っているが、さて、どんな仕事をする方なのか、ざっとでも眺めておこうか…。

 例によって勝手な印象文、感想文を綴ることになりそうなので、公平を期するため(?)、出版社側の謳い文句を示しておく:

深みに「真実」を求めてはならない。なぜなら「生はいかなる深さも要求しない。その逆である」(ヴァレリー)からである。オルフェウスがエウリディケーと見つめ合った瞳に、アテナの盾を飾ったメドゥーサの首に、マルシュアスの剥がされた皮に、キリストの血と汗を拭ったヴェロニカの布に―神話の根拠を古今の画家たちの作品からたどり、鏡と皮膚の織りなす華麗かつ官能的な物語を読み解く。美と醜、表層と深層、外面と内面、仮象と現実という二元論を失効させるまったく新しい芸術論。鷲田清一との対談「表層のエロス」収録

 正直なところ、谷川 渥という人物の仕事を知りたいということもあったが、実のところは、所収されている絵画が豊富で、それらの絵画を眺めているだけでも、決して飽きないという読みがあった。
 実際、本書を読んで、また、挿入される絵画を見て、クラナッハやミケランジェロ、ベルリーニについて、蒙を啓かれる思いをした(ミケランジェロの友に宛てた手紙など興味津々)。そのうち、機会があったら、それら巨匠たちの作品を鑑賞してみたい。

 それと、なんといっても、謳い文句にあるように、「鷲田清一との対談「表層のエロス」収録」ということで、最終的に選んだと言って過言ではない。
 申し訳ないが、冒頭の数行を読んで、これなら、バシュラールを再読した方がましかなと感じてしまった。生意気? バシュラールが肌に合うのだ。

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2005/06/20

夏袴…夏羽織…麦わら

 表題の「夏袴(なつばかま)」は、夏6月の季語である。しばしばお世話になっている「夏の季語(行事・暮らし-50音順)」によると、「単袴 麻袴 夏足袋 単足袋」といった類義語があり、「薄手の夏用の袴」だという。
 ついでに、同じく6月の季語である、「夏羽織(なつばおり)」は、「単羽織 絽羽織」などの類義語があり、「夏用の単衣の羽織」だという。
 まあ、まとめて言うと、やはり季語である「夏服」ということになるのか。この夏服は、「麻服 サマードレス 夏衣 夏衿」などの類義語があって、「暑さをしのぐ麻、木綿などの薄い布地の服」だという。
 ここまで書いてくれば(あるいは単に表題を見ただけで)、ああん、弥一の奴、クールビズの話題に乗っかってるなと分かってくるものと思われる。

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2005/06/19

てるてる坊主

 土曜日、図書館に行った帰り、ついふらふらと近くの食堂に立ち寄った。外食は事情もあって控えている。仕事中でも、蕎麦屋さんに寄らないように自制している。が、衝動というのか、その店の前を通ると、習慣のように入ってしまう。つい先日、入ったばかりのようだ。
 そういえば、近くの中華料理店も、少なくとも一年以上は足を向けていない。その店の前にはスーパーがあるので、店の傍を通らないわけにはいかない。だから、店の人と顔を合わせる機会もあったりする。足を運ばなくなって最初の頃は、それでも、主人も店員も挨拶してくれたが、この頃は、無視されている。愛想も何もない。こんなものなのか。相手にすれば、気に入らなくなって来ないのだと思っているやもしれぬ。
 こっちにしたら、手元が不如意で敷居が高いだけなのだが。悲しい現実である。
 
 立ち寄った食堂で夕食…久しぶりの御馳走である上カツ定食…を食べながらテレビを見ていた。テレビ…。我が家にテレビがなくなって数年。あるのは小さなモニターなので、画面がよく分からない。サッカーのボールなら、辛うじて識別できるが、野球のボール、ましてゴルフのボールなど、画面のちらつきに掻き消されて、音の感じや気配で見当を付けるばかりである。
 なので、外でテレビを見ると、画像の鮮明さに驚くばかりである。といっても、その食堂にあるテレビは、ごく普通のブラウン管形式のもので、既に数年は鎮座しているものなのだが。
 
 さて、その食堂でテレビを見ていたら、NHKだったようで、不意に童謡が流れてきた。どこか懐かしいような光景を映し出しながら。その童謡が表題の「てるてる坊主」(作詞者:浅原鐘村  作曲者:中山晋平)である。

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2005/06/18

行く先は何処

「○×」まで。お客はただそれだけ言う。「横浜の、ほら、▲◆で有名な」
 小生、分からない。聞いたことがあるような、ないような。大体、話がよく聞き取れない。随分とお酒が入っていらっしゃるようで、ご機嫌な様子だ。
「えっと、横浜のどの辺りでしょう」
「なんだ、知らないのか。お宅、何年、運転手、やってんの。大丈夫、オレが道、知ってるから走らせろ」
 走らせろと言われても、一体、どの方向に走ればいいのか検討が付かない。小生、必死でお客さんが言われた地名を脳裏に響かせて、横浜のどの辺りかの見当を付けようとする。皆目、見当が付かないのだけど、やるしかない。
「あの、高速を使いますか。」
「そうだよ。だから、○×だってば。」
 小生、そろりそろりと走らせ始める。とはいっても、いきなり右折か左折の選択を迫られるのだが、小生は左折を選んだ。
 薄ボンヤリだが、あの辺りかもしれないという気がしてくる。随分と頼りない話だが、お客さんがそのうち怒り出すような気がする。トラブルだけは御免だ。
 車を走らせて、交差点での信号待ちに賭ける。僅かな信号待ちの時間の間に地図を見て、お客さんが言った地名を探す。きっと、高速道路のどこかのインターの名前に決まっている。

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2005/06/17

バチスカーフ

 過日、ラジオを車中で聴いていたら(番組名は忘れた)、バチスカーフという懐かしい名前が。
Captain Fleet の ホームページ」の「深海潜水艇」なる頁を覗くと、その冒頭に、バチスカーフの項が見つかる。生憎、画像は載っていない。
 フランスの「深海潜水艇で」、「有名なオーギュスト・ピカール博士が開発し」たもの。「バチスカーフ以前は、深海調査には潜水球が用いられました。潜水球は水圧に耐えるために球形をした中空の乗物です。これを母船(水上船)からワイヤーでつるして深海調査をしました」なんて話をラジオでは最初にしていたような。
 さらに、ラジオでも、「しかしこれでは母船が揺れるとワイヤーを伝わって潜水球も揺れてしまいます。当然のことですがワイヤーの長さより深く潜ることもできません。推進装置を持っていないので自力で移動することができません。そこでピカール博士は潜水球に代わる潜水艇「バチスカーフ」を考案し」たという話が続いていた。
 ガソリンを燃料としていたが、ガソリンは単に燃料の役目に止まらず、比重が水より低いことから浮力を得る目的もあったとか。

アサヒ写真ブック85 バチスカーフ」があって、バチスカーフの勇姿を見ることができる。このサイトによると、「「バチ」は「深い」、「スカーフ」は「舟」という意味のギリシャ語」だとか。
 決して、バッチイ、スカーフではないのだ。

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2005/06/16

ハッピーバースデー・ツーユー!

 とうとう梅雨入りである。今年も景気良く、ハッピーバースデー・ツーユー(梅雨=つゆ)と叫んでおく(声に出さないで)。昨日も今日も雨。ジリオラ・チンクエッティかギルバート・オサリバンの雨でも聴きたい気分だ(勘違いしてた。ギルバート・オサリバンじゃなくって、ホセ・フェリシアーノの「雨のささやき」だった。「ハートに灯をつけて」もいいんだけど)。
 でも、プレーヤーもないし、雨の音を聴きながら小文を綴ってみる。

 今日の表題には何故か「長靴」を使いたい気分だった。が、調べたかぎりでは「長靴」は季語扱いされていないようである。
 但し、「ブーツ」ならば、「防寒用の長靴」ということで目出度く(?)季語の仲間入りとなる。類義語も「毛皮靴」があるくらいだ。が、このニュアンスから分かるように、冬の季語である。
 では、「ブーツ」が季語例にあるのなら、「長靴」だって仲間に加えてやっていいじゃないか。
 季節は? そう、梅雨だ!
 それにしても、「ブーツ」と「長靴」では意味が違うのか同じなのか。雨の日などに女性方が履いている「それ」を指して、「素敵な長靴ですね」って言ったら、褒めるつもりで言った場合でも、何よ! っていう反応となるのは、目に見えている。
 要するに同じじゃん、なんていう正論というか理屈はとおらないのである。試しに「長靴」の英訳を探すと、「Boots」である。じゃ、というので、英語の「Boots」を日本語に訳すと、我がパソコンの翻訳ソフトでは、「ブーツ」となった。
 なんのこっちゃ?!

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2005/06/15

蚊取線香…灰は切れる

 今日、表題に選んだ「蚊取線香」は、多くの日本人にはあまりに馴染み深い風物。夏が近付けば、当たり前の風物詩として身近にある。
 無論、夏6月の季語
 とはいえ、最近の蚊取線香は、すっかり様変わりして、電子蚊取、電気蚊取、蚊取マットなどが登場しているようである。
 小生は、しかし、断固、渦巻き型の従来通りの蚊取線香がいい。あの形に慣れすぎてしまったのかもしれない。
 蚊取線香の歴史その他については、やはり、「金鳥の夏 日本の夏」の、金鳥さんに…じゃなくって、「KINCHO大日本除虫菊株式会社 ホームページ」に伺うのが宜しいだろう。特に、「KINCHO 工場見学 工場長に聞く かんたんなお話コース(お子さまむけ)」が小生には、分かりやすいし、興味深い。以下に示される質問項目で、大概の疑問は尽きるのではなかろうか:

●「かとりせんこう」はいつからできたのですか?
●なぜ、「金鳥の渦巻」は左巻なのでしょうか?
●「かとりせんこう」のけむりには、害はないのですか?
●なぜ「うずまきがた」をしているのでしょうか?
●なぜ「かとりせんこう」で「か」が死ぬのでしょうか?
●「かとりせんこう」は何からできているのでしょうか?
 なぜ「みどり色」をしているのでしょうか?

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2005/06/14

倉橋由美子さん死去…旅の重さ

 倉橋由美子さんが亡くなられていたという一報を車中、ラジオで聞いた。
Sankei Web おくやみ 倉橋由美子さん(反リアリズムの作家)(06-14 0500) 」によると、「倉橋由美子さん(くらはし・ゆみこ=作家、本名・熊谷由美子=くまがい・ゆみこ)10日、拡張型心筋症のため死去、69歳。自宅は非公表。葬儀・告別式は近親者で行われた」という。
Hililipom>レファランスルーム」の「倉橋由美子」の頁を覗くと、彼女のProfileや著作リスト、翻訳リストを見ることができる。
 学生時代から文学活動を始め、明治大学在学中に「パルタイ」を発表し(60年)、芥川賞候補になったりなど、注目を浴びた。執筆活動を続けたが、「71年からしばらく小説の執筆から遠ざか」り、「80年創作を再開」という。
 その後は翻訳活動を中心に活躍していたようだが、小生は、皮肉にもというか、80年以降は関心を抱かなくなり、僅かにロングセラーとなった『大人のための残酷童話』を読んだだけである。
 それも、何処かの書店に立ち寄ったら、文庫版の『大人のための残酷童話』が目に付き、書き手の名を見ると、倉橋由美子とあり、懐かしさを覚えたくらいだった。
 数年前のこと。その頃、グリムやアンデルセンなどの童話や民話、昔話に興味を持っていたので、おお、こんな作家も、「大人のための残酷童話」というような際物的な仕事に手を染めていたのかと、やや驚いてしまったり(驚く小生が、迂闊で彼女の近年の仕事をフォローしていないだけのことなのに。まして最後の仕事がサン・テグジュペリの「星の王子さま」の翻訳だったとは、知る由もない)。

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2005/06/13

紫蘇…青梅…天道虫

 土曜日だったか、ある場所へ行く前、図書館に立ち寄り、返却日となった本を返し、道すがら薬局に寄って、栄養補助食品(黄色の箱に入ったビスケット)とダイエット茶を買った。レジの前に立って、前の客の清算の終わるのを待っていたら、あいている方のレジに(店員は一人なので、複数あるレジの空いているほうに立っても意味がない)天道虫が止まった。
 あれ、こんな町中に天道虫など珍しいと思っている間に小生の番となった。おカネを出し、お釣りの出るのを待っている手持ち無沙汰もあり、「天道虫さん、病気かな」なんて、戯れに言ってみた。
 店員さんは、恐らく虫に慣れない人だ、虫に触るのを嫌う人間だと勘違いしたのだろう、「そんなことないですよ、触っても大丈夫、病気になんて、ならないですよ」と答える。
「いや、そうじゃなくって、(薬局のレジカウンターに止まったのだから)天道虫さん、病気でここに来たのかなと」なんて、言ってみたけれど、意味が通じなかったのか、曖昧な笑みを浮かべるだけ。
 会話は成立しなかった。ま、いっか。
 そんな小さな話もあったので、天道虫を本日の表題に選ぼうかなと思ったが、どうやら、天道虫は甲虫などと共に、夏の季語ではあるが、時期的には七月の季語例の一つのよう。
 なので、断念。

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2005/06/12

レイチェル…海の燐光

 以下の引用文は、リンダ・リア (Linda Lear)著『レイチェル―レイチェル・カーソン『沈黙の春』の生涯』(上遠 恵子訳、2002/08東京書籍刊)からのものである(p.419-20)。
 尚、以下の地の文は、リンダ・リアの手になるものであり、引用はレイチェルの手紙からの引用である。

 新月の大潮がはじまっていた。ウエスト・ブリッジウォーターからサウスポートに帰ってまもなくの、ある月明かりの夜、真夜中近くにマージーとレイチェルは海辺に降りていき、波を見、波の音に耳を傾けていた。原始の自然をさらに深く感じようと懐中電灯を消すと、波は燐光があふれ、寄せるたびに、いままで見たこともないダイヤモンドやエメラルドのような大きな閃光を放っていた。その光景に見とれ、砂に光るとらえどころのない鬼火をつかまえようとしているとき、ホタルが一匹、波にきらめく光を自分の仲間と思ったのか、波のそばで盛んに信号を送っているのに気がついた。まもなくそのホタルはうねる波に落ちて湿った砂浜に打ち上げられ、あわてて光を点滅させていた。「そのあとどうなったかはおわかりでしょう」と、レイチェルは翌朝はやくスタンとドロシーに手紙を書いている。  
私は海に入ってホタルを救い出し(鬼火をつかまえようと、もう膝まで冷たい水に入っていたので、またぬれることなど気になりませんでした)ロジャーのバケツに入れて羽を乾かしてやりました。帰るときにはポーチまで連れてきました――そこならもう海の燐光には誘われないでいるだろうと願いながら。これをもとにした子ども向けの物語がすぐに浮かんできました――実際に書くことはないかもしれませんが。

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苔の花…スパニッシュモス

 今日は表題に「苔の花」を選んだ。というのも、誰かが「スパニッシュモス  光合成」というキーワードでネット検索したら、小生のサイトをヒットしたらしいのである。
 らしいのである、というのも曖昧な言い方だが、試しにこの検索語で検索してみても、我がサイト(の頁)をヒットしないのである。だけれど、アクセス解析の検索フレーズの中に、これらのフレーズが確かにリストアップされている。
 不思議。
 ところで、光合成という言葉は、珍しくもないし、小生だって幾度かは使っている。「ツツジの季節の終焉…緑滴る」での使用頻度が高いが。
 では、「スパニッシュモス」という言葉はどうか。小生、園芸その他についても疎いので、この言葉、それとも植物名が珍しいのか、あるいは関係者には馴染みのある名称(植物・素材)なのか、分からない。
 ただ、自分自身に事寄せて言うと、この「スパニッシュモス」なる名前は、実に拘りの強い対象なのである。

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2005/06/11

『KAZEMACHI CAFE』…読書メモ

 過日、図書館から借り出してきた『KAZEMACHI CAFE』(ぴあ 2005/03/19刊)を読了した。本書の大凡の性格に付いては、この季語随筆「KAZEMACHI CAFE…歌謡曲」(2005.06.06)で既に書いている。
 まあ、対談集なので、松本隆という逸材と、これまた才能溢れる方たちとの対談をひたすら楽しめばいい。何をコメントする必要があるわけもない。
 なので、脈絡も何もないメモ書きの羅列と相成るが、仕方ないと思っている。
 名前については敬称を略させてもらう。超有名人であり、一個の社会的財産となっているが故の敬意の所以である。

 松任谷由実との丁丁発止の対談の中で、ちょっと驚く記述を見つけた。尤も、何も驚く必要などないのかもしれないが。
 それは、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自決した時、松任谷は「風都市」という、当時、松本隆がそのメンバーでもある「はっぴいえんど」が所属していた音楽事務所に居たというのだ。その音楽事務所は市ヶ谷に当時、あったのである。
 なんでも、松任谷の旦那様である正隆氏が事務所へ月給をもらいに行くのに付いて行ったのだという。
 せっかくなので、市ヶ谷の旧参謀本部の貴重な画像などを見てもらってもいいかも。
市ヶ谷の参謀本部について

 事務所(の屋上?)のドアを開けると、自衛隊のバルコニーが見え、何かのノイズが聞えていたというのである。三島由紀夫のアジ演説の声だったのか、警官隊の応じるマイクの声だったのか。それとも取材するヘリコプターの騒音なのか。
「ノイズ」という松任谷の言葉の選択が面白い。
 松本隆も松任谷由実にとっても、三島由紀夫らの行動が、あるいは時代の学生運動自体が「ノイズ」だったのだろうか。何か違うよ、ということなのか。勿論、こんな言い方では身も蓋もないというか、鰾膠(にべ)もないことになる。都会人特有の斜に構えたような独特なセンスもあるのだろうし。
 いずれにしても、時代はフォーク、それも没社会的な、政治的メッセージの欠片もないような、吉田拓郎であり、かぐや姫の神田川であり、ガロの学生街の喫茶店であり、井上揚水的な私小説的なフォークに主流が移っていきつつあった。

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2005/06/10

エンコントロ(4)

05エンコントロ(4)」へ引っ越しました。

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蛍の光…惑う光

 今日もラジオで聴いた雑学的な話をあれこれ順不同でメモ書き風に書いておく。後日、気が向いたら、そのどれかを掘り下げてみることがあればいいなと淡い期待をしつつ、メモに移ろう。

 NHKの「ラジオ深夜便」という番組は、サッカーなど特別な番組がない限りは、できる限り聴くようにしている。夜、そして夜半になると民放のラジオは若者向け一色になり、中高年は相手にされないから、聴くようにしているというより、余儀なく聴いている側面もないとは言えないが。
 昨夜半過ぎは、「茶の心、和の心」というテーマで茶道裏千家の千玄室さんの話。これはほとんど聴けなかった。まあ、一応は仕事中だから仕方ない。
 そのあとは、「失敗こそが独創を生む」というテーマで、工学博士(宇宙工学)の五代富文さんの話。

 五代富文さんというのは、宙開発事業団(NASDA)の副理事長まで務められた方で(00/10/24付け退職)、日本初の純国産ロケット「H-II」の開発に当初からかかわった、H-IIロケットの生みの親という人物。
『国産ロケットH‐2宇宙への挑戦―最先端技術にかけた男たちの夢』(徳間書店)や『ロケット開発「失敗の条件」―技術と組織の未来像』(共著、ベスト新書)などの著書があるようだが、小生はいずれも未読。
 特に後者は、「宇宙開発事業団が生んだ初の純国産ロケットH‐2は、続けざまに「失敗」した。開発者たちは、そこから何を学び何を教訓に残したのか?2001年夏、いよいよ新型ロケットH‐2Aをひっさげて、大国が群雄割拠する宇宙ビジネスの世界に参入してゆく。ロケット開発の黎明期から従事してきた研究者と日本の宇宙開発を長年追い続けてきた取材者とが、わが国のロケット開発における「失敗」を徹底的に討論した」という内容らしいが、幾分かは昨夜の話と重なる部分があるような気がする。

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2005/06/09

螢籠

 例によって「6月の季題(季語)」を眺めて、今日の表題は何がいいかと物色している。
 でも、物色しているというのは、ちょっと前向きすぎる表現かもしれない。むしろ、表を眺めているうちに何かいいアイデアが浮かんでこないかと、淡い期待を抱いて、立ち尽くしているといったほうがいいのかもしれない。
 いや、立ち尽くしているというのも、きつすぎる。
 毎日の献立に頭を悩ます主婦のよう…などと書き始めようとして、さて、小生は主婦の経験は勿論、ないし(一応は男の端くれだし)、安易過ぎる喩えかなと思ったりする。でも、八百屋さんやスーパーに向かうとき、今日はこの料理がいいという目当てや目論見があって、というより、店先に並ぶ野菜や魚、総菜などを眺めながら、なんとなく目に付いたもの、目玉商品だと店で宣伝しているものをついつい買ってしまうという経験が主婦されている方には多いのではと思ったりする。
 主婦と書いたが、日々、スーパーへ買い物に行くと、いい男の方が店内をうろうろされているのを結構、目にするようになった。主夫する男性が増えているということか。主夫ではなく、出張などで一人暮らしされているのか、あるいは事情があって独り者になってしまったのか…。
 まあ、余計なお世話だが、自分を思うと、身に抓まされてしまう。
 さて、店先に…じゃなく、季語例の表を眺めていて、その例の多さに圧倒されてしまう。少ないのも困るが多すぎるのも逆に困る。目移りどころじゃない。気後れに近い。
 つい、何故か、「蛍」じゃなく、「蛍籠」に目が向く。

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2005/06/08

日記拾遺…いちこつ

 昨夜、営業中のこと、車中で聴いていたラジオで、小生には初耳の話を聞きかじった。メモするゆとりもない状況だったので、幾つかの言葉を覚えておいて、あとでメモ。
 キーワードは、「いちこつ 富山 駅 発車(NHK)]である。最後の(NHK)は、聴いていたラジオ局のこと。
 話は、音が話題になっていて、語り手の名前を聞き漏らしたのだが、声の調子や話の内容などからすると、日本音響研究所鈴木松美(すずき まつみ)氏と思われた。
 インタビュアーは分からないが、どうやら番組は、「放送日:2005年6月7日(火)20:00~21:00
番組名:ふれあいラジオパーク(NHKラジオ第一) 内容:音に関する話題でトーク
」のようである。
 顔の骨格などから声がある程度再現できるとのことで、モナリザやベートーベンの再現された声など聴かせてくれた。
 また、聴く方が心地いい声は、<ゆらぎ>のある声で、音響の画像で見た場合、一定の周波数の1/fという波を描く声ということで、その代表的な実例として美空ひばりさんが歌う「川の流れのように」を例にあげていた。
 ビブラートのあるくだりということで、きっと、あの「さび」の部分だろうと推測したら、まさにその通りで、「あーあー、川の流れのように」以下の箇所。美空ひばりさんは、その部分をサビということもあろうけれど、意識的にゆっくりゆったり歌っていると小生に聞くたびに感じさせてしまう箇所でもある。
 それにしても、美空ひばりさんの歌うスタンダードナンバーは絶品だ。彼女の歌うジャズもノリノリ。凄い!

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2005/06/07

天の川…光害

 いつもながら、季語随筆の表題を選ぶのに悩む。季語例の少ないのも困るが、多すぎるのも目移りして悩ましい。表題を選ぶというより、つまりはテーマを何にするか、なかなか考えが纏まらないのだ。
 まっさらな画面に向かってから何を書くか、考えようとするのだから、当たり前すぎる窮状に過ぎないのだろうが。
 六月の季語例の表を眺めていて、やはり「蛍」か、その類義語から選ぶかと思って迷っているうち、ふと、以前、「光害」の周辺を調べてみたことがあったのでは、と思われてきた。
 蛍から光へ、いかにも小生らしい素直というか、分かり易過ぎる連想ではある。人柄が偲ばれようというもの。
 その小稿の表題は「光害のこと」で、昨年の秋に書き上げたもの。「光害」は「ひかりがい」と読ませるらしい(小生が、そのように読めというのではないことは、拙稿を読んでもらえば分かる)。
 蛍から光では安易過ぎると、少しだけ飛躍して(それにしても想像の飛躍力も随分と貧弱になったものだ。やはり、肉体の劣化に想像の退化も並行するのだろうか)、「天の川」にしようかと考えた。
 拙稿、「光害のこと」の末尾に示されるキャッチフレーズ(?)が、「都会のど真ん中で天の川を見る!」だからという真っ当な(?)理由もあるし。

 が、ここで困ったことが。「天の川」は「8月の季題(季語)一例」の中の言葉なのである。つまり、季語(俳句)上は、「秋」なのだ。この辺りの理屈は、小生、うまく理解できていないので、説明が出来ない。とにかく、夏の季語ではないことは注記しておく。

「朝立(あさだち)や馬のかしらの天の川」という内藤鳴雪の句も、あまりに有名な芭蕉の「荒海や佐渡(さど)に横とう天の川」も、季語は「天の川」で、「秋」の句の扱いとなってしまう(「がんばれ凡人!」の中の「覚えておきたい有名な俳句・短歌」という頁で見つけた)。
「荒海や佐渡に横たふ天の川」なる句の評釈に問題のあることは、以前、触れたことがあるので、ここでは深入りしない。
「天の川」という語の織り込まれた句は、ネットでも少なからず見つかる。たとえば、「戸隠や顔にはりつく天の川  矢島渚男」(「ikkubak」より。同じく「ikkubak」からは、「玄海を源流として天の川   松本ヤチヨ」という句も見つかった)。

 都会では天の川は拝めなくなって久しい。
「生活が快適になっていく中、当然のように道は外灯で照らされています。家の中も当然のように電灯をつけて明るく夜を過ごせます。 一方、これらによって、天の川の見える場所が少なくなってきています。天の川は、昭和46年7月12日に東京23区の練馬区で観測されたのが最後だという報告もあります。つまり、天の川が見えなくなって、もう30年以上の月日が経過しているのです。子どもたちだけではなく、その親の世代までも天の川を見たことのない人々が増えているのは事実です。夏の風物詩、また俳句の季語(実際のところ、天の川はなぜか「秋」を表しますが)にもなっている天の川が、地上から、私たちの生活から離れている…、そう考えると少し淋しさを感じますね」というのは、都会にあって天の川を眺めあげた経験のある方の実感なのだろう。
 この引用は、「銀河-天の川、見たいな・・・」からである。
 このサイトには、「茨城県新治郡新治村東城寺(本堂は平成9年に焼失)付近に源をもち、土浦市、千代田町、石岡市と流れて霞ケ浦に注ぐ川があります。名前は「天の川(あまのがわ)」です」なる一文があったりして、微笑ましい。
 ということで、拙稿「光害のこと」へどうぞ。

[いろいろブログサイトでは更新しています。たとえば、「投句の細道」や「無精庵万葉記」など。ただ、エンコントロ(4)として、画像を載せるつもりでいたが、時間を設けることができなかった。後日、改めて試みるつもりである。]

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2005/06/06

KAZEMACHI CAFE…歌謡曲

 過日、図書館から借り出してきた『KAZEMACHI CAFE』(ぴあ2005/03/19刊)を読んでいる…それとも楽しんでいる…あるいは懐かしんでいる。
 本書は松本隆対談集で、16人の対談相手がおり、「谷川俊太郎 桜井淑敏 林 静一 太田裕美 細野晴臣 佐野史郎 大瀧詠一 筒美京平 薬師丸ひろ子 藤井 隆 松 たか子 萩尾望都 松任谷由実 町田 康 妹島和世 是枝裕和」といった面々である。
 小生は、作詞という時の詩と、所謂「詩」との区別や異同がよく分からない。作詞される方は、初めから曲となることを想定して作詞される(場合もあろうけれど)とは限らない。むしろ、作詞というより、あくまで作詩なのではないか。
 この辺りの創作の心理は、分からない。
 詩にも疎い小生、そんなに詩に親しんできたわけではない。むしろ詩を作詞の詞に広げていいなら、圧倒的に詞の世界に影響されてきたと思う。
 詩を創造する方は尊敬する…というより、尊敬の念を以って見てしまう。が、小生、作曲される方のほうが遥かに強い、そう、もう、畏敬の念といっていいような感覚を抱いてしまう。
 だから、むしろ、だからこそ、作詞の詞の世界に戸惑ってしまう。

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2005/06/05

黴の宿

6月の季題(季語)一例」を眺めていたら、表題の「黴の宿」に目が止まった。
 表を見れば分かるが、「黴(黴の香、黴の宿)」とあるのだが、その中の「黴の宿」に焦点が合ったのである。
 いつもの「夏の季語(行事・暮らし-50音順)」を覗かせてもらうと、「黴(かび)」は「黴の宿 黴けむり 黴の香 黴びる」といった類義語があり、「菌類のうちで、きのこを生じないものの総称」とある。
YS2001のホームページ」の「黴(かび)」の項を参照させてもらうと、「別名⇒毛黴(けかび)、青黴(あおかび:餅や食物などにはえる普通のかび)、麹黴(こうじかび)、黴煙(かびけむり)、黴の家(かびのいえ)」などの類義語もあるようだ。
 旅の宿ならば風流で、あるいは艶っぽかったりするが、「黴の宿」も「黴の家」にも、意味合いがどうであろうと、住みたくない!
 けれど、ネットで調べたかぎりでは、「黴の宿(家)」の説明を施してくれるサイトを見出せない(誰か、分かる人がいたら、教えて欲しい)。
 いくらなんでも、黴で作った家とか宿ということはないだろうから、梅雨の頃となり、我が家が、あるいは今宵、草鞋の紐を解く宿が(ちょっと古い表現すぎたか)湿気のせいもあり黴臭いということなのだろうと、推察はする。
 まして、「黴煙(かびけむり)」となると、小生のひ弱な想像力では、どう考えていいのか、ただただ戸惑うばかりである。

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2005/06/04

センス・オブ・ワンダー…驚き

 小生が「センス・オブ・ワンダー…神秘さや不思議さに目を見はる感性」という言葉に出会ったのは、高校時代のことだったと思う。
 但し、レイチェル・カーソンの言葉としてではなかった。確か、記憶では「驚異の念」といった訳が宛がわれていたような気がする。もっと、単純に「驚き」の一言だったか。
 何処で遭遇したかというと、悲しいかな本の題名も内容も覚えていないのだが、いずれにしろ哲学の入門書か解説書の中でのことではなかったか。
 もしかしたら、「スピリット オブ ワンダー」という言葉だったかもしれない(同名の鶴田謙二によるSF漫画があるらしい)。
 小生は推理小説よりSFモノに傾倒したくちだが、それは人間が推理しえる範囲はタカが知れているという尊大な思いもあるが、それ以上に、感じ、思い、想像し、空想し、妄想し、推理し、思惟する人間が土壇場に追い詰められたなら、最早、思惟も推理も通用せず、それどころか逞しく膨らんだ妄想さえも凋んでしまうような現実がある。
 というより、そもそも現実がある、存在がある、否定しても否定しきれない何かがあるというそのこと自体の不可思議の念こそが、究極の驚異なのだと、早々と決め付けてしまったのである。
 まさにせっかちで短絡的な性分がよく出ている。
 科学や技術、文学や思想、人間という存在。その心理(真理)や機構のメカニズムも興味津々だが、夜明けの海の光景、夕日の沈みゆく山の光景など、その荘厳さに息を呑む思いに駆られた人は多いだろう。
 けれど、そんな大仰な風景でなくても、レイチェルではないが、身近な何気ない光景、風に揺れる木の葉、水道の蛇口に今にも垂れ零れそうな水滴のその雫一滴の世界の豊かさ、そばにいる人(ペット)の産毛なのか知れない毛の得も言えぬ柔らかさと愛おしさ、ふと歩き出した一歩の足の裏に感じる大地の感覚、その一つ一つ、あるいはその一切があるということ自体の切ないほどの不可思議さの素晴らしさはどうだろう!
 プラトンやアリストテレスは、哲学…それとも学問は素朴な驚きの念に始まると言ったとか。もしかしたら、その説明の一端でセンス・オブ・ワンダーという言葉を知ったのだろうか。
 小生が密かに大事にするセンスは、端的には違和感に尽きる。ちょっとした違和感から想像力の翼が羽ばたき始めるのである。蝋燭の焔よりもあやうくか細い感覚。そのセンスで、水面を決して飛沫を上げることなく、軌跡さえ残すことなく、まして波紋など生じさせるはずもなく、どこまでもなぞっていく。指先が濡れているようないないような。花を愛でる…けれど、決して触れない、まして手折るなど論外…花や草を路傍にあるそのままに愛惜する…接したい…けれど溜め息一つ洩らすことのないままに何処までもなぞりつづける気の遠くなる程のオレンジ色の営み。
 それこそがセンス・オブ・ワンダーの醍醐味なのだろうと、決め付けたところから小生の人生の間違いが始まったのだろう。

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2005/06/03

遺伝子という蛍?

 せっかちな性分には困ったもので、6月の季語例のうち、「木下闇」や「青葉」「五月闇」、「五月雨」などと早々と扱ってしまっている。幾ら五月は季語例が比較的少ないとはいえ、困ったものである。
 一方、六月は季語例がなかなか賑やかである。さすがに夏の気配が濃厚に漂い始めている。「蛍」もいいし、「ぼうふら蚊」も面白そう。「蟻地獄」や「蛆」などがあって、怖いもの見たさで扱ってみたくなる季語もある。
閑古鳥」などは、季語だということを一切、意識することなく、ただの興味本位であれこれ調べてみたことがあったりして。
「夏の蝶」という季語があるが、小生は「冬の蝶」なる季語随筆を綴ったことがある以上は、こちらも詮索してみたい。
「目高」や「鮎」は川や山や里、野原などとの絡みでいろいろ想像をめぐらす余地がたっぷりありそう。そうかと思うと、「蚤」も面白そうだし、「守宮」なんて、あれこれ連想が働きそうで、もう、目移りして困る!
「蛇」や「蝙蝠」も今頃からの季語。春先だと「啓蟄」ということで虫(幼虫)などが蠢き始めるのだろうが、梅雨の時期には、いよいよ大人になりつつある虫が活躍し始めるということか。
 で、そんな中、今日は表題に「蛍」。でも、これは看板に偽りあり、である。以下、扱うのは「DNA」というタイトルの本で、つまりは遺伝子の物語。小生、なんとなく遺伝子というと、わけもなく蛍光色を連想してしまうのである。遺伝子の分子構造(塩基配列の決定)などを探る際、ある蛍光標識試薬を使うという断片的な情報が脳裏にインプットされているらしいのである。
 分子構造が蛍光色のもと、垣間見られる…。素人の勝手な想像だと、遺伝子という微細な蛍が幽明境を飛び回っている、などといった光景を思い浮かべてしまうのだ。

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2005/06/02

エンコントロ(3)…サンバ写真

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2005/06/01

東京は坂の町でもある

 日曜日にサンバのイベントに行ってきて、昨日、そして今日と疲労の度が増している。踊ったわけでもない、大して働いたわけでもないのに。予想外の快晴に、軽い熱中症か、それとも立ちっ放しという久しぶりの状況に体が参った?
 我が居住する大田区からイベントのあった横浜・八景島シーパラダイスまでは、バイクで往復でも45キロ。ただ、湾岸の高速は海辺の風が吹きっさらしで、結構、神経を使う。
 ただ、こうしたミニツーリングは楽しい! 普通の乗用車よりは座高が高い。だから、車から見る風景とは、ちと違う。
 タクシーなどで湾岸線も走ったことがあるが、仕事中ということもあって風景を愛でる余裕はないが、バイクでは、前後に車のないときなど、海辺の光景をきょろきょろして楽しんでいた。
 東京の高速は、線路や道路、他の高速道などと幾重にも交差しリンクしているので、緩やかな上り下りが続く。
 そうしているうちに、やや連想の仕方に飛躍があるものの、東京って坂の町だったよな、などと思ってしまった。
 せっかくなので(?)、ここに、一昨年の春に綴った「東京の坂道」を巡る雑文を載せておく。
 それにしても、「サンバ」って夏の季語にならないものか。
 さすがに「坂」は、季語になりようがないだろうけど。

[ 後になって気づいた。何故、曲がりくねり緩やかな上り下りの湾岸がどうしたとか、坂の町がどうしたなどという話を連想したかの理由。秘密(というほどじゃない)は、エンコントロの画像を見てもらえばいい。イベントの行われた会場のステージ、その背景を見て欲しい。そう、ジェットコースターだ。小生、休憩時間などに、ぼんやりジェットコースターの様子など、眺めていたのである。普通なら地上世界を圧倒するジェットコースターの音や観客の歓声に耳を聾されてしまうはずが、サンバの音楽や歓声、そして熱気はそんな世界をも呑み込んでいたのだった。 (05/06/02 追記)]

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